第五章
第五章
日の昇った駅前は深夜の静けさから一転、通勤通学に急ぐ人たちの雑踏で溢れている。
相変わらず肌寒いものの、朝日に照らされた駅前は深夜に見せる怪しさとは異なり、朝特有の爽やかな空気感に包まれていた。
車のところまで辿り着いた晃は少し汚れた車体の言い訳をしながら、藍と共に乗り込んだ。
駅前を去る時、サイクリングロードの入り口が見えた。
少し緊張する二人だったが、特に何もおかしいところはなく、深夜の怪しさがまるで無かったかのように爽やかな光景をみせていた。地元の人だろうか、トレーニングウェア姿でランニングする人が数人見える。
「藍ちゃん、近くのコンビニまででいい?」
晃と藍は実は最寄のコンビニが同じくらい近所に住んでいた。二人ともその事実に笑いながら、妙な親近感を覚えていた。
「はい。ありがとうございます。…とりあえず、学校いかなきゃ」
藍の言葉に晃は急に現実に引き戻され、頭が重くなった。
どちらに転んでもいい。そう思ってはいたが、サイクリングロードが実際に存在し、何故か無事に帰ってきてしまったという現実。帰ってきたからには、とりあえず何事もなかったように行動せざるを得ない。藍との約束…ではないが、どうせ誰に話しても信用しては貰えないだろう。
「あれはどういう意味だったんだろ…」
ふと、藍がうわごとのように呟いた。
「あれって?」
晃が前を見ながら問いかけると、
「あの途中でいたお爺さん。『もう後戻りはできない』って言ってたじゃないですか。でも、こうして生きて戻って来てるし…うーん」
確かにそんなことを言っていた。しかし、藍の言うとおり現実に戻って来た。少し考えてから晃は、
「でも、実際生きてるからね。最後で飛び降りるなんで思ってなかっただけじゃないかな」
最後の光景を思い出して二人は沈黙してしまった。
まるでレールにでも乗っているかのように勝手に走る自転車と、その先に見えた漆黒のトンネル。あのまま入っていったらどうなっていたんだろう…。それよりもあの時飛び降りたってことは、やはり自分は死にたくないのかもしれない…。二人は全く同じことを考えながらも、何一つ言葉にできなかった。
そしてそのまま車を走らせること三十分。二人は自宅に最寄のコンビニまで帰ってきた。
何かの縁だからとメールアドレスを交換した二人はそれぞれの帰路につく。晃はアパートの駐車場に車を止めると自分の部屋にあがっていく。
(時間的にすぐ出ないとギリギリだな…)
晃は着の身着のままで荷物だけ持って出勤する予定だった。徹夜でサイクリングした直後であるが、こればかりは仕方ない。休もうかとも思ったのだが、普通に学校に行くと言っていた藍に悪いような気がして、その考えは掻き消された。
部屋のドアを開けると、部屋内に明かりがついていた。
(あれ?俺消さなかったっけ?)
晃は疑問に感じながらも、今すべきことをやろうと部屋内へ進むとそこには見知らぬ男の姿があった。
「「…誰だ?」」
ほぼ同時であるが、晃と男は同じセリフを発した。と、同時にお互いの姿を確認する。見知らぬ男は晃とよく似ている。年齢の感じ、身長、体つきもほぼ同じである。
晃が困惑していると男は不気味な笑みを浮かべて、
「ああ、君か。なんだ、生きていたんだ」
そう言って晃の周りを、まるで観察するように回った。一方の晃はこの言葉の意味を考えながら、異様な手汗を感じていた。
(…生きていた?だと?こいつは…まさかあのサイクリングロードの関係者か?)
「…い、生きていたって、どういう意味だよ?」
晃は異常なほどの緊張に普通に話すことも困難で、すぐにでも逃げ出したかった。しかし、緊張のあまり、足が動かなかった。やっとの思いで絞り出した言葉も、聞こえるか聞こえないか、自分でも情けなくなるようなものだった。
男は晃の正面に立つと真顔で、
「どういう意味って、そのままの意味だよ。君、あのサイクリングロード完走したはずなのに、何で生きてるんだよ」
やはり、この男はサイクリングロードの関係者のようである。しかも、晃が完走したことも知っている。晃の額からは大粒の汗が零れ落ちた。
「…そ、そんなことどうでもいい。ここは俺の部屋だ、これから仕事に行かなくちゃいけないんだ。さっさと出て行ってくれ」
晃の言葉に男は、
「あーそれね。もう無理だよ」
男は半笑いの怪しい表情を作ると、
「君はもうこの世にはいないことになってる。そして僕は君の代わりに君のすべてを受け継いだ。もうこの世に君の居場所はないんだ。さっさとどっかで死んでくれない?」
晃は男の言葉を聞くと俯いて考え込んでしまう。
(俺のすべてを…?そんなバカな話があるか。…でももし本当だとしたら…いや、そんなはずは…)
晃は顔を上げると何かを振り切ったかのように仕事へ行く準備を始めた。
それを見た男は、
「おやおや…往生際が悪いね。ま、自分の目で確かめてみるのもいいさ」
そう言って晃の様子を見守っている。
そして晃は準備を済ませると男を振り返り、
「仕事から帰ってくるまでには出ていけ」
そう言い残して部屋を後にした。
晃の会社までは車で数分。その数分間でやっと緊張は解けたものの、『あの』男のことが思考の大半を占有していた。
(俺の代わり…?死んでるはず…?やはりあの漆黒のトンネルに入っていたら死んでいたんだ…でも…全ての身代わりとか、あまりに非現実的すぎる)
晃は考えれば考えるほど分からなかった。しかし現実として目の前に変な男が現れた。晃は誰か自分のことを知っている人に会って自分自身を証明したかった。
会社に到着すると、ちょうど同僚の山岡の車が横に到着した。
「やあ、山岡おはよう」
山岡が車から降りるタイミングで声をかける。しかし、山岡は晃を見ると、
「…あ、おはようございまーす」
と、どこか他人行儀で、そっけない挨拶のままさっさと行ってしまった。
一抹の不安を感じながらも晃はいつも通り職場まで歩いて向かう。周囲の光景はいつもと変わらない。しかし晃は、何か違うものを感じながら歩を進めていた。
そして職場に到着すると晃は、いつものベンチに腰掛ける。すると周囲の人は訝し気な目線を向けてきた。普段なら特に気に留めない晃だったが、状況が状況なので口を開いてみる。
「…何か変なものでもついてるか?」
周囲が返答に窮していると、そこに山岡がやってきた。
「…あの、誰ですか?あなた」
予想していなかった言葉に晃は思考が停止しかけた。しかし、なんとか言葉を絞り出す。
「誰って…晃だよ。新田晃」
すると山岡たちは晃の後ろを示すと、
「いや、晃はそこにいる。朝から変な冗談はやめて、自分の職場へ行ってください」
晃が後ろを振り返ると、晃の自宅にいた『あの』男がいた。
男は晃に顔を近づけると小声で、
「だから、君の居場所はないって言っただろ?ここはもう俺の職場なんだ。さっさとどこへでも消えてくれないか」
そう言って仕事の準備に取り掛かった。
晃の思考はオーバーヒート寸前だった。『あの』男の言う『全て』なんて嘘だと思っていた。しかし、この周囲の反応はとても冗談を言っているようには思えなかった。なにより、朝からそんなことをするような連中でないことは、晃自身よく知っている。
始業の合図が鳴り響き、朝礼が始まる。しかし、晃を気に留めようとする人はおらず、粛々と仕事が始まってしまった。
晃は取り乱すこともできず、静かにその場を立ち去った。
晃は当てもなく車で街を彷徨い、とりあえず近所の公園でゆっくりと考えることにした。
街の環境整備とやらで作られた公園は様々な設備があり、平日の昼間であっても人影が消えることはない。
駐車場の片隅に車を止め、晃は今までのことを整理した。
『蒸発のサイクリングロード』とやらは存在した。そして完走した。…いや、実際には途中で飛び降りたのだから完走していないのかもしれない。そして、『主の使い』と称した爺さんは『もう後戻りはできない』と言っていた。もし、あの時素直に帰っていれば何もなかったんだろうか…。しかし、もう自分の周りに大きな変化が起きてしまった。どうやら自分の代わりの存在が出てきて、自分はもう用済みということらしい。確かに後戻りはできないみたいだ。
晃はしばらく考え込んでいたが、やがて考え疲れてそのまま眠ってしまった。
どのくらい経っただろうか。晃は車の窓ガラスをノックする音で目が覚めた。
晃はゆっくり体を起こすとそこには大学時代の友人である、大下の姿があった。
晃はすぐに外に出ると、
「大下!久しぶりだな!何やってんだよ昼間っから」
「晃もこんなところで昼間から油売ってるとか、いい身分だな!」
大学時代の友人とはいえ、この大下は少し特別だった。
親友に近いが、二人とも積極的に連絡を取るような間柄でもない。しかし、会えば一瞬で時間が戻ってくる。晃は大学時代の懐かしい気分を味わいながら大下と昔話に花を咲かせていた。
気が付けば数時間が過ぎ、ふと気が付いた晃は、
「っていうかお前、こんなところで何やってんだよ」
普通なら一番最初にはっきりさせておかなければならないような質問である。すると大下は、
「ああ、ついこの前、会社を辞めてな。ちょっと今車でフラフラしてるんだ」
実は以前にも同じようなことがあった。突然連絡があったかと思ったら、一晩泊めてくれというもので、その時も同じように『会社を辞めて放浪中』と言っていた。晃は『またか』と思いながらも、
「お前な…いい加減…いや、もうその歳までそれじゃ、治らんか」
そういうと二人は大声で笑い合った。すると今度は大下が同じようなことを聞いてきた。
「って、お前こそ何でこんな平日の昼間に公園で寝てるんだよ。仕事は?」
大下の言葉に急に現実に引き戻された晃は、
「…実はな」
これまでのことをできるだけ細かく、覚えてる範囲で大下に説明した。
大下は空気を察したのか、黙って聞いていた。そして一通り説明を終えると晃は持っていたコーヒーを一口飲んだ。すると大下は、
「なるほどな…で、その藍ちゃんってのはかわいいのか?」
晃は『ガクッ』と力が抜けた。
「…お前な、そこ、大事なところか?」
すると大下は、
「あたりまえだろ!それ以上重要なところがあるか!」
妙に力説する大下に晃は力が完全に抜けた。昔からこういうヤツなのだ。しかし、そのせいで晃もかなり気が楽になってきた。これを大下が狙ってなのか、素なのかは定かではない。
「まぁ、ぶっちゃけると、俺の好みだよ。ああ、かわいいよ」
晃は少し照れながらもそう語ると大下は、
「やっぱりか。お前がタダで助ける訳ないもんなぁ」
と、さらに茶化す。
確かに晃自身、下心がないわけではない。『ありえない』と分かっていても期待をしてしまうのは、男の悲しい性である。しかし、晃は、
「でも、二十二歳も離れているんだぞ。もうそんな気はないよ」
一般論である。十歳くらいならいざ知らず、二十歳以上の歳の差ともなれば、なかなかその差を埋めるのは難しい。しかし大下は、
「わからないぜ?現にそのサイクリングロードってのに入ったって共通点があるんだろ?大きなアドバンテージじゃないか」
とことん、ポジティブな大下である。
人間はその生存本能から、危機回避をしやすくするために標準的は思考はネガティブなのだという。故に大きくポジティブ思考に傾いている人間は少ない。しかし大下は、今でも会社を辞めて明日をも知れない状況にもかかわらず、非常にポジティブである。晃はそんな大下に強い憧れを抱いていた。
妙に納得させられた晃に大下は、
「ま、とりあえずさ。今日は再会を祝してメシでも食いにいこうぜ」
不本意とはいえ、空いてしまった時間。現状でいい手が思いつかない晃は、大下と共に近所にできたレストランに入った。
お昼時ということもあって、盛況な店内において、奇跡的に最後の一席を確保できた二人はそれぞれ日替わりランチを注文した。店内を見回していた大下が口を開く。
「それで?お前これからどうするんだ?」
『どうする』と問われて晃は返答に困ってしまう。
実のところ、晃には職場以外に宛てはなかった。アラフォーで独身、趣味も特にない男となれば交友範囲はどうしても狭くなってしまう。狭いというより、『ない』と言ったほうが正しいのかもしれない。
返答に困っていると大下は、
「俺を頼るなよ?夕方には西へ移動するつもりだからな」
「別に頼ろうとも思ってないよ。って、西?お前はどこを目指しているんだ?」
放浪する者を頼る者はいない。晃自身、そのつもりもなかった。
大下は大きく口を開けて笑いながら、
「どこも目指しちゃいないさ。…強いて言うなら、自分かな」
晃は呆れた。『自分探し』を否定する気はないが、こうも堂々と言われるとかえって清々しい。こういうセリフを堂々と言えるような生き方に、晃は少し憧れていた。
そういった晃の心中を察してか大下は少し照れくさそうに、
「そんなことより、お前のことだよ。ちょっと整理してみようぜ」
そう言うと大下はメモ用紙を取り出した。
「そのサイクリングロードから帰ってきたら、お前の部屋が知らないやつに占領されてて、会社でも知らない人扱いだったんだな。まるでお前とそいつが入れ替わったみたいに」
晃は無言で頷く。大下はさらに続けて、
「サイクリングロード自体は完走ってわけじゃなく、途中で離脱した。と。じゃ、やっぱその爺さんが言ってたとおり、お前はこの世からいなくなる存在で、その穴埋めとしてそいつが収まったってことか」
晃は大下の手元を見たまま考えていた。
(そうだよな。俺がそんな軽はずみなことするから…)
無言の晃に構わず大下は、
「じゃ、さ。俺がお前のことを普通に覚えているのは何でだ?」
晃は思わず大下を凝視する。
「そういえばそうだな。入れ替わったんだったら、俺の周囲の人はすべて記憶が変わってないとおかしい」
大下は久しぶりに見るドヤ顔をつくると、
「そういうことだ。そいつが何者かは知らん。が、すべてを掌握しているわけじゃないってことだな。そしてすべて入れ替わってないんだとしたら、まだ勝機はあるんじゃないのか?」
晃は思わず身を乗り出して、
「勝機?どうすれば取り戻せる?」
大下は晃の肩を押し、なだめると
「まあまあ、落ち着け。だいたい、俺が知ってるお前なんてたかだか知れてる。その、ヤツが掌握できてないお前はお前しか知らない。それが今のお前の救世主となるかもってことだ」
大下は残っていたランチを掻き込むと、
「大体お前、今一人暮らしだろ。実家には行ってみたのか?まぁ、そんな分かりやすいところにヒントを残しておくとは思えんが」
それを聞いた晃は『あっ』と小さく声を上げた。そう、連絡してすらいなかった。しかし、晃は以前から実家は避けるようになっていた。幼少期の記憶もあって、あまりいい思い出がないからだ。いつしか実家に立ち寄ることといえば、妹の愛に呼ばれたときくらいになっていた。しかし、少し疎遠だから、とはいえ、実の親子関係が簡単に壊れるほど安くはないだろう。
「そう…だな。後で行ってみるか」
晃はそう言うと残っていたランチを片付けた。
レストランから出ると大下は、
「悪いな!また今度奢るから!」
そう、大下は財布を車に置いてきたのだった。いや、最初からそのつもりだったのだろう。
晃も長い付き合いである。その程度のことは予想していたので、さっさと支払いを済ませていた。
「ま、期待せずに待っているよ」
大下は大きく笑うとすぐ真顔に戻って、
「おいそれよりも、だ。今思ったんだが」
突然真顔で迫られて引いてしまう晃。しかし大下は構わず続けて、
「藍ちゃん。お前と同じようにサイクリングロードから帰ってきたんだったら、お前と同じ事態になってんじゃないのか?」
晃はこれまで自分のことで精いっぱいだったため、全く考えていなかった。
「そういえばそうだな。後で聞いてみるよ」
大下は更に迫って、
「アホ!この後すぐフォローするんだよ!そんなチンタラやってるから逃げられるんだ!」
晃は更に引くと、
「あ、ああ。わかったよ」
半ば呆れ顔で同意した。
公園に戻ってきたところで大下は、
「じゃ、俺はそろそろ行くわ」
さっさと自分の車に戻り、
「すぐに藍ちゃんに連絡しろよ」
を念を押すので晃は、
「分かったよ。お前こそ、メシ奢れよ」
それを聞いた大下は右手を挙げてさっさと車を発進させて去っていった。




