夜凪 美咲
「美咲、ごめんね。」
母が死ぬ前、そう言って私の頭を撫でてくれた事を覚えている。その時の私は何も言えず、ただベッドの傍で泣くしかなかった。曇りの夜だった。病室内をベッドの横の暖色に光るライトだけが照らす。ベッドの足側には叔母さんたちが立っていた。その光景は今でも鮮明に残っている。
私はまだ小学生なのに、お母さんは癌で死んだ。
「美咲ちゃん、おはよ。もう朝だよ。静香はもう先にリビングにいるから。」
カーテンを無理矢理開けられ、無慈悲な日差しが私の瞼を貫く。
独りになった私を、叔母の夜凪珠子さんが引き取った。今はその夫の和夫さん、従妹の静香ちゃんと一緒に暮らしている。私はお父さんの顔を見たことがない。私が物心つく前に急に出て行ったらしい。お母さんがそう言ってた。
朝はどうしても体が重く感じる。別に学校が嫌なわけではない。でもどうしても、この生活に慣れることができない。
「お姉ちゃん、おはよー!」
ぼさぼさの頭でリビングに向かうと、静香が元気に迎えてくれた。まだ幼稚園児の静香は朝の疲れなど関係ないほどの活気を見せてくれる。
「一緒にご飯食べよ!」
先に和夫さんと静香が机に座って、私の到着を待っている。申し訳なさから眠い目を擦り、急いで洗面台に向かって朝の準備をする。
「いただきます。」
机を囲い4人で朝食を食べた。美味しかった。でも特別な味じゃなくて、安心する味だった。お母さんの料理に近かった。
和夫さんの後ろでテレビがニュース番組をやっていた。
「近年、霊災の件数が増加の一途を辿っています。専門家によりますと、現代技術の急速な発展によるアクションの容易化により、人々の娯楽や経験の欲求としての未練が強まっていることと、住職や牧師などの聖職者の割合が減少していることの二重苦が関係していると言われています。これに関して、タレントの木村さんどう思われますか?」
「一般の方々は霊に対して対向のしようがないですからね。霊と思わしき人とはできるだけ距離を置いたりするのが今できる最善策かと。政府も霊対策のセキュリティを強化する方向にシフトするべきだと思います。みなさん今日も平日で学校や仕事に行くかと思われますが、くれぐれも霊に気を付けて行動するように心がけてください。」
「最近物騒だねぇ。」
和夫さんは口に含みながらそう言う。行儀が悪いと珠子さんが注意する。これがこの家では普通の風景だった。
私は生まれてから今日に至るまで霊と遭遇したことがない。もしかしたら何度かすれ違いをしていたかもしれないけど。
「ごちそうさま。じゃあ、お父さんは先に仕事に行ってくるね。」
「行ってらっしゃーい!」
食器を片付けて、和夫さんはスーツ姿で玄関の扉を開けて行く。珠子さんはわざわざ見送りに席を立って玄関に向かった。私は静香ちゃんと一緒にご飯を食べ続けた。
「改めて霊の特徴を再確認しましょう。最も分かりやすいのは体温です。霊は体に熱源を持ちません。なので普通の人よりも体温がとても低くなっています。次に表情です。霊は感情の機能が失われているので、喜怒哀楽が読み取りづらいです。しかし、私たちを欺くために演技をすることも確認されているので注意してください。」
「幽霊だって。静香怖い。」
「きっと大丈夫だよ。お母さんもお父さんも会ったことないらしいし。」
「そうだよね。」
「二人もそろそろお家を出ないとね。」
珠子さんが帰って来た。私たちも珠子さんに手伝ってもらいながら通園、通学の準備をする。
霊。それは、生前の肉体主が残した未練を果たすためにこの世に産み落とされる恐ろしい存在。やり残したこと、他人への強い憎しみや依存が引き金となって生まれる。見た目は生前と同じだけど、人格や記憶は全くの別物らしい。家族のことも自分のことも何もかも忘れてる。ただ魂に刻まれた未練を果たすために行動する。霊は未練を果たすためには手段を選ばないらしく、それに巻き込まれて人が死ぬ。それが霊災と呼ばれてる。
「いってらっしゃい。ほら、静香も幼稚園に行くよ。」
「はーい!」
引き取られてから、住所の都合で私は小学校を転校した。転校先の小学校にはもう慣れた。友達だっている。
ランドセルの肩ひもを握りしめて、晴れた通学路を歩いた。視線は無意識に下を向いてしまう。
「美咲ちゃんおはよー!」
後ろからランドセルと軽く叩かれた。振り返るとそこには水無月神奈ちゃんがいた。転校初日にすぐに私に話しかけてくれた子。おかげで一人にならずに済んだ。
「うん。おはよ。」
きっと向こうからすれば私の態度は冷たいだろうに、神奈ちゃんは構わず話しかけてくれる。その性格が幸いして、神奈ちゃんはクラスの人気者だった。
大きな交差点に入ると、ボランティアのおじさんが安全に渡れるように横断旗を伸ばしてくれるので、軽く会釈をして神奈ちゃんと渡った。
「行こ行こ!」
今日は特別気分が重い。何度も何度もあの光景が頭の中に出て来る。なぜお母さんが。お父さんはどこに。どうして謝ったの。謝るくらいなら生きてて欲しかった。
「…ゃ…」
「美咲、ごめんね。」
「み…ち…」
「美咲、ごめんね。」
「…さ…ん」
「美咲、ごめん……
…………………
…………………
…………………
…………………
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…………………
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…………………
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…………………
…………………
…………………。」死んで?
「美咲ちゃん!!!」
「おい!!止まれぇ!!」
数メートル離れた神奈ちゃんとボランティアのおじさんの声で頭のモヤが取れた。右を向くと大型トラックが一切の減速もないまま赤信号の交差点に侵入して来ていた。それが私一直線に向かっていた。
「何だ?!!ブレーキが!!!」
「きゃああああああああああ!」
神奈ちゃんは反射的に目を塞ぐ。
……………
トラックが私の眼前2メートルほどに来た時、まるで大きな手に鷲摑みをされたかのように止まった。運転手の人はその勢いでハンドルに頭を打ったらしく、額を押さえていた。突然の出来事に、通りすがった人も信号待ちしている人も総じてこちらに視線を向けていた。運転手の人は我に返ったらしく、すぐに窓から顔を出した。
「君!!大丈夫か……うわっ!!」
運転手の顔が引き攣っている。でもその視線の先は私じゃなかった。私よりも少し右側。私もその方向に頭を振る。
そこには顔があった。拳2個分の距離。しゃがんでじっと私の顔を見つめる男の姿。それを見た瞬間私の肌が感じた。神奈ちゃんもボランティアのおじさんも。きっとこの場にいた全ての人がそう思った。それほどの異様な雰囲気。
この人はもう死んでいる。
私は恐怖で硬直した。誰も動けなかった。視線を外せなかった。もしかしたら金縛りだったのかもしれない。
”それ”はゆっくりと右腕を上げ、クレーンのように私の頭をそっと撫でた。表情一つ変わらなかった。私がショックで意識を失う最後に覚えていたのは、その手が氷のように冷たかったことだった。
私は霊災にあった…と思う。でも、どこか違和感があった。トラックは私を殺すために突進して来たけど、それを止めたのはきっとあの男の霊だったと思う。どうしてかはわからない。
その日は学校どころではなく、私は警察に保護された。神奈ちゃんも同行者だったから警察に話をするために来てくれた。
電話でおおよその話を聞いて駆け付けてくれた珠子さんは私を見るなり良かったと抱きしめてくれた。神奈ちゃんや警察の人たちももう大丈夫と私を励ましてくれた。その時も私は放心状態で真顔だった。まだ心臓の鼓動は鳴り止まなかった。
あの男の人の霊は何だったんだろう。




