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雷雲は遠退き、勢いを失った雨に代わってぽつりぽつりと降り注ぐのは、ケイゴの述懐だった。蝋のように白い顔が、片腕に激痛を抱えて血の気を失いながらも、どこか嬉しそうに語り続ける。
「私たちは、本来ならば生を受けた瞬間に闇に葬られる運命でした。しかしシンラ様と仰るお方が、黒髪の形質を持つ者をヤスクニに集め、キャビテーションの守護に当たらせるようにと、ニュートラルの長老たちを説得して下さったのです。我々の存在意義とは、そのことを意味します。ヤスクニで育ち、忍術を学び、キャビテーションに近付く人間をことごとく排除する────それが日本人の使命であり人生に他ならないと、里の者は信じて疑いません。私もそうでございました......ヴォイド様がいらっしゃるまでは」
ケイゴは大きく息を継ぎ、肘から下が消失した右腕を左手で摩った。
「少し休むか」
「いいえ、歩けます」
濡れそぼつ二つの影。その一つが切なく寂しげに、もう一つを見つめる。
「闇に生き、闇に散る────忍者の本質とは、社会から見捨てられた我々の本質そのものでした。ですから、はたからはヤスクニに魂を囚われているように見えるかもしれませんが、我々にとっては歴とした心の拠り所であり安住の地であるという思いに変わりはございません。ですが......昨夜私があなた様に申し上げたことは、本心。普通の人間として生まれ、違う場所で出会いたかった────このように感じたのは、あなた様が最初で最後でございます」
見つめても、ヴォイドの横顔は限りなく遠い。この人に手が届く人などいるのだろうかと思うほどに。
「......いえ、やはり私はある意味ヤスクニに囚われていたのかもしれません......」
ケイゴは虚ろな目で、どうにもできなかった己の定めを見つめ返す。
愉悦も何もない閉塞的な環境で、ひたすら苦行を積むだけの日々────
修行の厳しさから気が狂う者や抜け忍となる者が続出し、里が疲弊した時期もあった。里の掟を巡る揉め事で壮年の世代が対立を深め、溜め込んだ不満が男たちを自堕落な欲望へと走らせた。
そんな折、ヨシサダの提案で色欲が一部開放されることとなった。モウリは最後までそれを良しとはしなかったが。
そしてその役目を任されたのが......
「このような雨の日は、大変憂鬱でございました」
空を見上げてケイゴがぽつりと言った。
雨の日は終日何人もの男を相手にしなければならず、これも里のためと堪えてはいたがまともに受けていては心がもたなかった。そして寧ろ「心」が不要だと感じ始めた。あらゆる感情を捨て去りただの機械か人形になれば、どんなに楽かと考えた。
「もしヴォイド様がいらっしゃらなければ、私は一生ヤスクニの囚徒として、屍になるまで空虚な闇を彷徨っていたでしょう。しかしながら、人生は苦であるという真理を今日の豪雨が洗い流してしまったようです。鎖から解き放たれた気分というのは、実に清々しく晴れやかでございます」
いつしか小雨も止み、ケイゴの心の内を表すかのような、柔らかな青空が広がりつつあった。
「俺たちと一緒に来るか」
ヴォイドが言った。どの道、ケイゴは里には戻れない。
「お優しいお心遣い、痛み入ります」
ケイゴは礼だけ告げた。歩幅は狭まり、時々目が翳み始めた。
薄れゆく意識の中、逞しい腕に身体を抱き上げられた感触があった。捨て去っていた感情がまた一つ、心の片隅で息を吹き返す。
鳥に2つ目の目玉ができる瞬間を、スグルは不覚にも見てしまった。これを意図的に作り出した学者がいるのなら、天才というより神かもしれないと感動すら覚える。
「キミは何になりたいの?」
語りかけたところで、鳥はスグルをじっと見据えたまま囀りもしない。次に必要なのは饒舌な舌といったところだろうか。
スグルは自分の髪の毛を数本引っこ抜いて鳥の目の前に置いてみた。
「青い羽根に黒い毛が生えるかな」
鳥はちょっと首を傾げる動作をしながら、黒髪を嘴で突いて飲み込んだ。
アミノ酸を主成分とする毛髪が、この奇妙な小鳥の発育にどんな影響を与えたか。
「あ......」
スグルの口から、小さな驚きが漏れた。
ぬかるんだ地面の上に、25㎝くらいの大きさの足跡が続いている。
里からおよそ5㎞、キャビテーションへはあと十数㎞の地点で、足跡は途絶えた。
意識を取り戻したケイゴはまた一つ、心の軋みを呼び覚ます光景を目にしていた。
ヴォイドが震える手に何かを持っている。
震える? 彼がそこまで怖れる物とは何なのか。
「何か手掛かりでも?」
ケイゴが訊ねると、顔を上げた男は一瞬だったが、奈落の底でも見たかのような暗い表情を浮かべていた。
手にしていたのは青い鳥────グリーディだった。漆黒の瞳が二つ。そして真っ直ぐな、癖の無い黒髪が数本。
「まさか......」
「────」
ヴォイドは無言だった。ケイゴの発した「まさか」の次に継ぐ言葉など、認めたくないとでも言うように。
鳥は死んでいた。だがまだ身体は温かかった。
「スグル! スグル!」
ふらふらと男が歩き出す。絶望にも似た動揺が、叫ぶ声に滲んでいる。
「スグル......どこにいる......スグル......スグル......」
その名を呼んで何度目か。
「スグル!」
ヴォイドが突如駆け出した。
小柄な黒髪の少年が、向こうから歩いてきた。
ケイゴは目を閉じた────残したくない残像など見なくていい。
「目は......ああ、ちゃんとある」
スグルの頰を両手で包み込み、両目が無事なのを確かめてから、ヴォイドは細い身体を思い切り抱きしめた。
「い、痛い......。僕なら大丈夫だから、放して」
抱擁からすり抜けたスグルが手に持っていたのは、一本の棒切れだった。
「そこにグリーディが死んでいた。あの鳥はどうした」
「鳥なら、僕の頭髪を食べた途端に死んじゃった。死んだ細胞を食べさせたのが良くなかったのかな」
言いながら、スグルはケイゴに目を留める。
「あの人が助けてくれたの?」
「ああ。腕に怪我を負っている。行ける所まで一緒に行くつもりだ」
「そう......」
スグルは持ってきた棒で穴を掘り、グリーディの死体を地中に埋めた。
その間に、ヴォイドはケイゴの腕の具合を見た。ただ布を巻き付けただけの応急措置では完全な止血は無理だった。
「研究所になら治療のできる物があるかもしれない」
「この身体では、もう歩けません」
「俺が背負って行く」
その言葉に、慎ましげに顔を綻ばせ、そっとヴォイドに身を寄せる。幸せとはきっとこういうものなのだと、ケイゴは生まれて初めて実感していた。そしてそれは、儚い夢に似ている、とも。
少しして、ケイゴはスグルの様子を一瞥した。
どこからどう見ても日本人そのものだった。里長のモウリや、かつて里にいたサトミという少女も、ニュートラルからかけ離れた容姿をしているが、これほどニュートラルの要素を持たない日本人というのは見たことがないと思った。
「スグル様......あなたはどこからいらしたのですか」
その問いに、まさかこんな答えが返ってくるなど思いもしなかった。
「日本です」
ケイゴの手がさり気なくヴォイドの手に添えられているのを見て見ぬ振りをして、スグルはグリーディの墓に小石を積み上げている。
「ヴォイド様」
ケイゴは夢見心地に呼びかけた。見ているのは、もうじき終わる夢だった。
「......私はお二人と共に行くつもりはございません。抜け忍の末路をご存知でしょうか。六道輪廻────はて、次はどの道に生まれ変わるのでしょう」
ケイゴは笑みを浮かべたまま、懐から最後の忍具を取り出した。
「私の名は松平慶吾。いつかお忘れになっても構いません。束の間、あなた様のお心に留めていただけたら、嬉しく存じます......」
そいう言うと、遮る間も与えずに、手にした毒薬を口に含んだ。
ああ────儚きとは、人の夢。
この瞬間、ヴォイドの腕の中で苦悶の叫びすら上げることなく、一つの命が静かに闇へと帰したのであった。




