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障子の向こうの苔生す日本庭園は、十三夜の月に照らされ実に優美であった。
グローバルにも地域特有の文化なら存在するが、ここに有るのはグローバル人からすれば異文化というより異世界といってもよいほどの幻想的な景観であった。
────微かに聞こえてきたのは笛の音か。
ヴォイドは障子を開け、中庭をぐるりと囲む回廊に出た。
音のする方へ歩いていくと、そこにいたのはケイゴだった。
「お耳汚しでしたでしょうか。失礼いたしました」
と正座をした姿勢で頭を下げる。
日本人とはどうしてこうも礼儀正しく謙虚なのだろうかと、ニュートラルやこの里の人たちを見てつくづく感心する。そういえばスグルも日本人だったが......この際、それは置いておくとして。
「いや、美しい音色だった」
ヴォイドはケイゴのすぐ傍に腰を下ろし、しばらく庭を眺めた。絶妙に配置された植木や庭石、石灯篭────決して華美ではないが見れば見るほど味わい深いこの庭には、里に住む人のストイックな世界観が凝縮されているようだ。
「ご友人はもうお休みになられたのですか」
「おそらくな」
コトッ、と横笛を置く音が軽妙に響く。幽玄の静寂の間にまに、笛の音が止んでしまったのを惜しむかのように、虫たちが羽を震わせ鳴いている。
「つかぬ事をお伺いいたします。ヴォイド様は恋人を亡くされてさぞやお辛かったでしょうが、生きることにも疲れ果てたというのは、今でもそうお思いですか?」
低く艶のある声だった。顔だけでは男とも女とも判別がつかないが、喉仏や丸みのない体つきがケイゴの性の優位を表していた。
「どうかな。今はそうでもない気がし始めたところだ」
「どのようなお方だったのですか」
「禁忌だった。あなたとは髪の色が違うだけの、ニュートラルだった」
ヴォイドはやけに無防備に過去を口にした。一瞬頭がクラッとして首を振る。
傍にある小さな青磁の壺からは、強い香の香りが漂っていた。
「さようでございましたか。ああ、ですが私がニュートラルであると認められなかったのは、なにも髪の色だけではございません。もう一つ、決定的な違いがあるのです」
「どんな?」
「私は雌雄同体にも至らなかった......完全な『男』なのです」
黒い睫毛が震えるように揺れていた。ヴォイドに見つめられてこのくらいの動揺で済んでいるのなら、たいしたものだ。
「ニュートラルであっても多少の雌雄の差は皆あると聞いたが」
「はい。ですが差はあるにせよ、両具を形成する遺伝子を持っているのは確かでございます。しかし私の場合それが欠けてしまった......このように染色体の異常でヤスクニに連れて来られた者は、子孫を残すことも禁じられております。すべてはニュートラルの存続のために」
「────」
黙って足を組み替えた男の浴衣の裾から、太腿が剥き出しの状態で伸びていた。
ケイゴはうつむきながらその太腿を見つめ、少しして、顔を上げ吸い寄せられるようにもう一つの美しい顔に視線を留める。
「......今まで23年間、何の疑いもなくここで生きてまいりました。私の人生はこういうもので、ニュートラルが後世により完璧な遺伝子を残すためには致し方ないことなのだと納得して......ですが今日初めて、私はニュートラルでもなく、ニュートラルが劣化した日本人でもなく、普通の人間として生まれたかったと思いました。そしてここではない場所で、あなたと出会いたかった」
闇に半分溶け込んだ漆黒の長い髪を、ヴォイドがそっと撫でた。一筋のほつれもない絹糸のような髪だった。
「あなた様はこれからどちらへ向かわれるのですか。あなた方はこの先に何があるのかご存知なのでしょう? もしよろしければ、私に本当のことをお聞かせ下さいませ」
ささやくようなケイゴの言葉に、ヴォイドはぼんやりとつぶやく。
「本当のことか......」
目線はさっきからずっと、ケイゴだけを見つめている。髪を撫でた指先からも、意識が遠のくくらいに甘い香りが漂ってくる。
「夜はまだ長うございます。ヴォイド様、私の部屋で一晩語り明かしませんか」
少し開いた障子戸の奥に、2組の布団が並べて敷かれてあった。
淑やかに伸びた青白い指先が、そっとヴォイドの手を握ろうとする。
だがその指をすり抜けるように腰を上げ、
「そろそろ眠くなってきたのでこれで失礼する。今日は色々と世話になった」
虫の音に送られながら、ヴォイドは鶯張りの廊下をもと来た方向へと歩き去った。




