第1話 目覚めたら、知っている世界だった
幼い頃、ヒーローになるのが夢だった。
アニメの熱血主人公のように。日曜の朝の特撮ヒーローのように。
強い悪を倒し、泣いている誰かを笑顔にする、そんな存在に。
――あの夢は、いつ、どこに置き忘れたのだろう。
陽射しが瞼を焼いていた。暑い。寝苦しい。
「――――――」
声がする。テレビかPCをつけっぱなしで寝たのだろう。いつものことだ。音量は絞ってあるはずなのに、今日はやけに耳に刺さる。
眠気を誘うには、音を小さくして授業を聞いている状態を作ればいい。長年の不眠が教えてくれた、数少ない知恵だ。
「――――――――」
声が近づいてくる。おかしい。俺の部屋には、俺しかいない。
「ねえ、ラウル。起きて。もう出発の時間よ」
瞼が勝手に持ち上がった。目を開けたというより、こじ開けられたような感覚だった。
視界が、やけに鮮明だった。裸眼では輪郭すら怪しいはずの天井の染みまで、一本一本の線が見える。
そして、目の前に顔があった。
淡い金髪。陶器のように白い肌。鼻先が触れそうな距離から、碧い目が俺を覗き込んでいる。
「今日はいよいよ拠点へ向かうのよ? 寝ぼけてるの?」
吐息が頬にかかった。甘い匂いと、金属と火薬の匂いが混じっている。
彼女が着ているのは、闇夜に溶けるような黒の戦闘服と、使い込まれたタクティカルベストだった。コスプレにしては、布の擦り切れ方が本物すぎる。
……いやいやいや。
誰だ、この美人は。いつから俺の部屋に――
違う。部屋が違う。
錆の浮いた二段パイプベッドが左右に並び、粗末なテーブルと椅子が転がっている。壁に立てかけてあるのは、銃だ。それも、おもちゃじゃない。
俺はガンマニアじゃない。子供の頃、おもちゃ屋のショーケースに並んだエアガンを、鼻を押しつけて眺めていたことがあるくらいだ。
「拠点……?」
その瞬間、
――キィィィィィィィィィィィン!!
頭蓋の内側を、金切り音が貫いた。
「ぐっ……!」
「どうしたの? 昨日の基地奪還戦で、どこか痛めた? メディカルチェックは通ったはずなのに……」
眉を寄せて覗き込む彼女の名前を、俺は知っていた。
ソフィア。
教えられてもいないのに、舌が勝手にその名前の形をなぞる。同時に、脇腹に鈍痛が走った。打撲だろう。骨は折れていない。汗と埃と鉄錆の匂いまで、はっきりとある。
耳鳴りが引くにつれて、頭の中に何かが流れ込んできた。
訓練場の砂埃。反動で痺れた肩。昨日の銃声。冷えた薬莢の感触。
どれも、画面越しの記憶ではない。自分の体が動いた記憶だ。
そして同時に、わかった。これは、嘘の記憶だ。
この部屋には見覚えがある。簡素な二段ベッドが向かい合う、ただ眠るためだけの部屋。俺が数え切れないほど遊んだゲーム、『メビウス』の序盤に出てくるセーフルームだ。
2100年前後の近未来。荒廃した架空の国で、特殊部隊メビウスの一員となった主人公が治安を取り戻していく、TPSのアクションRPG。
あのゲームでは、ミッション中とイベント以外でNPCが勝手に話しかけてくることはなかった。
――つまり。
「……ああ、そうか」
俺は、気づいてしまった。
「明晰夢ってやつだ!」
夢だと自覚できる夢。何をしても許される夢。
目の前には金髪の美女がいる。夢なら、何をしても――
さて、どこから始めよう。まずは腰に手を回して、引き寄せて、顔を近づけて、そのまま……
「だらしない顔。いやらしい夢でも見てたの?」
だって夢でしょう! こんなに都合のいい夢があるか! それでは遠慮なく、いただきま――
――パァン!
乾いた音が、部屋に響いた。
頬が焼ける。痛みが電気のように走り、視界の霞が一気に晴れた。
「目、覚めた?」
「ありがとうござ……いや、違う、そうじゃなくて」
痛い。夢の痛みじゃない。
そして、ふいに背筋が冷えた。
俺は日本人だ。「ラウル」なんて名前じゃない。
なら、俺の本当の名前は?
つい今しがた、目を閉じたまま目覚めたときには、確かに覚えていたはずだった。口に出せば、それで終わるはずの、たった数文字。
それが、どこにもない。
穴だ。底の見えない穴が、記憶の真ん中にぽっかりと開いている。
年齢は。家族は。どこに住んで、どんな顔で、どんな毎日を送っていた。
何ひとつ、掴めない。
「さあ、支度して。オルセンが待ってるわ」
オルセン。ゲームの指揮官の名前だ。俺が、あの作品で一番嫌いだった男。
転生? 召喚? フルダイブのゲームなんて、今の時代にはアニメやラノベの中にしか存在しない。
そもそも、ここは俺の知っている『メビウス』じゃない。このゲームは完全ソロか、オンラインの協力プレイだけ。ソフィアのような相棒NPCは、存在しなかった。
だが、確かめる方法はある。
立ち上がって、壁際の防具に視線を向けた。
――視界の隅に、文字が浮かんだ。
装備名。耐久値。能力補正。キャラクターの視点に重なる表示まで、ゲームと同じだ。
「な、なあ、ソフィアさん。この、目に映ってる表示って……」
「ステータスがどうかしたの?」
ステータス。
あまりにも自然に返ってきたメタな単語に、俺の頭は一瞬止まった。
「じゃあ、ログアウトは? いや、ゲームを終了したいんだ」
寝落ちか、寝ぼけか。VRのハードを使った記憶はないが、一度外に出られれば――
ソフィアの顔から、表情が抜け落ちた。
「何を言ってるの? 武装集団に突入する直前に、終了? ……逃げたいってこと?」
「え?」
冗談ではなかった。彼女の声の温度も、睨む目の湿り気も、肌の産毛が朝日に光る様子も、どれもが本物だった。
「PVSが体の状態を表示してるでしょう。まさか忘れてないわよね」
「あ、ああ。そうだった」
「昨日の活躍で浮かれてるのね。行くわよ、コードネーム〝ラウル〟」
背中を向けた彼女についていく。通路の途中に、割れかけの姿見があった。
ゲームでは、ここでアバターの外見を変えられる。
覗き込む。
ツンツンと跳ねた黒髪。快活そうな目鼻立ち。身長は百八十ほど。
――昔、俺が作ったキャラクターだ。
*
ブリーフィングルームには、薄汚れたライトと、軍服の男女が円を作っていた。
その中心に、見間違えようのない男が立っていた。禿げ上がった頭、歴戦を物語る傷だらけの顔。
オルセン。
「それでは今後の方針を説明する」
ゲームのチュートリアルと同じだった。敵組織〝ジャッカル〟の拠点を叩き、市民の居住区に変える作戦。
曖昧だったゲームの記憶が、この場面に合わせるように、霧が晴れていくみたいに鮮明になっていく。
「連中はイーストサイドを軸に、周辺を支配している。小規模な荒くれ者の集団だが、だからこそ何をしでかすか――」
オルセンの声が、遠くなった。
俺は、誰だ。
本当の名前は。
どこで、どんなふうに生きていた。
何歳だ。
答えは、どこにもなかった。
*
――一日目 9:00 部隊拠点・武器庫
アイテムボックスには、装備がきちんと収納されていた。
ゲームのように何でも無限に入るわけじゃない。ただ、現実の鞄よりはよほど広い。
携行できるのは、メイン二つにサブ一つ。
メイン:スナイパーライフル、セミオートライフル、アサルトライフル、ライトマシンガン、サブマシンガン、ショットガン
サブ:オートマチックハンドガン数種、リボルバー数種
並んだ銃身を見ていると、胸の奥が、勝手に熱くなった。
……悪くない。いや、正直に言えば、最高だ。
「あら、珍しい」
隣で装備を整えていたソフィアが言った。
「SMGにSARばかり使ってたのに。今回はARとSG?」
「汎用性を重視しようと思って。……なあ、このライフゲージが〇になったら――」
「死ぬでしょう。そうならないように、PVSが教えてくれるんじゃない」
何を当たり前のことを、という顔で返された。
やっぱりそうか。
ゲームでは、主人公は特殊なコンタクトレンズを着けているという設定だった。ナノテクノロジーが体をスキャンし、回復やステータス振り分けを担う。それはあくまで設定で、実際はただのメニュー画面だった。
「プロヴィデンスシステム、通称PVS。装着者の体を常時スキャンして危険を知らせてくれる。極秘の最先端技術だけど、これがあるだけで、私たちは圧倒的に有利になるわ」
メビウスの隊員にだけ支給される設定のシステム。
それが、今、現実に目に映っている。
「ソフィア。昨日の戦闘で、俺が負傷したのは脇腹だけか? 頭を打ったりは?」
「え? もしかして、あなた……ふふっ」
彼女が笑った。今日初めて、この人の笑う顔を見た気がする。……いや、そういう場合じゃない。
「笑うな。俺は真剣なんだ」
これが現実なら、今から死ぬかもしれない。本当の自分すら思い出せないまま、命を賭けられるのか。
「私たちが陽動をかけている間、あなたは狙撃銃で敵を十人倒して、拠点を制圧したのよ。脇腹は、他の隊員が仕留め損ねた敵が闇雲に撃った小口径の弾が、防弾プレートの上から一発当たっただけ」
「……え?」
「それとも、痛いの痛いの飛んでけ〜って、してほしい?」
是非。……じゃなくて。
引っかかったのは、そこじゃない。ゲームのチュートリアルでの基地奪還作戦は、アサルトライフルが前提だった。
スナイパーライフル?
――キィィィン。
また、あの金切り音。今度は短く、鋭かった。
「ラウル!」
駆け寄ってきた彼女の指が、俺の腕を掴んだ。細いのに、驚くほど力が強い。
「しっかりしなさい。もう訓練じゃないのよ」
「……大丈夫だ。ガジェットを選んでくる」
補給係の前で、俺は四つの選択肢を見下ろした。ビット、シールド、ブースト、パルス。一つだけ装備できる。
そのとき、視界の隅に、見慣れない色の表示が滲んだ。
――未開放のガジェット――
――未開放のスキル――
――????――
最後の表示が、いくつも並んでいる。
俺の知る限り、主なスキルは二つだけだった。遮蔽物を乗り越える〝スラッシャー〟と、横回転しながら撃つ〝ローリングショット〟。
ゲームにない仕様が、この世界には、まだ眠っている。
「ソフィアは相変わらず、お前にだけ厳しいな」
背後からの声に振り返ると、二メートル近い大男が立っていた。
マイク。名前が、また勝手に浮かんだ。
「昨日はすまなかったな。狙撃兵のお前を差し置いて、俺が撃つなんて」
「いや。俺たち新兵の中で一番優秀なお前が指揮を執る、って全員で決めたんだ。いいスナイプだったぜ」
会話に合わせて、都合よく知識が降りてくる。人間関係の距離感まで、ぴたりとはまる。
「なあ、こんな過疎ゲー、よく続けてるよな、俺たち」
「カソ? ああ、過疎化か。本土決戦のあとだ、人口は減ったし、正規軍もあってないようなもんだろ」
通じない。ゲームという言葉の意味さえ。
少なくとも彼らにとって、ここは現実なのだ。
「それよりソフィアだよ。お前と同期だろう? メビウスの招集組じゃ一番のべっぴんだ。あの尻なんか、たまらねえぜ」
下品だが、気持ちはわかる。長い手足、引き締まった腰、モデルのようなライン。格闘術で男の候補生を軒並み抑えた腕前を持ちながら、筋肉に頼った体つきではない。
なのに、不思議だった。これほどの美人が目の前にいて、俺の心は、少しも動かなかった。
何かが、欠けている。
「なあラウル、ジャッカルの連中って、生き残りの無法者の集まりだろ? なんであんな武器を持ってる」
「そりゃ、あいつらは――」
目の前が、白く弾けた。
口にしようとした言葉が、途中で別のものにすり替わった。
「……マフィアの倉庫か、警察署や軍の保管庫でも漁ったんだろうな」
「銃は持ってても素人だ。ジャッカルなんて大層な名前のわりに、実戦の少ない俺たちにはいい相手さ」
笑いながら、マイクはガジェットを掴んで去っていった。
俺は、拳を握りしめていた。
本当に言おうとしたのは、そんな言葉ではない。
――ジャッカルは、ただの駒だ。
ゲームでは、主な敵組織三つを壊滅させると、最後の組織が姿を現す。そいつらが、裏でジャッカルに武器を卸していた。
今この段階で口にすれば、あまりにも不自然だ。
もし、この世界が、あのゲームの筋書きを辿るのなら。
最後に待っているものを、俺は知っている。
基地の入り口で、ソフィアが待っていた。
「今回の任務、私とコンビなのはわかってる?」
「ああ」
『メビウス』に、特別な思い入れがあったわけじゃない。ただ、銃を撃つTPSがやりたかっただけだ。エンドコンテンツまで遊び尽くしたが、アップデートは三年途絶え、続編の発表もなかった。
なのに、なぜ、この世界なんだ。
答えの出ない問いに沈んでいると、スピーカーからブザー音が割り込んだ。オルセンの声だ。
視界の中央に、見知らぬ文字が浮かぶ。〝召集命令〟。
「呼び出しだ。ラウルは?」
「俺もだ」
どうなるか、俺は知っている。二度目のチュートリアルミッションが、これから始まる。
*
呼び出されたのは五人。俺とソフィア、マイク、ニック、ジェシカ。
「近くにジャッカルの拠点が見つかった。そこを制圧し、基地にいる避難民の居住区とする」
「サイバーテック社……この規模の建物なら、なんとかなりそうね」
ソフィアの声は強気だった。けれど、その指先が、わずかに震えているのが見えた。
新兵という設定。経験のなさは、不安に比例する。
「偵察ドローンの映像では、見張りがいない。人数が少ないのか、ここを拠点だと悟られたくないのか――」
「素人だからだろう」
俺は、オルセンの声に被せて言っていた。
「……いずれにせよ、隙だらけだということだ。ラウルとソフィアは正面入り口、マイクは大通り側面、ニックとジェシカは裏口。爆薬を仕掛けて同時に爆破する。混乱に乗じて突入し、殲滅せよ」
基地の出入り口に集まった五人で、最後の打ち合わせを終えた。
「俺たち五人の出来で、今後の作戦が決まる。戦争の後だからこそ、今が、メビウス本来の役割だ」
また、口が勝手に動いた。
ゲームの主人公は、一言も喋らなかった。セリフもなかった。
「戦争やテロの対策にはあえて参加させず、本物の脅威が国を襲ったあとの再興に備える秘匿部隊。それが、メビウスの本当の仕事……だったわよね」
ソフィアが真剣な顔で頷く。まるで、俺の言葉が、全員の総意であるかのように。
気持ちが悪い、と思った。俺の本音でも、意見でもない言葉で、場が一つにまとまっていく。
「本当に戦争が起きて、俺たちが生き残るとは思わなかったがな」
口は、止まらない。けれど、意識して会話している自分がいる。ゲームと違う点があることも、はっきりと見えている。
俺が遊んだ『メビウス』では、国が荒廃した原因はテロだった。政府は機能を失い、孤立無援になった。
この世界は、そこに至る経緯が違う。
違いはどこまで広がるのか。それすら、わからない。
「いくぞ」
視界のマップを開くと、ミッション名が点滅していた。
――〝サイバーテック社 ミッション〟――
――〝ファストトラベルしますか?〟――
ゲームと同じなら、ジャッカルの拠点まで一瞬で飛べる。
視線を合わせ、意識を集中させた。
――〝ファストトラベルを開始します〟――
世界が、一瞬だけ、黒く塗り潰された。
そして景色が、変わる。
第0章1
――憎かった。
とにかく、憎んでいた。
「人に騙されるなんて、この世ではよくあることだ」
高級なスーツに身を包んだ男が、そんな言葉を投げつけてくる。
「俺は……お前たちとは違う」
雨に消されるほどの声で、そう呟いた。
――あれは、誰の記憶だ?




