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「月が赤いわ」
愛車に付着した泥汚れを拭き終わって、ミチカは夜空に浮かぶ小望月を、ふと仰ぎ見た。
「明日は晴れだな。爆弾が湿気なくてよかったぜ」
ファイはジープの汚れをそのまま放置している。面倒なメンテナンスはヴォイドたちと合流してから専属エンジニアに任せればいいと思っているようだ。
「シンラって何者かしらね。日本人かしら」
「渋いオッサンだったりしてな」
「ピチピチの若い美女だったりして」
「そりゃ楽しみだ。当分お目にかかってねぇもんな、ピチピチの若い美女なんて」
「視力は大丈夫? 顕微鏡より先に老眼鏡が必要なんじゃない?」
「んなもん着けなくたって、ブルーヤマトの鼻クソまでバッチリ見えてらぁ」
「はあ......」
このデリカシーの無さ。運転席でだらしなく欠伸をしている、髭面の素っ頓狂。
若い頃はもうちょっと男前な雰囲気を漂わせていた気もするが......と、ミチカは古い記憶の欠片と今のファイを比べてため息を漏らす。
テントは張らず、ジープの前部と後部にそれぞれ寝転がり、半月ほど前にスグルが付け直してくれた新しい幌を掛けて、一夜を過ごす。
シンラという人物が奇形種を作り出している張本人だとすれば、彼または彼女に会って話をつけることで脅威の根幹を断ち切れるかもしれない。早ければ明日にでもケリがつく。ファイは実力行使も視野に入れているが、ミチカはなるべく穏便に解決したいと考えていた。
幾度直面しても、これだけは慣れることのないもの────人の死。涙にむせぶヤスクニがより一層、その理不尽なカタストロフィーをミチカの脳裏に植えつけていた。
月明かりさえ血の色に染まった深夜1時、静寂の彼方にミチカは何かを聞きつけた。
「あれは......」
不協和音が重厚な旋律を奏でるような咆哮。いつかどこかで聞いたことがある。
すぐさま起き上がり、座席の下に置いておいた銃を携える。
あいつだ......覚えてる......あいつが近くにいる。
銃を握る手が恐怖と怒りで震えたが、身体は迷わず追撃体制に入っていた。幌を押し開け、後部座席から躍り出て、猛り声が聞こえた方へと走り出す。
そういえば、あの日もこんな月明かりの夜だった。父親の足元から伸びた影が本体の形を無視して不気味に伸長し、赤黒い大地をヌルヌルと這っているように見えたのを覚えている。
その影だけでも十分怖かったのに、その後目にした光景は────
獅子を思わせる銀色のタテガミ、裂けた口と醜く張り出した鼻、2本の角の先端は真正面を向き、四足と思いきや背中からも2本の腕が生えている。そして何より印象的なのは、今宵の月と同じ、妖光漲る真っ赤な目。
図鑑に明記された、その名も────『ヤシャ』
「あいつだ......間違いない」
過去十数年に渡って、この奇形種に複数体の目撃例など無かった。今ミチカの目の前にいるのは、紛れもなくあの時の「あいつ」に他ならない。
「父さん......とうとう見つけたわ。絶対に......絶対に、許さない!」
絶叫と銃声が冷気をつんざいた。
ヤシャの白銀のタテガミが────スグルならこの場面を伝統舞踊の「能」のようだと表現したかもしれないが────見事に舞ったのだ。バサッと空に跳ねたヤシャの、耳まで裂けた口はまるで般若のそれであった。
あの口が父の身体を八つ裂きにしたのだ。この、鬼畜! 悪鬼! 悪魔!
だがそんな憎悪に彩られた罵言さえ賛辞に聞こえかねない、ヤシャの姿はあまりに奇怪千万なものであった。
ミチカはシリンダーに新たな弾を詰め込んだ。怒りのあまり手が痙攣を引き起こし、的が定まらないまま再び引き金を引く。
「父さん......父さん......」
目が翳んで涙が滲み出た。6発撃ってもヤシャは被弾しなかった。
醜い般若面は、はためくタテガミの間からつり上がった赤い目でミチカを睨め付ける。
ここに、まだ誰も知らないヤシャの生態があった。真っ赤な目には、ギラギラと淫靡な光彩が宿っていた。ミチカの燃えるような頭髪に、なんとヤシャは性的興奮を覚えていたのである。
覚えているだろうか。モーバルのクモ男、そしてパドルスクの樹木型人間を。
生まれながらに人間であった彼らが、なぜ奇形種の形質を体内に混在させていたのか。それは、非常に稀なケースであるが〈奇形種に愛され、性的関係を持った〉からだ。異質な遺伝子が混入された彼らの身体は、奇跡的にも「異種蛋白マクロファージ内寄生」という融合を果たし、自らも「奇形種」と呼ばれる存在になってしまったのである。
揺れ動く赤髪は、能舞台で燃え盛る篝火にでも見えるのだろうか。タテガミを逆立てて、ヤシャはミチカの周りをぐるぐると徘徊し始めた。しめやかに───肉欲の情を色めき立たせて。
バサリ、バサリとヤシャが舞う。一人の雌に見せつけるように。どんなに醜悪な姿であってもその舞を見せれば惹き込まれるとでも思っているのだろうか。
バキューン! バキューン!
ミチカの銃ではない。コルト・トルーパーの快音が、ヤシャの背中の腕2本を引き裂いた。
ギャアアア!!
般若面の口から苦鳴が上がる。
「どいてろ、ミチカ! お前の腕じゃ、こいつにゃ掠りもしねぇぜ」
ファイが怒鳴る。
「父さんの仇なの! こいつがわたしの父さんを......」
「ああそうだ。マージェを殺ったのはこのヤシャだ。だからこいつはな────」
血走った眼をして、両手に構えた銃身の先を一瞬たりとも的から逸らさない。こんなに殺気立ったファイは初めてだ。
「ハナっから俺が仕留めるって決めてんだよ!!」
反動の誤差から生じる手元の狂いなど気にも留めず、ファイは二丁同時に乱射する。
辺りには血煙の紗幕が垂れ込め、狂想的な鬼面の乱舞にどこからともなく囃子の音すら流れてきそうだ。散弾の爆発とともに、白銀の繊毛が毟り取られた花弁のように夜空に散り乱れる。
敵が息を継ぐ隙に、ファイは息も継がずに弾を込めた。
「マージェ────。償いにもなりゃしない......だがこいつを殺らなきゃ、償いすら始まらねぇ」
既に被弾は数カ所に及ぶが、どれも致命傷には至っていないようだ。そもそも射撃というのは、物陰から狙い撃つか盾がいてこそ有効と言える。ここでヴォイドの抜けた穴は大きかった。ファイは二丁の銃を信じていたが、十数年間いかなる討伐も寄せ付けなかったこの奇形種は、彼の腕を持ってしてもなかなか仕留められない。
「ファイ!」
ミチカの叫びが、ファイの太腿から噴き出した鮮やかな動脈血に溶け込んだ。やがて肉が喰い千切られ、腱が断絶され────ああ、まさにあの時の光景が再現されているようだ!
「ファイ......嫌だ......死なないで。死んじゃ嫌ああ!」
ファイの右手からショットガンが転がり落ちた。弾が尽きていた。効力を失くした武器は、もはやただの「物」でしかない。
ヤシャが跳んだ。殺意の狂想────最期の舞踏だ。
死の間際に音は無い。いや......一つあった。
マージェの仇を追うために、ファイが全財産を叩いて買ったコルト。そのシリンダーに残された、たった一発の弾丸が、ヤシャの眉間に突き刺さる音だった。
────バキューン!
その瞬間、白銀の夜叉は悶絶すらする間も無く息絶えた。血塗られた両眼で、血塗られた月を見つめたまま。
「ファイ......」
駆け寄ったミチカの頰は、大粒の涙で濡れていた。
ファイは手を伸ばして涙を拭いてやろうとしたが、折れているのか指先の感覚が無かったので、仕方なく引っ込めた。
「こんなことで許されるとは思っちゃいねぇ。俺の罪は、一生償っても消えるもんじゃねぇんだ。ミチカ......お前は覚えちゃいねぇだろうが、マージェがお前を連れて家を出たのは俺のせいだ。バカだった......今でもバカだが、昔はもっとバカだった」
「そうね」
ミチカは泣き顔にほんの少し、柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたが名前を捨てた理由くらい、わたしが知らないとでも思ってた? 5つだったのよ、わたし。3歳の時の記憶だって残ってる。仕事が忙しい父さんには、どこにも遊びに連れてってもらえなくって......」
────”兄ちゃん、どこか遊びに連れてって”
そうファイにせがんだのは、ミチカだった。
「優しいオジサン、いえ、お兄さんだったわ。どんな子どもでもあなたを好きになるのは当然よ。だってわたしもそうだったから」
ファイが目を見張り、信じられないというような表情でミチカを見る。
「俺が憎くねぇのか? 俺はお前の両親を......」
「憎かったヤシャは死んだ。あなたのお陰でね。だから、あなたは絶対に死なないで」
ミチカは自分で涙を拭き、ファイの傷の手当てを始めた。
「へっ......死にゃしねぇさ。もうちょっとお前の傍にいたいんだ。こんなオヤジでも、大切なものを守るためなら何だってするぜ。アイタタタッ」
太腿の裂傷は思ったほど深くない。口もきけているのでとりあえず大丈夫そうだ。
「ようやく覚えたみたいね。口説き文句」
「ちょっと遅すぎたかもしれねぇがな」
「死ぬ前に言えてよかったじゃない。他にいい女に巡り会えなかったら、老後の面倒くらいは見てあげてもいいわよ」
「いい女か......」
ファイは、自分と月の間にある、見慣れた顔に微笑みかけた。
「これ以上ねぇくらい、いい女がいるじゃねぇか。目の前に」




