グルメ
二日目
アストとエミリーは街道を外れ、峠道を進んでいた。
左右には切り立った巨大な岩壁がそびえ、見上げても空は細く切り取られている。
岩肌にはわずかな草がへばりついているだけで、木々の姿もほとんどない。
吹き抜ける風が岩壁にぶつかり、乾いた音を立てて通り過ぎていく。
峠を越えれば、目的地であるミズ村はもう目と鼻の先だった。
「──大丈夫か?」
アストが振り返ると、エミリーは小さく頷いた。
額にはじっとりと汗が滲み、頬もほんのり赤くなっている。
ここまで一度も弱音を吐いていない。むしろ、それがかえって心配になるほどだった。
「くどいようだけど、頼むから無理だけはしないでくれ」
「うん。大丈夫だよ」
エミリーが笑顔を見せた、そのときだった。
風に乗って、微かな臭いが鼻をかすめる。
血の臭い。
それに混じって、どこか覚えのある独特な臭気が漂っていた。
アストは足を止める。
「どうしたの?」
不思議そうに見上げるエミリーに、アストは短く告げた。
「絶対に俺の側から離れないように」
「え? う、うん」
エミリーに念を押すと、アストは周囲に意識を張り巡らせながら、慎重に歩を進めた。
やがて岩壁の陰に差しかかったところで、視界に飛び込んできたものがある。
大きな血だまり。
その中心に、男がうつ伏せで倒れていた。
身体の状態を見れば、息がないことは一目でわかる。
「死んでるの?」
エミリーがアストのズボンの裾を、きゅっと掴んだ。
「見ないほうがいい」
アストの言葉に、エミリーは何度も頷く。
彼女を背にかばいながら、アストは死体の傍らに屈み込んだ。
そっと手を伸ばし、首筋に触れる。
(──まだ温かい)
死んでから、それほど時間は経っていない。
男のすぐ側には、歪んだ剣が落ちていた。
刃に血は付着しておらず、抜いた形跡すら見当たらない。
周囲にも争った様子はなかった。
まるで上から何かに押し潰されたかのように、男の身体は無残に変形している。
落石で潰れたのなら、原因である石がなければおかしい。
死体の状況からして、人間の仕業と考えるのも無理がある。
──デモン。
もはや疑う余地はない。
だが、問題はそれだけではなかった。
(心臓がない)
デモンは人間だろうと同族だろうと、関係なく喰らう。
いわば雑食だ。
もっとも、中には特定の部位しか口にしない個体も存在する。
目の前の死体は、そのことを如実に物語っていた。
アストの知る限り、心臓だけを喰らうデモンは限られている。
ゼット曰く。
人の領域に現れるデモンの大半は、コロニー内の生存競争に敗れ、外へ追いやられた個体らしい。
しかし、アストが考えている通りのデモンなら、個体差を考慮したとしても、コロニーから追い出されるような存在ではない。
(厄介なことになった)
アストはちらりとエミリーに目を向けた。
彼女のことを考えれば、悠長に分析している場合ではない。
(どうする?)
進むか、引き返すか。
選択肢は二つしかなかった。
エミリーは恐怖で身体を強張らせ、アストの服を握りしめている。
(騒がずにいてくれるだけ、ありがたいけど……)
それも、いつまで持つかわからない。
(──ここは引き返して、様子を見るべきだ)
そう判断し、エミリーに声をかけようとした瞬間だった。
先ほどとは比べものにならないほど濃密な臭気が、アストの鼻腔を突いた。
(くそっ。判断が遅かった)
正面にそびえる岩壁。
その陰から、三本の指がぬたりと姿を現した。
続いて、長く垂れ下がった舌。
歪な形をした顎。
そして、何を見ているのかもわからない、空虚な眼窩。
予想していた通りのデモンが、岩陰から這い出してくる。
──グルメ。
アストは、そう呼んでいた。
エミリーが息を呑む。
声にならない悲鳴が、喉の奥でかすかに漏れた。
「後ろの岩陰に隠れていろ。そして、俺がいいと言うまで絶対に目を開けるな。──できるな?」
グルメから視線を外さず、アストは静かに告げた。
命令というより、彼女を安心させるための声音だった。
エミリーは身体を震わせながらも、しっかりと頷く。
「三つ数える。三で一気に走るんだ。──一、二、三!」
合図と同時に、エミリーは全速力で駆け出した。
岩陰に身を潜めると、言われた通り、ぎゅっと目を閉じる。
(いい子だ)
その様子を見届けたアストの前で、グルメが聞いたこともない奇妙な鳴き声を発した。
烈火弾は使えない。
この狭い峠道で放てば、エミリーを巻き込んでしまう危険がある。
「勘違いするなッ! お前の相手は俺だッ!」
アストはグルメを挑発するように、漆黒の剣を抜き放った。
陽光を受けた刃が、黒い光を帯びる。
峠道に、戦いの気配が満ちていった。
▼
剣先をわずかに下げ、無形の構えを取る。
アストに決まった剣の型はない。
デモンと戦い続ける中で、相手の動きに合わせて無駄を削ぎ落とし、自然と今の形に落ち着いた。
グルメの長い舌が地面を舐めるように垂れ下がり、粘ついた唾液がぽたりと滴る。
空気が張り詰めた。
風の音さえ遠のいたように感じる。
まだ剣を交えてもいないというのに、アストの頬を一筋の汗が伝った。
(誰かを守りながら戦うというのは、これほど緊張するものなのか)
背後の岩陰には、エミリーがいる。
後退することは許されない。
(守り抜く──)
決意を胸に刻んだ、その瞬間。
グルメが甲高い声を上げた。
四肢の筋肉が一斉に膨れ上がる。
次の瞬間、巨体が弾かれたように跳躍した。
岩をも砕かんばかりの勢いで、巨大な前爪が頭上から迫りくる。
(──大丈夫。ちゃんと見えている)
常人ならば捉えることすらできない速度。
だが、コロニーで幾度も死線を越えてきたアストにとって、この程度の速さは脅威ではない。
何より、デモンをも凌駕する死神ゼットのもとで鍛えられた経験が、今のアストを形作っている。
風圧を伴う爪を半身になってかわす。
そのまま流水のごとく身体を滑らせ、漆黒の剣を袈裟懸けに振り抜いた。
どさり。
地面に落ちたのは、グルメの前足だった。
グルメは耳障りな悲鳴を上げ、後方へ飛び退く。
虚無の眼窩が、アストを捉えた。
「そうだ! 俺だけを見続けろ!」
人間なら人体の構造上、手足の一本を失うだけでもまともに戦うことは難しい。
だが、デモンは違う。
たとえ四肢を失おうと、牙が一本でも残っていれば喰らいつこうとする。
獣ですら本能で悟る引き際というものを、奴らは知らないのだ。
それなのに、目の前のグルメは違った。
先ほどまでの猛進が嘘のように、こちらの出方を窺っている。
(この程度のことで慎重になる? 随分とらしくないじゃないか)
これまでアストが相手にしてきたグルメとは、明らかに様子が違う。
ただ闇雲に襲いかかるのではなく、アストとの距離を測るように間合いを詰めてくる。
(……まさか、こいつ学習しているのか!?)
そう考えたときだった。
突如、峠を吹き抜けた烈風が、地面の落ち葉を巻き上げた。
舞い上がった葉の一部が視界を横切り、一瞬だけアストの視界を遮る。
「──ッ!」
考えるより先に、身体が反応した。
漆黒の剣を盾に構えた直後、閃光が走る。
グルメの爪が剣に激突した。
峠に甲高い衝撃音が響き渡る。
両腕に食い込むような重圧。
踏みしめた足元から砂利が派手に弾け飛んだ。
グルメは全体重を乗せ、押さえ込まれた爪をさらに押し込んでくる。
アストは、これまでに二度グルメと戦った経験がある。
しかし、今回で三度目となる目の前の個体は、これまで対峙してきたどのグルメよりも、力、速さ、そのすべてにおいて上回っていた。
(個体差と言われれば、それまでだけど……)
グルメの圧力が、さらに増す。
だが、もとより力比べをするつもりなどなかった。
アストは相手の力が最も強まった瞬間を見極める。
そして、わずかに身体をずらしながら懐へ踏み込み、その勢いを受け流した。
同時に、右足を踏み込む。
オドで強化した左足が、グルメの顎を下から跳ね上げた。
人間なら頭を吹き飛ばしかねない一撃。
しかし、グルメにとっては脳を多少揺さぶられた程度に過ぎなかった。
歪んだ顎がだらりと開き、血に濡れた牙が覗く。
その空虚な眼窩が向いていたのは、アストではなかった。
(こいつ、まさかッ!)
アストは即座に俊足術を発動した。
次の瞬間、鞭のようにしなった長い舌が、エミリーへと襲いかかる。
「やらせるかッ!」
舌が届くよりもわずかに早く、アストはエミリーの前に立ち塞がった。
叩きつけるように漆黒の剣を振るう。
間一髪。
舌は剣に弾かれ、甲高い音を立てて跳ね返った。
肉の塊とは思えないほどの硬さだった。
(エミリーは!?)
振り返ると、エミリーは今も必死な形相で目を閉じていた。
(上出来だ)
安堵する間もなく、アストは再びグルメに向き直る。
「俺を倒さない限り、この子は奪えない!」
デモンに人間の言葉など理解できるはずもない。
これは、アスト自身の覚悟を言葉にしただけだった。
その覚悟が通じたかのように、グルメの攻撃は再びアストへと集中する。
長い舌が、間断なく襲いかかってきた。
わずかな判断の遅れすら致命傷になりかねない速度。
アストはそのたびに剣を閃かせ、舌を受け流し、あるいは弾き返していく。
攻防が続く。
そして──。
(────ここだッ!)
舌が限界まで伸びきった瞬間を狙い、アストは漆黒の剣を突き立てた。
剣が地面を貫き、グルメの舌を縫い留める。
異物を取り除こうと、グルメが剣に向かって身を乗り出した。
瞬き一つ分にも満たない猶予。
アストはその隙を逃さなかった。
瞬時に身を低く沈め、地面に固定された舌をさらに深く穿つ。
「ギャアアアアアアアアアアッッッ!!!」
峠道に絶叫が轟いた。
グルメの巨体が大きく跳ね、動きが止まる。
千載一遇の好機。
アストは地面に突き立てた剣から手を離し、そのまま大きく跳躍した。
空中で腰裏のホルダーから漆黒の短剣を抜き放つ。
狙うは、グルメの頭部。
「──終わりだ」
落下の勢いを乗せ、漆黒の短剣を頭頂部へと突き立てた。
刃が深々と沈み込む。
グルメの巨体が一度だけ痙攣し、それきり動かなくなった。
▼
「──エミリー、もう目を開けてもいいぞ」
耳に馴染んだ温かい声。
エミリーは、おそるおそる目を開いた。
目の前には、少し疲れた表情のアストさんが立っている。
「俺との約束、ちゃんと守ったな。偉いぞ」
優しく頭を撫でられた途端、堪えていたものが壊れたように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
怖くて、怖くて、たまらなかった。
それでも、アストさんとの約束を守ろうと、ずっと必死に耐えてきたのに。
これでは、アストさんに笑われてしまう。
エミリーは歯を食いしばり、袖で涙をぐいっと拭った。
「あの怪物をやっつけたの?」
「なんとかね」
アストさんの視線を追う。
そこには、長い舌をだらりと伸ばした怪物が、地面に横たわっていた。
「アストさんは神様なの?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
少し驚いた様子のアストさんは、苦笑いを浮かべる。
「神様か……。死神ならよく知ってるんだけどね」
困ったように頬をぽりぽりとかきながら、アストさんはそう言った。




