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北上するにつれて低下する気温。更に寒冷前線の通過直後とあって、湿り気を含んだ着衣に体温を奪われ、スグルは凍えてしまいそうだった。
日本人ならこういう時は風呂に限る。ヤスクニは危険極まりない宿だったが、出された食事と岩風呂は最高だった。
「クシュン!」
「寒いのか?」
「......別に」
冷え切っているのは、どうやら空気だけではなさそうだ。歩きすがら交わされる会話まで、スグルの冷淡な受け答えのせいで停滞を余儀なくされている。早朝から忍者たちとの戦いで疲労困憊のヴォイドが、それでもめげずに話しかけているのは、ある意味健気だ。
「グリーディの目を見た時は正直焦った。あれは追手の忍者のものだったのか」
「だと思うけど」
「ということは、あの鳥に多少は助けられたということか。奇形種を惹き付ける特殊能力は健在だな」
そっちは人間を惹き付けてばかりのくせに。と言おうと思ったが、考えていることの核心を露見させてしまうようで、スグルは言うのを止めた。
「何を怒っている?」
「別に」
「ケイゴのことか」
「別にって言ってるでしょ」
モヤモヤと、寒気よりも疲労よりも鬱陶しいものが、さっきからスグルの胸中を駆け回っていた。
ニュートラルの顔をしたあの黒髪の忍者は、おそらく里の中では最も美しい人だったに違いない。風呂場の脱衣所でヴォイドを見つめ、甲斐甲斐しく浴衣まで着せて。
あの時、見つめ合う2人に対して感じたものが、今では耳を生やし目を開けたグリーディのように成長している気がして、スグルはそんな自分の感情に、何より嫌気が差していた。
「食べるか?」
ヴォイドが差し出したのはコーンビーフの缶詰だ。
2人とも朝から何も食べていなかったが、
「いらない。食べれば」
と、やはりつっけんどんな返事。結局ヴォイドはそれを袋の中に戻して、空腹のまま歩き続けた。
数時間歩いても研究所らしき施設はまだ見えず、今夜も野宿は決定的だが、いかんせんこの寒さ。
地平に日の光がすべて吸い込まれると、2人は足を止めて適当な場所に腰を下ろし、竹水筒に残っていた水だけ飲んで一息ついた。
「クシュン!」
スグルが青ざめた唇でくしゃみを連発する。その悴んだ肩を、おもむろにヴォイドの腕が抱いた。
「こ......こういうの、やめてよ」
うろたえる身体は氷のように冷たかった。
「こうしないと凍え死ぬだろ」
ヴォイドは背中からスグルを抱きしめ、指の先まで手の平に包み込んでしまった。
ドクン......と、小さな心臓がたちまち熱い血潮を放出し始める。体温と体温が重なると、どうしてこうも温かいのだろう。
だが重ねられた手を見つめ、スグルはこの手が数時間前に別の手と重なっていたことを思い出した。その手は死んでしまったが、ヴォイドはまだ温もりを覚えているはずだ。
「僕を......どうしたいわけ?」
歯痒さのあまり、突飛な言葉が口から飛び出てしまった。
「どうもしない......どうかされたいのか?」
首筋近くに位置している唇から、魅惑に満ちた声がする。
「イヤなんだ、男同士でこういうこと」
「我慢しろ。夜が明けるまでの辛抱だ」
「あと何時間かな......こんな状況、耐えられないかも」
「そんなに俺が嫌いか?」
「────」
低くささやく声に、答えはあっても答えられない。白々しく並べた言葉が全部嘘であることは、スグル本人が最もよく分かっている。
「ひゃっ......」
ヴォイドの唇が、とうとううなじに触れた。
スグルはぎゅっと目を瞑り、優しく吸着している唇の感触を受け止める。ドキドキと加速する心臓の鼓動────耐えられなさそうなのは、こっちの方だった。
「まだ寒いか」
ヴォイドがスグルの背中のシャツを捲し上げ、はだけた自分の胸元にピタリと密着させた。
「......っう......」
直に肌を触れ合わされて、スグルの口から泣きそうな声が洩れた。
長い指がほんのり赤らんだ頰を包んで優しく撫でる。うなじにあった唇も、もう片方の頰へと移動する。
「なっ......何もしないって......言ったくせに......」
頑なに縮こまり、スグルは喉を震わせた。すぐそこにある麗しい顔が、これまでにないほど哀しげに愛おしげに自分を見つめていることなど、知るはずもなく。
「答えてくれ。俺が嫌いか?」
「────」
700年前には知らなかった心の葛藤が、暴風雨のように血管中を暴れ回っている。独りでは決して感じることのできない温もりが背中を覆い、頰を伝って、体内に溶け込んでくる。ヴォイドの命の温度────この温度が、他の誰かに触れるのを見るのが嫌でならない。チクチクと心に絡みつく疎ましい感情。これは────嫉妬だ。
背後からそっと頰に触れ続ける唇は、それでも徐々にスグルの凍った身体と心を解きほぐしていった。ヴォイドは手に包み込んでいた細い指を、自分の指と絡め合わせて握った。唇は頰からまた首筋に下りてきて、一度軽く歯を立てた。
背後の息遣いが少し荒くなったのが分かる。そして────
「......ってる」
スグルは熱った頰から火が出そうな気分だった。ヴォイドに聞こえなかったようなので、もう一度言い直す。
「当たってる.......ヴォイドさんの」
ズボンの後ろにある違和感がさっきから気になっていた。それは彼も自覚していたのか、
「気にするな」
と言ったはいいが体勢を変えるつもりもないようだ。
「そんなこと言われても......」
「何もしない。我慢を強いられるのは慣れている」
「我慢って......」
そこであれこれ妄想が膨らみそうなものだったが、
────”普通はこのまま放置などしない”
こんな場面で思い出してしまったアシモの言葉。しかもあのデジタル音声そのままで。
スグルは笑いこそしなかったが、ちょっと肩の力が抜けた。そして気付いた。今の今まで不覚にもアシモのことをすっかり忘れていたことに。
「ずっとこうしていたい。最近はそればかり考えている」
背中からも振動となって伝わってくるヴォイドの思い。
スグルはもう耳を塞ぐことも目を閉じることもせず、広い胸元に寄りかかって彼の声を聞いた。仰いだ夜空には真円に近い月がくっきりと浮かんでいる。
「こんなに触れていたいと思うのは......」
背後の声が、苦しげに切なげに告げた。
「俺が、アカツキスグルを愛してるからだ」
静寂の彼方に、獣の咆哮だけが轟いて消えた。
この告白は愛など理解できなかった少年の心にどう響いただろう......だが────
少なくともこれを聴いた天の月は、嫉妬に狂って不気味な妖光を放ち始めたではないか。禍々しいほどの、それはまるで血の色を思わせるような。




