第一話
「お話があります。放課後、先日のあの場所へ来て下さい」
下駄箱を開けると、一通の手紙が入っていた。
男なら誰でも一度は妄想したことがあるであろう、青臭いシチュエーション。
もちろん俺も例外ではない。
「下駄箱に手紙」
「食パンを口にした少女と出会い頭で衝突(もちろんクラスで再開する)」
「空から降ってきた少女を抱きとめる」
「海岸線を歩いていたら角の生えた全裸の少女を拾う」
「図書館で迷っている少女に利用カードを作ってあげる」
エトセトラ。etc。
いわゆる出会いパターンというものの妄想は一通り行ったことがある。とはいえ、現実とファンタジーの区別が付かないほど妄想癖が激しいわけではない。
結局のところ俺が女子といい雰囲気になったりするとしたら、そういったファンタジックなものではなく、どこにでもある普通の出会い方からスタートするのだろうと思っていた。
もちろんそれが嫌なわけではない。むしろウェルカムだ。どこの世界に出会いを求めない健康的男子高生がいるものか。男子高生というものは表面上どうあろうが、どこかで出会いを求めているに違いない。そう。俺のように。
そして今。客観的に見て、俺の下駄箱には女子からの手紙が入っている。
ご丁寧にクマさんのレターセットに包まれたそれは、俺がイメージする、
「女子高生が片思いの男子高生に差し出すラブレター」
そのものだった。実に高校生らしいファンシーなレターセット。
これを青春と言わずして何と言うのだろう。手紙を通学カバンにしまい込み(もちろんクラスの好事家共の視線が来ていないことを確認した上で)、トイレの個室へ駆け込み、封を切った。
俺には差出人の予想が付いていた。クラスの中でも特に目立つこと無く、いつも小脇に文字の多そうな本を抱えている少女。
若干の憂いを帯びた視線が特徴と言えば特徴かもしれない。だが、それだけ。
特に人生の接点があったわけでもない彼女を評するにふさわしい言葉を、俺は持ち合わせていない。だが、これだけは言える。
桜野 明里。彼女は、見た目通りの、大人しい文学少女などではない。
それを知ってしまったことが幸運なのか不運なのか。それはまだわからない。だが、すぐに明らかになるだろう。
―― 放 課 後 、 先 日 の あ の 場 所 で 。
先日のことである。
俺はホームルームが終わった後、いつもの様に帰り支度を始めていた。
二年生へと進級したからといって、何かが劇的に変化するわけではない。いや、普通の学科であればクラス替えが存在するから、毎日のように顔を突き合わせる人間が変わってしまうのだろう。
しかし、俺はいわゆる普通科ではなく、外国語科という科に属している。
この外国語科、一クラス分の人間しか在籍していない。つまりクラス替えなど行われないのだ。一年間クラスメイトとして過ごしてきた人間が一人足りとも入れ替わらない、というのはもしかしたら退屈なものなのかもしれないが、俺はよけいな気を使わなくて楽だ、と感じていた。
進級するということは新入生が入ってくるということでもある。俺が何らかの部活に所属していたのであれば、今頃は新入生の勧誘に駆り出されているころかもしれない。
だが、俺はいわゆる帰宅部というカテゴリに属している。この学校は特に部活動に重きを置いている校風では無いようで、帰宅部だからといって後ろ指をさされるような雰囲気では無い。
そういうわけであるから、俺にとって終業のチャイムというのは、務めからの開放を意味する天からの福音と言っても良いようなものなのである。サルベイション・コーリング。
その福音を聴きながら帰り支度をしていると、ふと鞄の底に、見慣れた包みを発見した。
「しまった……そういや、弁当、食い忘れちまってたんだ」
普段であれば、昼休みには俺の胃袋に収まっているであろう弁当は、未だなお登校時と同じ容器に包まれていた。
「さすがに残して帰るのは母さんに悪いし、かといって放課後の教室で一人弁当ってのもちょっとなあ……」
別に昼飯を抜いたとかそういうのではない。たまたま今日は家庭科の授業で調理実習があったため、普段ならやかましく食べ物を催促するであろう胃袋ちゃんが、ご機嫌のままだったというだけの話だ。
「とりあえず小腹も空いていることだし、この弁当をやっつけてから帰るか。さて、どこで片付けてくれようかね」
食堂は定時で閉まってしまうし、外で食べるとしても、運動部が汗を流している横で弁当を食べるというのはなんだか収まりが悪い。あまりじめじめした所では食べたくない。食事ってのは自由でなくちゃいけない。そう考えていると、一つだけ適当な場所が浮かんだ。
「屋上……屋上がいいか。眺めもいいし、誰もいないだろうから落ち着いて食べられるな」
ちょっとした少年心も手伝ったことを否定はしない。屋上という場所にはどことなく男のロマンを掻き立てる何かが漂っている。俺は迷わず屋上を弁当との戦いの場所に選んだ。
屋上へ通じる扉には鍵がかかっている。しかし、俺は知っていた。扉のある踊り場、そこにある消火器の裏に、扉の鍵が隠されていることを。
昔、掃除当番の時に掃除用ワックスで滑って転んだ俺は、消火器に勢い良く突っ込んでしまった。すると、消火器の後ろから鍵が落ちてきた。消火器の鍵を壊してしまったのかと思ったが、そもそも消火器に鍵などは付いていない、よく見ると小さく"屋上"と書かれていた。
面倒くさがりな教師が隠したのか、品行方正とは言えない先輩方が隠したのか。今となってはわからないが、その鍵が屋上への扉を開けられるということに変わりはない。
「久しぶりの屋上だな。鍵が無くなってなければいいけど」
ま、無くなってはいないだろうけどね。俺以外にあんな所で消火器にぶつかる奴はいないだろう。そんなことを考えながら屋上へと足を進めた。
その時、踊り場から物音が聞こえてきた。まさか、鍵を隠した張本人か? あそこに用事があるということは屋上に用事があるということだ。それ以外に理由なんて……いや、あった。というか俺自身がその役目により鍵を見つけたんじゃないか。忘れていた。
掃除当番。この時間は当番が割り当てられた場所を掃除する決まりになっている。だが、時間にして十五分がいいところだろう。待てない時間ではない。
掃除が終わるのを待つことにした俺は、自動販売機で飲み物を買って一息付く。頃合いだ。
時間を確認すると、踊り場へと向かった。
階段を登ると、まだ人の気配があった。どうしたというのだろう。よほど汚れていたのだろうか。それとも、掃除の手際が悪いのだろうか。
若干の苛立ちを覚えながら、俺は踊り場を覗き込んだ。誰が掃除しているのだろう。特に何を見ようとしたわけではない。だが、俺の目に飛び込んできたのは、ゴミと戦う武将……いや、一人の女生徒だった。
「ぬゥン! うぬら雑兵がいくら陣を組もうと、我の敵では無いワ!」
そう言いながら雑兵……いや、集めたゴミをモップで履き散らかしている。使い込まれたモップの握りは、実に馴染みがよさそうだ。
「塵芥の雑魚共が、この方天画戟にかかれることを光栄に思えィ!」
散らかったゴミを集めると、またしてもモップを槍のように振り回している。
「我は一人! 黒き獣、呂布なり!」
今度はジャンプしながらモップを叩きつける。当然のように吹き飛ぶ塵芥の武将……いや、塵埃。それを見て満足そうに息を吐き出す武将……いや、女生徒。
やりきった感のある表情をしているが、本来の目的であろう掃除は何一つ進行していない。
当然だ。ゴミを集めては散らかしているのだから。
俺は何が何だかよく分からなかった。とりあえず分かったのは、このままにしておいたら、弁当が本来収まるべき所に収まるのは、まだまだ先になってしまうだろうということだった。
「あの」
声をかける。すると、女生徒はびくりと跳ね上がり、硬直した。まるでB級映画のワンシーンだな。そう考えるくらいの時間は硬直していただろうか。ここで俺の手元に拳銃でもあればB級サスペンスに早変わりだが、あいにく俺の手には体温で温まりかけた弁当と学生カバンしか無かった。
ヒロインがゆっくりとこちらを向く。演技だとすれば主演女優賞ものだ。だが、演技でないことは明らかだった。振り向いたその顔には、見覚えがあった。
「え、あの、その」
しどろもどろとはこのことだろうか。何が起こったのかよく分かっていないようだった。
「み、見て、いた、ので、すか」
ここで見ていないと言えれば良かったのかもしれない。すっとぼけていれば良かったのかもしれない。だが、ほんのちょっと意地悪をしてみたくなった俺は、苦笑いを浮かべながらこう言ったのだった。
「別に何も見ていないよ。えーと、呂布 奉先さんだったっけ?」
「りょ……」
「今自分でいってたじゃん。えーと、黒きけも……」
そこまで言って俺は息を呑んだ。女生徒のアーモンド型の大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。キャパシティを超えた水分が、瞳の端からこぼれ落ちる。子供ならまだしも、女子高生が目の前で泣き出すのを見るのは初めてだった。後悔先に立たず。しまったと思った時、彼女は俺の横を駆け抜けていってしまっていた。
「しまったなあ。まさか泣き出すとは思わないよなあ。なんだか俺が悪者みたいじゃないか」
ちょっとからかっただけのつもりだった。そんなつもりはなかった。
いじめっ子というのは得てしてそう言うものだよな……と俺は考えていた。
実際、意地悪をしようと思って言ったのだから、少なくとも彼女にとって俺はいじめっ子となってしまったのだろう。
だが、あんな珍妙なものを見せられてはいそうですかと無視出来るほど、俺は好奇心に乏しい人間ではないのだ。それが普通なのだ。当然なのだ。
半ば強引に自分を納得させ、当初の目的に取り掛かる。今俺のすべきことは後悔ではなく前進だ。振り返るためではなく、進むために、俺は弁当を食べなくてはいけないのだ。吐き散らかされた埃を見なかったことにして、屋上へと歩を進める。
「それにしても、あの子……同じクラスだったよな。確か、桜野 明里だったかな」
俺は○について思い出してみる。いつも本を抱えている、大人しそうな子だった。目立つ方ではなく、どちらかと言えば大人しい。どこにでもいる、ごく普通の、文学少女。
俺の記憶にある桜野フォルダにある情報はそんなものだ。だが、そのフォルダはつい先程、
"黒き獣 呂布(桜野 明里)"
と名前を変えて上書き保存されてしまった。呂布と言えば確か三国志――中国の時代小説――に登場する武将だったはずだ。ゲームで見たことがある。無双だかなんだかという名前のゲームだったはずだ。
その武将を名乗る、少女。
確かに言っていた――我は呂布、黒き獣、と。
「まさか、呂布の生まれ変わりだとは言わないだろうな」
どこかで聞いたような話を思い浮かべ、苦笑する。そんなバカなことがあるか。この世界は普通すぎるくらい普通なのだ。剣も魔法もネコ型ロボットもいない、当たり前の世界なのだ。そう。この自転車も、宇宙からの来訪者を乗せて空に飛び立ったりなどはしないのだ。
春とはいえまだ四月。少しばかりの肌寒さを覚えながら自転車のペダルを回す。
いつもより一時間ほど遅い帰り道は、ほんの少しだけ寒く、ほんの少しだけ暗い。
……その日の夕食は喉を通りにくかった。桜野のことで胸が一杯だったわけではない。ただ単に、弁当で腹が一杯だっただけに過ぎない。さすがは重要アイテム。
"それをたべるなんて とんでもない!"
モノローグを思い浮かべる。確かにあのタイミングでの弁当は、今思うととんでもない愚行だったのかもしれない。こういう時に限って食卓には俺の好物が並んでいたりするからタイミングが悪い。いかに好物とはいえ、空腹時のそれと満腹時のそれでは食べ物に対する好感度そのものが違う。
運の悪いことに、今日食卓に並んでいる俺の好物とは、程よいコシを持つ、天ぷらうどんだった。残しておけば伸びてしまう。それは麺喰いとして許される行為ではなかった。
すすり、咀嚼し、嚥下する。本来であれば自分の生命のために他の生命を消費させてもらうという神聖な行為であったが、膨満感に満たされた俺の胃袋にとって、それは苦行としか思えない行為であった。スマン、小麦よ、海老よ。美味しく食べてやれなくて。
限界まで食物を摂取した胃袋は思考回路にさえも影響を及ぼし、その機能をことごとく麻痺させる。俺の神経は、もはやたった一つのことしか考えられなくなってしまっていた。
もう一つの欲求を満たすべく俺の体は寝室へと向かう。そこに意識はなく本能があるだけであった。そこで記憶は途切れる。次に俺の神経が仕事を始めたのは、ほんの数時間前に沈んだはずの太陽が、新たな一日の訪れを世界に告げ始めている時のことだった。
俺の頭の中から、桜野のことはすっかり抜け落ちていた。
その日の朝、下駄箱を開けるまでは。




