第8話「ランクアップ試験」
三日後。C級冒険者への昇格特例試験の当日。
レイドたち三人は、ブレンハイム郊外の険しい山間部にある中級ダンジョン「嘆きの地下水脈」の、苔むした巨大な石造りの入り口の前に立っていた。
ぽっかりと開いた漆黒の洞窟の奥からは、轟々と岩肌を削るような激しい地下水流の音が不気味に響き渡り、氷のように冷たく湿った死の大気が、彼らの顔を絶え間なく打ち据えるように吹き上げてきている。
彼らの後方には、ギルドから派遣された腕利きのベテラン判定員の職員が、クリップボードを片手に無表情で控えていた。
「試験のルールは事前に通達した通りだ。道中の指示や戦闘における、私からの助言は一切ない。私が君たちの戦闘に介入した時点で、その瞬間に試験は即不合格となる。生死に関わる致命的な危機以外は決して助太刀しないので、命を落としたくなければ自ら早期の撤退判断を下すこと。……よいな」
「了解した。行くぞ、二人とも」
レイドは長剣の柄に静かに手をかけ、不安そうに身を固くしているリーネとガルドには一切の余計な言葉をかけず、自ら一切の躊躇なく先頭を切って、水音の反響する暗闇のダンジョンへと足を踏み入れた。
◇
第一層。ここは、人一人歩くのがやっとの狭い通路が複雑に入り組んだ迷路構造と、壁に反響する激しい水音で冒険者の方向感覚と聴覚を完全に狂わせる、悪意に満ちたエリアだ。
通常の新米パーティーであれば、マッピングの紙を引き、壁にチョークで何度も目印をつけ、魔物の奇襲に怯えながら数時間かけてじりじりと進む場所である。
だが、レイドの足取りには全くの迷いがなかった。壁に自生するヒカリゴケの頼りない薄明かりの中を、まるで勝手知ったる自室の廊下を歩くかのように、淀みなくスパスパと進んでいく。
「最初の分岐は三本全てトラップだ、すぐ横の壁の亀裂を右に抜ける。次は左だ。その次の細かい三叉路の分岐は、音に騙されずに必ず中央を突っ切るぞ」
「お、おいお前……いくらダンジョン攻略本(大嘘)を読み込んだからって、初見なのに一切立ち止まらなさすぎだろ! 少しは迷え!」
「壁の削れ方と水流の微かな浸食パターンを読めば、本道は簡単に透けて見える」
ガルドが気味悪がってツッコミを入れ、リーネが背後から『またそんな適当な嘘ばっかりついて』という冷たい無言のプレッシャーの視線をレイドの背中に突き刺す。
結果として、三人はベテランでも最速で一時間は確実にかかる第一層の迷路を、わずか十五分という前代未聞のタイムアタックのような速度で完全に突破してしまった。
続く第二層。ここから本格的に、このダンジョン特有の厄介な魔物が容赦無く出現する戦闘エリアとなる。
「前方左、十五メートル先の太い石柱の影。石の質感に完全に擬態した中型の『ロックスパイダー』が三体張り付いている。壁の苔の生え方がそこだけ極端に不自然に偏ってるからバレバレだ——動いたぞ」
レイドが平坦な声で説明を終えるか終えないかのうちに、石柱の影からカサカサと不気味な音を立てて蜘蛛の魔物が一気に跳躍して襲い掛かってくる。
だが、レイドはその跳躍の軌道を完全に先読みし、一切の防御の構えをとらずに前へ踏み込むと、空中の蜘蛛3体の最も強固な石の装甲の、ほんの数ミリの「柔らかい関節の隙間」だけを下から上へと精密機械のように連続で一閃して斬り捨てた。
戦闘開始から終了まで、わずか三秒。
「お前、絶対背中に目ェついてるだろ……俺の盾の出番がねぇじゃねぇか」
ガルドが呆れて大盾を下ろす中、三人はその後も水中の隠し罠を完全に看破しつつ、襲い来る高レベルのスパイダーや泥のゴーレムたちを、一切の魔法の無駄撃ちも、かすり傷一つすら負わずに流れ作業のように沈黙させていった。
後方を歩く判定員の職員は、D級どころかA級のベテラン探索者をも凌駕するその圧倒的な迷いのなさと戦闘の効率化に、恐怖に近い感情すら抱きながら、震える手で無言でクリップボードにメモを取り続けていた。
◇
だが。事態が急変したのは、第三層の探索も中盤に差し掛かった頃だった。
「……待て。止まってくれ」
先頭を軽快に歩いていたレイドの足が、突如として磁石で引き止められたようにピタリと止まり、その顔からスッと血の気が引いた。
ルートの通りなら、このT字路の先は、巨大な大広間へと続く下りの安全な石段の通路があるはずだった。……だが、レイドの目の前を塞いでいたのは、隙間ひとつなく完全に崩落し、人為的に魔法で固められたかのような一面の冷たい『巨大な石壁』だったのだ。
「なんだ、完全に行き止まりじゃねぇか。さすがのお前のインチキな勘も、とうとう底をついて間違えたか?」
ガルドがのんきに笑いながら背伸びをするが、当のレイドの体は、頭から氷水を何杯も浴びせられたように体の芯まで冷え切っていた。
——記憶にない。俺の5年間の死の記憶の「正解ルート」に、こんな壁は一切存在しなかった。
ダンジョンの自然な構造変化か? いや違う、これは明らかに誰かが人為的に内部の構造を弄った痕跡だ。あの森の「球体」を前倒しで無理やり壊してしまったあの日の影響の予測不能なバタフライ・エフェクトが、こんな場所のダンジョンの構造にまで確実に波及してきているということか。
「……ルートを変更する。少し迂回して、別の横穴から抜けるぞ」
「レイド……大丈夫? あなた、すごく顔色が悪くて、冷や汗をかいてるわよ」
レイドの異変と焦りにいち早く気づいたリーネが、不安そうに小声で囁きかけてくる。
「問題ない。想定内のエラーだ」
レイドは強がりでそう答えたが、内心では、今まで知っていた自分の足元を照らす「透明な絶対安全の道」が、突如として一寸先も見えない濃霧に完全に覆われてしまったような、強烈な未知への恐怖と不安感に襲われていた。
(怖い、か。当たり前だ……だが、今さら何を恐れる。俺はもう、ただ過去の記憶の決まったレールの上を安全になぞるだけの傍観者じゃない。記憶が役に立たない未知の局面なら、俺自身の足と力で新しい未来を無理やり切り拓くだけだ)
迂回路を抜け、細い横穴からようやく目的の大広間へと出た、その時だった。
「お、おい……冗談だろ……なんだよ、ありゃあ……」
ガルドの声が、完全な本能的な恐怖で情けなく引きつった。
大広間の中央。水没した石畳の上に、全高四メートルを優に超える、悪夢のような強大な巨人がゆっくりと立ち上がり、鎮座していた。
大理石のように強固な体表には、先日遭遇したあの謎の暗殺者の武器と同じ、禍々しい暗紫色の光の筋が呪いのようにドクンドクンと脈動している。
本来このダンジョンのボスであるはずの通常ゴーレムではない。魔力汚染を起こして強制的に凶暴化された『変異型ゴーレム』。一周目の歴史にはこのダンジョンに絶対に存在しなかった、明らかに「教団の力」が介入して意図的に配置されたイレギュラーな化け物だ。
「おいおいおいおい嘘だろ! あんなどう見てもB級上位のバケモン、C級試験のレベルの範囲を完全に超えすぎだろ!?」
「判定員さん、ちょっとストップ! このボスおかしいわ、明らかに試験の難易度範囲外のイレギュラーよ!」
二人が激しく抗議して後ろを振り返るが、後方で控えていた判定員の男もまた、その教団の放つ未知の禍々しい巨大な魔力と威圧感にあてられ、完全に顔面を蒼白にして腰を抜かし、逃げ出すこともできずにガタガタと震え上がっていた。
もはや、逃げ道はなかった。
レイドは、ゆっくりと鞘から長剣を抜き放ち、強固な決意と共にギリッと奥歯を強く噛みしめた。
知らない敵。5年間の戦闘データもない。歴史の記憶のアドバンテージは完全にゼロだ。
……なら、今この瞬間の、俺自身の戦士としての力量で『直接全てを読む』までだ。五年間、教団の化け物たちの理不尽な暴力の死線の上を這いずり回り、生き残ってきた俺自身の狂った剣の力を信じろ。
巨人の重心の置き方、筋肉の代わりとなる魔力結合の動作のクセ。そして、強力な大振りの攻撃を放った後に生じる『魔力充填による硬直のインターバル』は……約二・五秒。
体表を這うあの紫色の不気味なラインは、教団の急造の魔力で雑に外部結合されただけの、最も崩れやすい装甲の脆弱な「繋ぎ目」だ。
「ガルドォッ!! 盾を強く構えろ!!」
レイドの大音量の咆哮が、地下の広間に雷のように轟いた。
「あいつのあの大木みたいな右腕の振り下ろし攻撃の直後には、必ず約二秒間の完全に動けない隙ができる! 逃げるな、お前が真正面からその一撃を絶対に受け止めろ! その一瞬の隙に、俺が側面からあの紫のラインの隙間に剣を叩き込んで結合を切断し、絶対に魔法を叩き込める隙を作る!!」
「んな無茶苦茶な!? なんで出会って十秒の初めて見る化け物の攻撃間隔とか隙が、そんな正確にミリ単位で分かるんだよ!!」
「俺の目を信じろ! お前のその大盾なら、絶対に防ぎ切ってやれる!!」
「クソッ!! お前のそういう時の根拠のない恐ろしい自信だけは、昔から嫌いじゃねぇんだよッ!!」
ヤケクソの絶叫と共に、巨大な盾を構えたガルドが、自から岩の巨人に向かって猛然と突撃する。
巨人が、侵入者を粉砕すべく、大木のような太い右腕を鉄槌のように高く振り上げ、ガルドの頭上へと無慈悲に振り下ろした。
ガガァァァァァァァァッッッ!!!
岩盤が爆発したかのような凄まじい衝撃音。ガルドの鋼鉄の盾が、巨人の全力の一撃を真正面から受け止めた。
ガルドの足元の強固な石畳が放射状に十メートル以上もメキメキとえぐれ割れ、彼の両腕の太い筋肉がはち切れんばかりに異常に膨張し、口から血が吹き出すが……ガルドは一歩も後ろへ退くことなく、その致死の質量を完全に受け止め、耐え抜いた。
巨人の体勢が大きく崩れ、魔力充填のために動きがストップした、完全な二秒の硬直。
その瞬間、ガルドの後方の死角から風のように飛び出したレイドが、巨人の左脇腹の最ももろい『紫のライン』の結合点目掛けて、長剣を下から斜め上に全力で走らせる。
強烈な火花の散癒とともに、レイドの剣の刃先が魔力の結合を断ち切り、硬い装甲の表面にピシリと数センチの明確な「ヒビ」が入った。
「リーネ!! 今だ! 今俺が付けたそのヒビの傷口の一点にのみ集中して、お前の最高火力の水属性の魔法を狂ったように叩き込め!! 熱を持った岩の内部を急速冷却して一気に脆くしてやるんだ!!」
「やったるわぁぁああぁっ!! 詠唱破棄・『貫く氷河の牙』!!!」
リーネの杖から放たれた極低温の絶対零度の氷の槍が、真っ直ぐに巨人のヒビの傷口へと殺到し、突き刺さる。
高熱の魔力で駆動していた岩の巨人の内部が、極低温の氷で急速に冷却されたことで激しい体積変化の熱膨張収縮を起こし、バキバキバキッという凄まじい音を立てて、強固な大理石の全身に巨大な致命的なクラック(亀裂)が無数に広がっていった。
「これが最後だガルドォォッ! 大盾を捨てて横に退がれ! そしてあの胸の最大のクラックの核を、お前の大剣で完全に粉々に叩き割れ!!」
「お任せェェェェしろォォォォォッ!!!」
ひしゃげた大盾を豪快に投げ捨てたガルドが、痛む両足のバネの全てを使って空高く跳躍し、全身の百十キロの体重と重力の全てを乗せた巨大な大剣を、巨人の胸の中心から広がるクラックのど真ん中に向けて、魂の底からの咆哮と共に叩き落とした。
パァァァァァァァンッッ!!!
というガラスの砕けるような甲高い大音響と共に、石の巨人は内部の核から完全に崩壊し、数百の瓦礫の破片と化して轟音と共に大広間の水の中に崩れ落ちた。
教団の支配の象徴であった紫色の禍々しい光も、霧散するように空気中へと完全に消滅した。
「……ハァ、ハァ……ハァ。完全に核を砕いた。やったな、ガルド、リーネ」
「よっしゃあああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!! 俺の、俺たちの完全勝利だぁぁぁっ!!」
ガルドが大剣を天に掲げて勝利の絶叫を上げ、リーネは魔力枯渇で力なく膝から水たまり崩れ落ちて「もう、無茶苦茶すぎるわよ……」と深い深い安堵の息を吐き出していた。
壁際で腰を抜かしていた判定員の男は、その神がかった一瞬の連携の美しさに、ただ恐怖を通り越して陶酔したように震えながら、メモの記述を必死に書き直している。
レイドは長剣の刃の欠けを確認し、静かに鞘に収めて、大きく顔を上げて笑みを浮かべた。
——記憶にない未知の恐ろしいイレギュラーな敵が現れようとも。未来の知識に頼らずとも、今の自分自身の磨き上げた力と、この信頼できる二人の仲間の絆さえあれば、俺たちはどんな絶望も確実に打ち破っていける。
それはレイドにとって、未来から死に戻ってきて初めて実感できた、心からの生存と闘争の喜びに満ちた笑みだった。
◇
その後、広間を抜けた第四層、第五層の通常の魔物たちは、もはやただの作業のように淡々と踏破し。
完全に夕暮れ時となったダンジョンの入り口の石畳の上で、判定員の男から、震える声で彼ら三人への「正式なC級昇格の合格」が高らかに宣言された。
攻略にかかった総タイムは、たったの四時間十二分。中級ダンジョンの歴史上、類を見ない圧倒的な最速記録だった。
その場でギルドの魔力刻印が押され、彼らの安っぽい銅色のギルドカードが、一人前の冒険者の証である美しい『Cランクの銀色』へと更新された。
レイドは、その冷たくて重みのある銀色のカードを、自分の手の中で強く強く握りしめた。
「これで——やっと、あそこへ堂々と踏み込める免罪符(大義名分)ができた」
それは、閉鎖的で人間を嫌うエルフの森。
一周目の歴史では、ランクの低さと実力不足のせいで入ることも許されず、壊滅の助けに全く間に合わなかった後悔の場所だ。
「二人によく聞いてほしい。明日の朝、ギルドの酒場で今後のすごく重要な相談がある。この銀色のカードの権限を使って……至急、東のエルフの隠れ里に、どうしても行きたい」
「またかよ。せっかくC級になれて明日は休みだと思ったのに。でも、お前のその真剣な顔からして、どうせまた人の命に関わるような、どうしても行かなきゃならねぇそれなりの重い理由があるんだろ?」
「……ああ。宿の酒場に落ち着いたら、もう少しちゃんと詳細を話すよ」
「あら、『今は話せないから信じろ』から、少しだけ進歩したわね、レイド」とリーネが嬉しそうに微笑む。
西日に照らされた、ブレンハイムの街へと続く平和な街道。
三人で肩を並べて歩く彼らの頼もしいシルエットの影が、どこまでも長く、まだ見ぬ明日へと向かって伸びていた。




