第16話 灯火
サン・ロザリアの熱帯の港を後にしてから、すでに数ヶ月の月日が流れ去っていた。
『アルティザン号』は幾つもの海域を渡り、南国特有の甘く重い湿気を遠く置き去りにしながら、さらに広大な外洋へと舵を切っていた。船を押し流す潮の流れは冷涼な北方の風を帯び始め、甲板を渡る風の質も日に日にその趣を変えている。
だが、遥か後方、レオンが歩みを進め、去っていった足跡の数々には、今もなお消えることのない確かな熱と知恵が力強く息づいていた。
* * *
王都の大通りに新たに暖簾を掲げた店舗『ル・シェル』では、朝靄が街を包み込む前から長蛇の列が出来上がっていた。
「お待たせいたしました! 『ル・シェル』開店です!」
澄んだ声を大通りに響かせ、笑顔で客を出迎えるのはリゼだった。
かつてはレオンの圧倒的な技術と背中に圧倒され、大きな看板を背負うことに不安で肩を震わせていた一人の女性。だが今の彼女の瞳には、一切の迷いがない。新作スイーツの開発から現場の采配までを堂々と指揮し、独自の感性で生み出す一品は、王都の食通たちの心を掴んで離さなかった。
影でコソコソと嫌がらせを仕掛けてくる中央商業ギルドの古狸どもも、二階の特等席から優雅に茶をくゆらせるマルニの地下網と抜かりない手回しの前には、ぐうの音も出ずに退散するほかなかった。
「……ふん、相変わらず芸がない連中ね。リゼ、新商品の『冷製桃タルト』の仕込み、順調かしら?」
「はい、マルニさん! 仕込みの温度管理もバッチリです!」
独占された甘味の概念を塗り替え、新しい時代の風を巻き起こすリゼの凛とした背中を、マルニは満足げに見守っていた。
一方、スラム街の一角に新設された衛生的な加工工房では、汗を拭いながら厳格に品質をチェックするヴォルフの姿があった。
「いいか、少しでも水分量がズレたら即効性が落ちる! 俺たちが作っているのは、過酷な現場で戦う冒険者たちの命を預かる『命糧』なんだ。妥協は一切許さないぞ!」
冒険者ギルド長と巨漢のSランク冒険者グレンを唸らせ、破格の独占契約を結んだ『即効回復バー』と『濃縮スープキューブ』。
試作から量産、ギルドとの調整までをレオンから一任されたヴォルフは、スラムから集めた手先の日雇い若者たちを率い、すでに一国の事業主としての重厚な威厳と職人の矜持を漂わせていた。
そして、王都における最高峰の象徴『ガストロノミー・レオン』。
営業が終わったあとの静まり返った厨房で、一人黙々と包丁を研いでいたのはルカだった。
「シェフ……俺が惚れ込んだあの感動を、この手で守り抜いて見せますから」
『俺の影で終わるか、この店を超えていくか』
というレオンからの重い問いかけに、真っ直ぐ首を縦に振ったあの日。ルカはレオンから託された厨房のすべてを己の腕で背負い、客の表情を繊細に読み取りながら、至高の一皿を毎夜送り出し続けている。
屋台街のネットワークを束ねるバルトも含め、誰一人としてレオンの不在を理由に立ち止まる者はいなかった。皆がそれぞれ与えられた場所で己の足で立ち、誇り高く己の役割を果たしていたのだ。
* * *
さらに遥か南、熱帯の強烈な日差しと潮風が残る港町サン・ロザリア。
活気あふれる埠頭の屋台街では、かつて傷む魚の処理と売れ残りに頭を抱えていたおやじが、威勢のいい声を張り上げていた。
「へいらっしゃい! 今日上げたばかりのサバで作った特製コンフィに、柑橘締めの炙りだ! 魔法の保冷箱なんぞ無くたって、冷やさず腐らせずに最高に美味い状態で食わせてやるぜ!」
レオンが去り際に授けていった「塩・油・酸・煙」という身近な素材を使った知恵は、貧しい漁師や屋台店主たちの生活を劇的に変えた。高価な魔導具や魔法結晶に依存せず、己の手と身近な材料で食い扶持を稼ぐ技を得た人々は、晴れやかな顔で胸を張り、たくましく街を動かしている。
「……あの旅の料理人旦那、今頃はどこの海で、どんな驚きを作ってやがるかねえ」
おやじは包丁を止め、汗を拭いながら遠い水平線を仰ぎ、感謝と敬意を込めて呟いた。
* * *
王都を包む熱気と歓声。南国の港に響く潮騒と人々の誇り。
レオンという一人の職人が旅路の途中で投げかけた「知恵と精神」という種は、それぞれの土地に深く根を張り、決して折れることのない大木へと育ち始めていた。
そして今、当のレオンを乗せた『アルティザン号』は、それら全ての想いと試練をその背に受けながら、未知なる最高級の食材と過酷な気候が待ち受ける、北方の大海原へと静かに船首を向け続けている。




