第18話 赤身
石造りの頑丈な建物が連なるノースヴェイルの市場は、陽が高くなるにつれて混み合いを見せ始めていた。
防寒着のすれ違う擦れ音と、吐き出される白い息。冷えた空気が音を遮断するのか、人々の怒号や売り声は、南国サン・ロザリアの賑やかさとは違って、どこか籠もった力強い響きを持っている。
「シェフ、見てみろよ。肉の引き締まり方が半端じゃねえな」
バルトが軒先にぶら下がった獣の大きな腿肉を指さした。皮を剥がされた赤身は深く濃い血の色をしており、その周りを分厚く白い脂の層がしっかりと覆っている。
「北方の大鹿の肉だな。厳しい冬を越すために、骨の髄まで栄養を溜め込んでいる」
レオンは店主の許可を得て、腿肉の脂の表面に軽く触れた。指先の体温でかすかに脂が溶け、上質な甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「店主、この大鹿の腿肉と、そこにあるスジの多い部分……それから骨ももらえるか。あっちの泥がついたカブと、黄身のように濃い発酵バターもだ」
「おいおい、骨まで買うのかい? スジ肉なんて硬くて煮ても食えたもんじゃないぞ」
毛皮の帽子をかぶった店主が眉をひそめたが、レオンが出した銀貨を見ると、手際よく骨を叩き割り、肉を切り分けた。
ノースヴェイルの港から少し離れた路地裏にある、石造りの借家。
中央に据えられた大きな鋳物の薪ストーブに火を入れると、凍りついていた室内が一気に熱を帯び、壁の石から湿った温もりが広がり出す。
「レオン、その硬そうなスジと骨で何をする気だ? こっちの綺麗な赤身肉を焼くんじゃないのか?」
シェラが防寒着を脱ぎながら、不思議そうに調理台を覗き込んだ。
「赤身の肉は確かに美味いが、この寒さの中で本当に身体が求めるのは、骨とスジの中に眠っている濃厚なコラーゲンと旨味だ。北方の人間が硬いスジ肉を敬遠するのは、火の通し方と『旨味の引き出し方』を知らないからだな」
レオンは薪ストーブの火力を調整すると、分厚い鉄鍋を火にかけた。
まずはノースヴェイルの濃密な発酵バターを鍋に放り込む。ジューッと音を立ててバターが泡立ち、ナッツのような芳醇な香りが部屋中に満ちていく。そこへ叩き割った大鹿の骨と、ぶつ切りにしたスジ肉を投入した。
強火で表面にしっかりと香ばしい焼き色をつける。肉のタンパク質と糖が結びつく「メイラード反応」だ。この焦げ目こそが、深いコクの底味となる。
「ここに、サン・ロザリアから運んできたあの熟成魚醤をほんの少し垂らす」
「えっ、魚醤!? 鹿肉に魚の出汁を合わせるのか?」
シェラが目を丸くする。レオンは静かに首を振った。
「魚の匂いを立たせるためじゃない。魚醤に含まれる遊離アミノ酸と、鹿肉のアミノ酸を掛け合わせることで、旨味を数倍に跳ね上げるんだ。塩味をつけるためではなく、隠し味のブースターとして使う」
鍋の底に魚醤が触れた瞬間、ジワッと香ばしい蒸気が立ち上った。生臭さは一切なく、肉の焦げた甘い香りと一体化して、深みのある強烈な香気に変化する。
そこへ泥を落とし、大きめに切り分けたカブと根菜を惜しみなく投入し、ひたひたの水と鉱泉塩を加えて蓋をした。
「あとは、ストーブの微かな余熱で時間をかけてじっくり煮込む。急激に沸騰させず、コトコトと弱火で肉の繊維をほどいていくんだ」
薪ストーブの上の鉄鍋から、小さな泡が弾ける規則正しい音が響き始める。
小一時間も経つと、石造りの部屋は身も心もとろけるような、濃密で温かな肉スープの香りに包まれていた。
「……そろそろだな」
レオンが重い鉄の蓋を取ると、そこには透き通った黄金色の脂が浮き、ホロホロに解けた肉と、出汁を吸って琥珀色に輝くカブが踊っていた。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ。ノースヴェイルの食材で作った、最初の一皿だ」
深皿にたっぷりと注がれたスープを前に、シェラとバルトはごくりと喉を鳴らした。




