第一章
第一章
月明かりが眩しい満月の深夜。一台の車が駅の駐車場に滑り込んできた。
駅前とはいえ、繁華街の喧騒とは一線を画したベッドタウンのようなものであり、時間のせいもあってか、無音映画のように異様な静けさが辺りを支配している。
車を降りた男は、思いのほか低い気温に思わず肩をすくめながらも、車から折り畳み式の自転車を取り出した。自転車を組み立てつつも周囲を見渡すが、繁華街ならまだしも、ベッドタウンでこんな時間に人影があるはずもない。
街灯こそ少ないが、満月の明るさに手元を照らす必要もなく、意外と視界の効くことに多少驚きを感じている。
「よし・・・いくか」
男は自転車に跨ると駅前を横切って駐車場とは反対方向へ走り出した。
この男は『新田 晃』。自宅近所の工場で工員として働き、端正な顔つきや短く切り揃えた髪、そして細めの顎など、実年齢よりも若く見られがちなことだけが取り柄の三十九歳である。その顔つきとは対照的に、茶色みがかった瞳には常に悲しみのような憂いが見て取れた。
数日前。
晃は実家に帰省していた。帰省とは言っても、車で一時間ほどであるが。
「ね~見てみてこれ!『蒸発サイクリングロード』だってさ!」
妹の愛が晃の腕を引きながら雑誌を見せてきた。愛は歳が十六歳も離れていることもあり、良好な仲を維持していた。…というより、ケンカになっても晃が折れるか宥めるのでケンカにならないと言った方が正しい。歳の離れた兄妹はとかくかわいいものである。
そして、その仲を妬むようにすぐ間に入ってくるのが、飼い猫の『ミー』である。
三毛猫の『ミー』は晃が高校生になるころに貰われて来た猫で、晃によく懐いていた。実家を出てからはほとんど会う機会もないはずなのに、たまに晃が帰省すると必ず布団に入ってくる。晃も表面上は疎ましがってはいるが、内心うれしく思ってしまうところがお似合いなのかもしれない。
しかし、平均寿命十五年と言われる猫であるが、この『ミー』は既に二十三年生きていた。晃はそろそろ猫又になるのではないかと思っていた。
晃が膝で丸まっている『ミー』を撫でながら雑誌を覗き込むと、『戦慄!完走すると蒸発するサイクリングロード!』との見出しが目に入った。
「すごいよね~。しかもこれ隣町じゃん!お兄ちゃんいったことある?」
確かに雑誌に載っている場所には晃も覚えがあった。近所にあるベッドタウンであるが、特に知り合いもいないこともあり、場所を知っている程度であった。
晃は興味なさそうに、
「ふ~ん。どうせ迷信だろ?人間が蒸発とか、あるわけないだろ」
愛は相変わらず晃の腕を掴んだまま、
「分かんないよー?あーそんなこと言って。お兄ちゃん怖いんでしょ?」
「んな訳ないだろ。貸してみろ」
晃はそう言って雑誌を奪い取る。
『満月の深夜、入り口で“我を助けよ、存在を消したまえ”と唱えた後、目を閉じたまま自転車を数メートル漕ぐとこのサイクリングロードに入ることができる。そして、終着点まで完走すると完全にその存在を消すことができる』
「こんな都合のいい話がある訳ないだろ…」
晃は雑誌を投げ返した。受け取った愛もすぐに別のページをめくりながら、
「そうだよね。でも、本当だったら怖いよねー。存在を消すって死ぬってことでしょ?」
「さぁな…」
愛の言葉を適当に受け流しながらも、晃の思考はこの記事に支配されていた。
あの記事を見て以来、晃はインターネットを使って情報を集めてみた。雑誌に記事が掲載されてからというもの、サイクリングロードに関する口コミやブログはいくつかあったのだが、適当に走ってみた程度のものばかり。現実のサイクリングロードの詳細は分かったが『存在を消す』ことに関しては全く分からなかった。皆怖いのか、都市伝説程度に考えているのか。
そしてこの日、晃は半信半疑ながらも試してみることにした。
噂が本当であれ、偽であれ、晃にはどちらでもいいのだから。
駅前を抜けるとすぐに駐輪場があり、それがサイクリングロードのスタート地点になっていた。辺りには車の通行もなく、静まり返っている。
晃が直前の道路を渡ろうとしたとき、サイクリングロード上に人影があるのが見えたので晃は思わずその場で停止して様子を伺う。
満月とはいえ深夜。人影から小柄であることは分かったが、自転車に乗っていること以外は目を凝らしてもよく分からなかった。
晃が停止してすぐ、人影は何事か呟いてすぐに自転車を漕ぎだした。
すると一瞬ではあるが、辺りを粘つくような生暖かい空気が流れたと思ったら、その場にいた人影が忽然と消えてしまった。
「え?」
晃は思わず声を上げて後を追ったが、サイクリングロード上には誰の姿も見えなかった。
「今のはなんだったんだ…?」
呆然と立ち尽くす晃の脳裏にあの雑誌の見出しが浮かび上がってきた。
『完走すると完全にその存在を消すことができる』
単なる都市伝説かと思っていたことが、急に現実味を帯びてきた。記事のとおりかは分からないが、少なくとも何かが起こることは間違いないようだった。もし仮に誰かがこのサイクリングロードを試したが、本当に死ぬ…存在を消されたとしたら、何の情報も得られないのも納得がいく。
晃はしばらく考えていたが、やがて顔を上げると真っ直ぐ前を向き自転車に跨ると、
「我を助けよ、存在を消したまえ!」
そう言って目を閉じて静かにペダルを漕ぎだした。
すると、生暖かく重い空気が晃を包み込んだ。晃は不思議な感覚に若干の恐怖を覚えながらも数秒間ペダルを漕ぎ続ける。
時間にしては数秒、晃を包んでいた生暖かい空気はすぐに消え、すぐに元の肌寒い空気に戻った。
晃は恐る恐る目を開けると、つい先程まであったサイクリングロードの上をそのまま走っていた。
「…今確かに何か来たような…気のせいか?」
晃はとりあえず停止する。しかし、考えて答えが出るとも思えなかったので、とりあえず前に進んでみることにした。
晃の調べでは、ここは約二十五年ほど前まで地元の鉄道が走っていたが、廃線となったあとにサイクリングロードとして整備されたものらしい。ところどころ駅の跡があるものの、普段は地元の人くらいしか利用しない自転車道である。事前に調べた情報どおり、しばらくは平坦な道が続いているようだ。そもそも、平地なのだから当たり前ではあるが。
満月に照らされた田園風景と小さな集落は一つの音も発することはなく静まり返っており、有名絵画の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚える。現実世界において、ここまで静かな状態に慣れていない晃はあまりの静けさに自転車を漕ぐ音を発していることにすら罪悪感を感じてしまう。
晃は遠めに見える街明かりに感傷的になりながらも、ゆっくりとペダルを漕いでいった。
しばらく走っていると前方に人影が見えた。どうやら同じ方向へ進んでいるようだ。
(こんな時間に…?さっきの人か?)
晃は自分の前にサイクリングロードに入っていった人影を思い出していた。
しかし、今前方に見えている人影は晃と同じくらい。とても先に行った人影とは思えなかった。
次第に距離が詰まり、そのまま併走するのも気まずいと思った晃は一気に追い抜こうとすると、
「お!新田!」
聞き覚えのある声が聞こえて、思わず振り返る晃。追い抜いた自転車に乗っていたのは会社の同僚である山岡だった。
(あれ…?こいつこんなところに住んでたっけ…?)
晃は多少違和感を感じながらも無視するわけにもいかないので、
「ああ、奇遇だな。こんなところで」
そのまましばらく併走することにした。
「そういえばお前、今年の評価どうだった?」
晃はそれほど親しいとも思ってなかったため、山岡の一方的な問いかけに晃が生返事で返す。
(よくしゃべるやつだな…)
そんなことを考えていると、
「じゃ、また明日な!早く帰って寝ろよ!」
山岡はそう言い残して青信号の光りが漏れる路地に入っていった。
(こんな時間にサイクリングか…変なヤツだ、…って俺もか)
改めて周囲を見渡すとサイクリングロードは集落の中に入り、廃駅の跡が見えてきた。
廃駅といっても辛うじてプラットホームが見える程度であり、注意してみなければ見逃してもおかしくない。駅名表示板は原型こそ留めているものの、ペンキはすべて剥げていてその文字を読むことはできない。しかし、月明かりのせいか、淡い光と共に妙な存在感を放っていた。
晃は歴史を感じつつも廃駅跡を通り抜けようとすると脇道から一台の自転車が合流してきた。
(こんな時間なのに、けっこう走っているんだな…実は流行ってるのか?)
遅いペースの自転車に晃はすぐに追いついてしまった。すぐに追い抜こうとしたが、ふと見ると見覚えのある顔に思わずペースを緩める。
「次長…?お久しぶりです!」
晃が新卒で初めて入社した会社の元上司の長井だった。
心から尊敬しており、目標であったこともあって未だに役職で呼んでしまう。
黒縁の眼鏡に不器用な笑顔。もう転職して十年近く経つにも関わらず、少し白髪が目立つようになった程度だった。
「ああ、新田君か。どうしたんだ?こんな時間に…」
晃は少し考えると、
「今、夜勤で…有休取って夜道をサイクリングしているんです」
長井は顔色を変えずに、
「そうか…ま、いろいろあるだろう…」
元々口数の少なく、背中で語る男であった長井はそれ以上語ることはなかった。晃のイメージどおりである。そのまま数分走ったとき、長井は不意に晃に顔を向けると、
「今は悪くても、できる最善を尽くすんだ。少なくとも、自分が良いと思える最善策を…」
その言葉が何を意味するのかは分からない。しかし、すべてを見透かされているような気がした晃は思わず目を背けてしまう。
「…はい」
本当にできる人は数少ない言葉で核心をついてくる。長井も要点をピンポイントで語るため、物静かな印象とは対照的に、物語る内容は広大な意味を想起させるタイプである。
(さすが次長…)
その後は特に話すこともなく併走しているとサイクリングロードは大きな道と合流した。
「じゃ、新田君。また今度酒でも飲もう」
そう言って月明かりも届いていない漆黒の路地へと消えて行った。
サイクリングロードは大きな道の脇を並走していたが、車通りが全くない深夜の道路というのは何か出てきそうで不気味なものである。そして晃の調べ通り、先には高速道路のインターチェンジが見えてきた。
オレンジの照明に照らされたインターチェンジは、不気味に周囲から浮いて見える。車通りがないこと以外はよくある光景ではある。
(田舎のインターチェンジなんてこんなもんなのか?)
高速道路上は防音壁などで状況は分からないが、晃が確認できる範囲に車は見えなかった。
すると、また前方に自転車が走っているのが見えた。
どこかで見たことのある風貌に晃が接近してみると、友人の鈴木だった。
「よ。こんな時間にこんなところで何やってるんだ?」
晃が問いかけると鈴木は晃を見て、
「晃か。お前こそ、こんなところで何やってるんだ?」
お互いに同じことを問いかけて思わず苦笑いをする。晃はまさか本心を言うわけにもいかず、
「そうだな…ちょっとサイクリングにな」
「そうかい…俺も同じようなもんだ」
鈴木も同じ調子で返してきた。
晃と鈴木は高校時代からの友人で、社会人になってからもよく共に行動していた。
どちらもあまり喋る方ではないため、二人の間に流れる空気は独特だった。しかし、長い付き合いのため、それが互いに安心できるものだった。
しばらく走っていると鈴木はしきりに晃を気にしているように見えた。
「…なんだ?」
思わず晃が問いかけるも鈴木は、
「…いや、なんでもない。最近は変わりないのか?」
変な奴だなと思いながらも晃は、
「ああ。お前も相変わらず忙しいんだろ。こんな時間に出かけてていいのか?」
鈴木は視線を前に戻すと、
「そうだな。お前こそこんな時間にココを走ってていいのか?」
晃は『ココ』という言葉に一瞬戸惑った。この一瞬の戸惑いさえも感じてしまうのはお互いを知っている証拠ではあるが、時として面倒なもの。鈴木は敏感に感じ取って、
「…まあ、深くは聞かないけど、言いたくなったらいつでも聞くぞ」
「…ああ」
サイクリングロードが上りに差し掛かったころ、
「じゃあ、またな」
鈴木もまた、近くの路地へと消えて行った。
やがてサイクリングロードは住宅街から緩やかな上り坂へと入っていく。
元々鉄道が走っていたこともあり、サイクリングロードにしては緩やかな方なのだが、普段運動をしない四十歳手前の男にとっては相当な運動量になっていた。事実、晃は少し後悔していた。
(自転車ってこんなにキツかったっけ…いや、運動不足なだけか)
大きくカーブしているところには竹藪があり、中に祠のような建物が通るものを監視するかのごとく、怪しく存在感を放っているのだが、今の晃にそんなことを気にしている余裕があるはずもない。
怪しい光を背に受けながら懸命にペダルを漕ぎ続けた晃はなんとか長い上り坂を制覇し、少し開けた場所に出た。見渡すと小さな休憩所のようにベンチがいくつか置いてある。晃は大きく肩で息をしつつ、その一つに崩れこんだ。
「あー…これ以上坂はない…よな?」
事前に見た情報では『緩やかな』となっていたからといって、軽く考えていた自分を恨んだ。
しばらく休んで息も整えたところで、周囲をよく確認してみる。
どうやら幹線道路のパーキングスペースにもなっているようで、すぐ隣を大きめの道路が通っていた。しかし、パーキングに駐車している車はおらず、それどころか道路を走っている車も見えない。
(深夜…だからだよな…)
我に返ると言い知れない不安感が襲ってくる。
インターチェンジの様子といい、途中の道路といい、この道といい。晃は全く知らないわけではない。
どのみちも県内では名の知れた道であり、たとえ深夜といってももう走り出して数時間。一台の車も見かけないっていうのは異常だ。最も、奇跡的に出会わなかっただけ、という可能性も否定はできないが。
それに加えてさっき出会った三人に関しても晃は違和感を感じていた。
(同僚の山岡はよく知らないが、次長はこのあたりじゃなかったと思う。それに鈴木は絶対こんな時間にこんなところにいない…)
どう考えても同じ方向へと考えが行きついてしまう。
(本当に入ったのか…?蒸発サイクリングロードってヤツに…)
怪しく光る満月が、晃の思考を肯定するかのように光り輝いていた。
「まぁ、考えてもしかたない。いくか」
晃は巡らせていた思考を一旦投げ捨てると、再びサイクリングロードへ戻った。
どうやら休憩所を境に下りになったらしく、緩やかな下り坂が続いていた。
(ふぅ。下りは楽だ…)
晃は勢いに任せて下っていると、
『バシャーン!!』
前方から何か水に投げ込んだような大きな音が辺りに響く。久々に聞いた環境音に晃はその場で止まって耳を澄ます。しかしそれ以上の音は聞こえてこなかった。どうやらこの先で何かが水に投げ入れられたようだった。
晃は少し急いでペダルを漕ぐと、すぐに大きな池が見えてきた。水面には何かが投げ入れられたような波紋が僅かに残っていた。
晃は自転車を止めて水面を見ていたが、すぐに満月を映す鏡のように穏やかになってしまった。
(今の音はなんだったんだ…?何か潜んでいるのか…?)
サイクリングロードに入ってから初めての『物音』だったため、晃はしばらく考え込んでしまった。そして、自分に近づいてくる人影にも気が付かなかった。
その人影はそっと晃に並ぶと穏やかな口調で語り掛けた。
「…綺麗な月ね。水面が鏡みたい」
晃は聞き覚えのある声に硬直してしまう。そして恐る恐る隣に目を向ける。
「…なーに?私の顔に何かついてる?」
その人物は晃には到底忘れることのできない人物だった。
「…舞、舞なのか?」
「どーしたの?変なあーくん」
元婚約者の出現に晃は動揺を隠せないでいた。何も言葉を発せずにいる晃に舞は、
「…ね、あーくん。この先に行くの?」
晃は思考回路が完全に麻痺していた。
(ま…い…。こいつはもう十年以上前に…なのに…なんで…いや、しかし…)
舞は晃の腕を取ると、
「こっちでゆっくり休もうよ、自転車なんて置いといてさ」
晃が舞の見る先に目をやると、大学時代の懐かしい光景が蘇ってきた。
(ああ、そうだ。あのころは毎日充実して…舞といつも一緒で…)
舞は晃に密着すると、晃の背中を押そうとする。あのころの柔らかな温かみが伝わってきて、そのまま深い眠りに落ちてしまいそうになる。
「さぁ、ゆっくり休も?」
そして晃が一歩を踏み出しかけたその時、
「だめ!!」
晃は自転車と共に、何かに強く引っ張り戻されてしまった。と、同時に周囲の風景は元のサイクリングロードに戻ってしまった。
思わず周囲を確認すると、晃は池に落ちる寸前まで来ていた。
「うわっ!あぶな!」
思わず後退りするも、池の方から声が聞こえた。
「…あーくん…あそぼ…」
晃は強い悪寒に震えながらも頭を強く振ると、すべてを振り切るように自転車を漕ぎだした。
しばらく走ったところで平静を取り戻した晃は、あることに気が付いた。
「そういえばさっき、誰が引き戻してくれたんだ?」
今ここに普通の人間がいるとも思えないが、確かに誰かに引っ張られたような気がした。しかし、晃は逃げるのに夢中で他の存在に気を使っている余裕が無かったのだ。
(あれは誰だったんだろう…?)
考えながらしばらく走っていくと、点滅信号に出た。
何か仕掛けがないかと周囲に警戒をしてみるが、特に怪しい様子は見られない。晃は警戒しつつ、信号の黄色点滅に照らされながら渡りはじめる。
(どうやら、本当に違う空間に入ってしまったみたいだな…)
このサイクリングロードに入ってから、会う人は晃の知り合いばかり。そして、その風貌も晃の記憶どおり。しかし記憶通りというのが怪しすぎた。
(次長…もうあの会社を退社してから十五年は経ってる。にしては若すぎるよな…)