エピローグ
「未来に愛があることを知ってから、私の人生は大きく転換しました」
2051年10月。ノーベル物理学賞を受賞したある日本人物理学者が、スピーチの冒頭にそう述べた。東京大学理学部教授、暁傑53歳。数々の独創的なAI搭載ロボットを開発し、更にはタイムマシン理論を実現させ自ら有人タイムトリップを行う予定となっている人物である。
「その日までは誰も愛さず誰からも愛されず、自分の未来に何の希望も抱いてはいませんでした」
受賞者に付随して話題となる〈長年の研究を甲斐甲斐しく支えてきた妻〉に当たる人はいない。この歳までずっと独身を貫いている教授が口にした「愛」という言葉に、それがいったい誰を、何を指すのかを知る者はいなかった。
「こんな退屈な、苦しい、悲しい、地獄のような日々を送って何になるのだろうと人生を悲観している人たちに私は伝えたい。人は生きているとどうしようもなく辛い瞬間に立たされる時は何度もある。けれどそんなことも忘れてしまえるほどに幸せな瞬間が必ずある。どんな苦悩の先にも喜びがあることを信じて、どうか立ち上がってほしい。これは昔、私が出会った人から言われた事です。私の研究の動機付けとなり今でも私を励ましてくれる大切な人の、言葉です」
かつて多くの研究者が行なっていた高出力レーザーによる素粒子タイムマシンは、「情報」のみを過去や未来へ送る可能性を見出していたが、暁教授の理論はそこから大きく飛躍した。5年前に行った動物実験では、100年先の未来へ行ってきた動物たちがほぼ全頭無事に帰還した。それが今回の受賞理由であった。
「何度も失敗し、何度も挫折を繰り返す度、その言葉に支えられて乗り越えてきました。だから今、私はここにいる」
教授の功績は他にもあった。
政治的対立を深めていた近隣諸国を訪問し、医療福祉をはじめ様々な分野で活躍しているスグル式AIロボット、更にはタイムマシンでの有人タイムトリップ実験が成功した暁にはその技術までも、無償で提供すると申し出た。
タイムマシンで過去へ行き歴史の真実を見てほしい。そうすれば歴史がいかに政治戦略的な意図をもって歪曲されたものであるのかが分かる。そのような馬鹿げた捏造に振り回されずこれからの未来を共に平和に生きましょう、と固い握手を交わした。各国の首脳たちはそれで一旦、日本に対する強固な敵対心を軟化させた。
その世界初の有人タイムトリップは、まさに命をかけた壮大な実験である。失敗すれば二度とこの世界に帰ってこられないのを覚悟の上で、教授は自ら実験台として未来へ旅立つことを志願した。この先も日本の技術開発を担っていくであろう貴重な頭脳を失うことを恐れ、周囲は当然猛反対した。だが彼の意志は固かった。
最初の行き先は「西暦2713年12月1日」と発表されている。なぜ〈そこ〉なのか、それも大きな話題となった。これにも教授は時たま見せる安っぽいロマンチストのような発言で対応した。
「そこに愛があったからです。おそらく今の時間軸の先に彼らはいないだろうけれど、それでも私は行ってみたいのです」
誰もがまるではぐらかされているような、納得のいかない答えであった。日常の全てを研究に捧げている天才物理学者らしからぬ、全く論理性の無い妄想か単なるジョークに他ならないと一笑に付されたが、まさか教授がそれに本気で命までかけているとは、誰が想像しただろう。
受賞から一ヶ月後、調布航空宇宙センターで世界初の有人タイムトリップが敢行された。世界中のメディアが集結し、生中継でその様子を映し出す。
タラップに現れたのは二つの人影。白髪混じりの黒髪を保護キャップで覆った暁教授の横には、一人......いや1体、付き添いの人型ロボットが二足で立っていた。教授が20歳の時に完成させたスグル式AI搭載ロボット第1号『キャリエル』である。〈献身的な妻〉の代わりに長年の良き話し相手となってきたそのおしゃべりロボットを連れ、教授は笑顔で出発前の記念撮影に臨んだ。
果たして700年先の未来に何があるのか。
希望か、絶望か────
「憂慮などありません」
と、教授は笑って言った。
「たとえ絶望があったとしても、必ずそこから人類は立ち上がる。その先に思い描く夢こそが、私たちの希望なのです。もしも実験が成功して私が無事にここへ戻って来れたなら、700年後の世界の姿とともに、私が17の時に見たもう一つの未来のお話もしましょう。それでは、またいつかお会いできることを祈って────。さあ、キャリエル、出発だ」
ありがとうございました。
2016.11.13 樋口奏




