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4話 ガールズトーク

「『雨だれ』ね。前奏曲、作品28の15」


 弾き始めると同時に声を掛けられるが、私はそのまま弾き続ける。白い鍵盤を押し、黒い鍵盤を叩く。指先の感覚と視界に映る譜面を頼りに指を動かし、その度に音が鳴る。

 暫くは譜面通りに鍵盤を叩いていたが、途中でそうではない鍵盤を叩いてしまい、指が止める。間違えた場所を何度かゆっくりと繰り返し、また譜面の最初から始める。


「私そのショパンって人、顔も声も知らないけどきっと面白い人なんでしょうね。感情豊かで、独創的で、表情豊か」


「そう」


「ええ、きっとそうよ。だからルリチシャももっと楽しそうに弾いた方が良いわ。ほら、ニコって笑って。折角可愛い顔をしてるんだから、愛嬌良くないともったいないわ」


 ふふっ、とからかうような笑い声が聞こえると、次に私のサイドテールが引っ張られる。強い力ではなく、優しく、構って欲しそうに、そんな感じに。

 片手を鍵盤の上で止めたまま譜面から視線を外し、サイドテールをつまんでいる指先をもう片方の手で払う。見てみれば、想像通りそこには赤と黒の二色の瞳が私を見下ろしていた。

 背丈は私より一つ上位で、目に掛かるか、掛からないかの長さの髪を流し、その肌は色白と言うよりは病的な白さ。だが、汚れを知らない綺麗な美肌にも見えた。

 それを護る衣服は黒のタートルネックとズボンで、曲線を描く綺麗な体のラインが出でいる。私の着ている支給品の簡素な服と見た目は近いが、そうではないと一目でわかる。

 そして沈黙を守るかのようなその表情。まるで何も感じていないかのように、無表情を保ったまま充血した瞳を浮かべている少女が一人立っている。


「……なに、クロユリ」


「聞いたわ、寂しがっているんじゃないかって思って」


「寂しい?」


「ええ、あなたたち、唯一のピアノ仲間だったじゃない? 暫くはこのピアノを弾くのはあなただけね」


 動かない表情とは裏腹に、物語るかのように躍動感を表しながらクロユリは言う。人差し指を立て、それを私やピアノに向けて躍らせる。

 私はその長く細い指先から視線を譜面に戻すと、またピアノを弾き始める。お喋り好きの彼女のことだ、他愛もない話しなのだろう。

 ピアノの音は広い室内に響くことなく広がり、そのまま他の音に混じって消えて行く。また、それに混じって他の子の話し声や、機械の音が私の耳に聞こえて来る。

 私たちが施設の中で自由が利く場所は多くはない。寝る場所の宿舎と、様々な物に触れ合える遊戯室。私たちは何も無ければ遊戯室にいて、夜になれば宿舎へと戻る。そういった生活を繰り返す。

 遊戯室には本当に様々なものがあり、それを自由に使うことができる。トランプ、積み木、テレビゲーム。そして私が今弾いているピアノもそうだ、遊戯室にポツンと置いてある。

 他にも色々な物があり、全部は把握していないが、そこでは各々好きに過ごしている。グループを作る者もいれば、一人で過ごしたりとこの室内であれば自由に。そして私はこうしてピアノを弾く。


「なぜ? 遊戯室の物は誰が使ってもいいはずよ。私以外も使う」


「ええ、そうね。でも、アイビーは『狩られた』もの。あなたたちの中でピアノを弾くのは、ルリチシャとアイビーしかいないじゃない」


 そう言って、クロユリは言ったことを確認するように辺りを見渡す。確かに、近付こうとしている者はいない。

「そう」と私はピアノを弾きながら答えると、クロユリは「そうよ」と自信ありげに返した。


「それで、今日は行かないのかしら? ほら、一緒に行ったのでしょう? 調査。初めてよねぇ、今の襖さんが許したなんてちょっと意外」


 クロユリの言葉に、一瞬指先が狂う。


「……班長に指示されたって。襖さんの意思じゃない」


「へぇー、でもそれって、結局は襖さんがそれで良いよって頷いたってことじゃない。本当に嫌なら貴方なんて連れて行かないわよ」


 そうだろうか、そうなのだろうか。襖さんは私のことを嫌ってはいないのだろうか。ただ好いていないことは、残念ながら、そうだと思う。

 初めて会った時から襖さんは私に対いて今のような態度を取っていて、それは今も変わらない。今でもハッキリと覚えている。そう言う意味では私と襖さんの関係は良くも悪くも変わってないことになるが、それが良いことかはまた別の話しだ。

 するとクロユリはピアノの縁に手を置き、視線の端に赤と黒の瞳が入って来る。


「で、どうして今日は置いてけぼりにされたのかしら。まだ解決してないでしょ。私が思うに……そうね。ルリチシャ、あなたなにかしたわね?」


 そしてその瞳は、私を惑わせる。曲を奏でていたピアノが、そうではない音を鳴らす。いきなり眼の前を遮られたように、指先が見えなくなった。

 また譜面とは違う鍵盤を叩いた私は、鍵盤の上にある指を離す。そんな私を見て、クロユリは「あらあら」と口にする。演奏に失敗したからではなく、私が動揺したからだ。


「大丈夫、一回や二回、失敗したぐらいじゃあの人は怒らないわ」


「……クロユリ」


「それにほら……ん、なにかしら?」


 名前を呼ぶと、クロユリは口を止めて静かになり、私の発言を待つ。私は次の言葉を一度飲み込むが、結局それは口から出で行く。


「私、襖さんのこと全然知らない。知り合いも、何をしていたのかも、なにを怒るのかも……全くわかってない。クロユリ、あなたは襖さんのなにを知ってるの?」


 自分で言って少し嫌になる。私は未だ、襖さんのことを知らない。知らないことがたくさんある。たくさんあって、どうしていいかわからない。

 襖さんに近付きたいのに近付き方がわからなくて、受け入れて貰いたくて、けど、嫌われたくなくて。私にとって襖さんの存在は変え難いものなのに、私は襖さんがわからない。それが悲しくて、でも、それなのに……

 一回や二回、失敗したぐらいじゃあの人は怒らない。そうクロユリは言った。私はそれもわからない。なのにクロユリはなぜ知っているのか。

 顔を向け、尋ねる私にクロユリは考えるように下唇に人差し指を当てる。しかしその表情は相変わらず一切動いておらず、考える素振りと言うよりはフリをしているように見えた。ただ瞳だけは動かして、右や左に向けられる。


「そうねぇ、まあ、ルリチシャより付き合いは長いもの。それなりに知ってるんじゃないかしら? 好きな食べ物とか、吸ってた煙草の銘柄とか」


「付き合いが? 襖さんとクロユリが?」


「ええ、それはそうよ。私はあなたのお姉さんなのよ? 付き合いが長くて当然じゃない。それに私たちの時は今みたいにギスギスしてなかったわ」


「ギスギス……?」


 次から次へとわからないことが出て来て、私はそれを聞き返すことしか出来ない。クロユリもまたそれを説明しようと言葉を探す――これもまたフリにしか見えないが――ように考える。

 だが途中でそれを止め、手を後ろで組み始める。どうしたのかと思うと、クロユリは軽く肩を竦めた。


「まあ、色々あったのよ。それこそ本人に直接聞いたらどうかしら、お話しできて一石二鳥じゃない」


「どう話せばいいか……わからない。迷惑かもしれない。それに私……」


 口を閉じ、その言葉は完全に飲み込んだ。

 今まさに襖さんは今回の件を調べているのだろうか。もうあの黒フードを追い詰めたのだろうか。ただ私は、何も出来ずにここにいる。手伝いも何もできない。折角のチャンスだった同行も不意にしてしまった。何がいけなかったのか、どうすれば良かったのか、答えは出ない。

 こうなると私に出来る事は何時ものように待つこと。襖さんが私に会いに来てくれるまで、ただ待つだけ。今度はクロユリがどうかしたのかと私を見るが、それは直ぐに他のものに変わる。


「大丈夫よルリチシャ、ちゃんと話を聞いてくれるわ。あなたが思っている以上に、襖さんはあなたのことを思ってくれてるわ。だって――」


 クロユリの手が私の肩に置かれる。何時も通りの無表情で、赤と黒の瞳に私を映して。


「私たちは普通の人間じゃないのかもしれない。『人間じゃない』って言われるかもしれない。けど、私たちと関わってる6課の人たちは普通の人間で、私たちは普通の人間と関わらないと死んでしまうもの」


 まるで言い聞かせるように強く、けれど歌うように軽やかにそう言った。

 私は肩を動かし、その手を退けるとクロユリは小さく笑い声をこぼす。そして「それって、素敵よね」とは付け足し、動かない表情が、動いたように見えた。もちろんそれは気のせいで、クロユリが表情を変えたところなど一度も見たことがない。

 それは別に私の前だけではなく、彼女は日常的に無表情を保っていて、それが崩れることがない。話しを聞くにどうもクロユリは表情が乏しいのではなく、生まれつき表情が変わらないのだと言う。その変わりに声色や仕草などで感情を表していて、他の人と比べるとクロユリのほうが随分と『表情豊か』に見える。

 今も片手をひらひらと『表情』を動かしていて、私に次の話題の提供を待っている。だが私が喋らなくとも、クロユリが喋るのは目に見えていた。


「二人とも、何の話しをしてるの?」


 しかし私たちの口が開く前に話題が舞い込む。見てみればそれはシレネだった。愛想よく柔らかな笑みを浮かべて、くるりとした瞳を向けて来る。

 外で会った時と違いコートは着ていない。カーディガンを羽織り、スカートの下にはタイツを履いていて、髪を結んでいるそれは昨日見たものと違い、今日は赤色のリボン。色々持っているのだろう。

 クロユリはそんなシレネを迎え入れるように、手の平を見せる。


「私たちが大好きな話しよ」


「幸村さんのこと?」


「幸村さん? ああ、多々良さん。それはシレネの担当官でしょ、どうして今の子はそんなに自分の担当官のことが好きなのかしら。お姉さん、わからないわ」


 クロユリは右手の人差し指と左手の人差し指を立てる。右手の人差し指がもう一本の指を弾き、その場を去る。そして弾かれた指は起き上がり、右手をせっせと追いかける。

 まるでそれが私と襖さんだと言いたげに私に視線を向けた後、やれやれ、とクロユリは肩を竦め、腕を左右に広げる。対して首をかしげ、ツインテールを揺らすシレネは自分の発言が不思議に思われていることが、不思議そうだった。

「結局はなんの話しなの?」と私に問い掛け、襖さんのことだと伝えると、ふーん、とこぼす。まあ、シレネにすれば気になる話しではなく、興味を失うのもわかる。

 シレネにとって興味のある話しと言うのは、シレネの担当官である多々良 幸村か、それに買ってもらう衣服とアクセサリーの情報。現に今シレネの首にある小さなネックレスはあの時、廊下で会った時に手に持っていたものなのだろう。


「それでシレネ、何?」


 今度は私が尋ね、シレネは、そうそう、と口にする。


「もうすぐ食事だから、一緒に行こうかなって」


「あら、そう? けど私の体内時計だとまだ後だと思うのだけど……ほら、まだ早いわ」


 クロユリが言う通り、壁に掛けられている時計を見てもまだその時間ではない。確かにこの後の予定とすれば食事をするために食堂へと向かうのだが、それはまだ三十分後のことだ。

 シレネも時計を見て、困ったように笑い、軽く唸って見せる。


「そうだけど、早く済ませたいの。食事の後に幸村さんと見回りに行く約束なの。えへへ……」


 シレネは笑い、健康的な肌色の頬はほんのりと染めて、目が細くなる。


「へぇ、良かったわね。でも、早くに食堂に行ったって食事ができる訳じゃないわ、時間になったら食べられるのよ? 待ち遠しいのかもしれないけど……ルリチシャからも何か言ってあげて」


「……え?」


「見なさい、呆れてモノも言えないって顔してるわ。まあ良いわ、折角のお誘いだもの、行って向こうでお喋りしましょう。ルリチシャもそれでいいわね? ほら、行きましょう」


 両手の人差し指を出口に向けて、クロユリは私を催促する。私が何かを言うよりも早くシレネは「行こう行こう」とツインテールを跳ねさせながら歩き出し、クロユリはもう一度私に声を掛ける。

 ピアノの椅子から立ち上がるのを確認するとクロユリが歩き出し、私もそれに付いて行く。途中、クロユリは誰に向かってでもなく、ひらひらと手を振って見せる。

 その先にあるのは鏡。診察室にもあった、壁の一面にある鏡に向かって手を振っている。鏡の中ではクロユリを見て手を振るクロユリが映り、その後ろで私が横目で見ていた。軽く首を傾げれば鏡の中の私も同じ表情で真似をして、そのまま共に遊戯室を出て、廊下へと出る。

 そして廊下の壁に描かれている矢印、その一つに沿って食堂に向かう。そして着いたら誰もいない空間で、そこに三人だけで椅子に座ることになる。

 別に座る場所が決められているわけではないが、最初に座ったところになんとなく座り続けてしまう。それは私だけではなく、ほとんどの者がそうらしい。

 私のその場所は出入り口から一番近い席から三つ目。一番出入り口に近い席はクロユリが座り、出入り口から二番目はシレネ。故に食堂の端っこに固まって、時間になるまで待つのだろう。

 今思えば、隣に座っていたシレネがミニトマトを指で押しつぶして、液体を私の方に飛ばしたのが私たちの関係を持った始りなのかもしれない。クロユリがそれに気付いて声を掛け――クロユリに関してはその前から良く話しかけられていたが――ハンカチでふき取るなど後始末をして貰い、それからは何度も顔を合わせている内になんとなく話すようになった。

 先頭を歩くシレネはこの後の予定である見回りのことをにこやかに喋り、クロユリが相づちを打つ。


「でね、この前はこのネックレスを幸村さんに買って貰ったの。『似合ってるよ』って言って貰くれたの」


「ええ、確かに似合っているわ。多々良さんったら見る目があって、ほめ上手なのね」


「そうなの! それに優しいし、カッコいいし、あたしのこと第一に考えてくれてる。あたしって幸せ者なのかなぁ……早く見回りに行きたいな」


 また、えへへ、とシレネは笑う。見回りに行くと言っても、きっとそれは襖さんが言っていたように、買い物にでも行くのだろう。そうでなくとも外に連れ出してもらい、共に歩く。

 そんなシレネから私は目を逸らす。なんだろう、先ほどから気分が良くない。どう言えばいいのだろう、自分はそうではないのに、こうして目の前にいるシレネは担当官に好かれている。それは何時ものことなのだが、今日に限って鼻に付く。

 まるで求めているものが目の前にあるのに決して手に届かないもどかしさや苛立ちが、水が沸騰し始めた時に出る小さな泡のように、何故か不感情に襲われる。

 ふと前を見るとクロユリが後ろ向きで歩いて、私の顔を真っ直ぐ見ていた。


「ルリチシャ、ここ」


 私の名前を呼ぶと、クロユリの人差し指が私の額に伸びる。それを避けるが、自分で額を触ってみて気付く。遊戯室の鏡に映っていたように、今も額にシワが寄っていた。

 クロユリは自分の口の両端を指で軽く持ち上げ、笑み――と言うには随分とお粗末だが――を作り見せる。そしてくるりと進行方向に向き直ると、シレネとの話しの続きをする。内容は少し変わり、今度は担当官。いかに多々良が優しい人なのかを自分のようにシレネは語る。

 そして自分もそういう人間になりたいとシレネが言うと、クロユリは初めて「んー」と軽い返事をした。シレネは肩越しにクロユリを一度見て、するとその視線は私に移ると思い出したように口を開く。


「ねぇ、ルリチシャの方はどうなの?」


「私……?」


「うん、ルリチシャの担当官……えっと、幸村さんが……そうそう、病葉さん。昨日一緒にいたところ見たけど、あの人って優しいの?」


 そう聞かれ一瞬襖さんに興味があるのかと思ったが、シレネに限ってそれはない。話しの流れ的に聞いて、結局は私がどう答えても多々良幸村のことに繋げるのだろう。

 幸村さんの方が優しいとか、幸村さんならこうしたとか。他人と比べることでいかに素晴らしいかを伝えたいのだろう。私は答えようか否かを少し考えていると、気になるのか、またクロユリがくるりと私に向き合う。二人の視線が、四つの瞳が私を見る。

 襖さんが優しいのかどうか、そんなものは決まっている。あの人は私を褒めることはないし、シレネのように物を買い与えて貰ったこともない。それに私に向ける表情は決まって硬いものだ。

 私は答えるために一度口を開き、襖さんがどんな人かを説明しようとする。だが、率直に言った方が良いと思い、口を一度閉じ、開く。


「優しいわ。とても優しい人で、ちゃんと私のことを思ってくれている」


 周りは、シレネとクロユリは襖さんのことをどう思っているのだろうか。振る舞いや口調からぶっきらぼう。それとも無精ひげやくたびれたコートを見て、身なりに無頓着。そんな人だと思っているのだろうか。なら、それは見当違いだ。

 だがそれを聞いたクロユリは首を小さく傾げて見せる。


「へぇ……? ねえ、ルリチシャ。言われたくないことだとは思うけど、あなた襖さんには随分とぞんざいな扱い方されてるわよね? それなのにどうして優しい人だと言えるのかしら? ただそう思うから?」


 腕を組み、まるで反論するようにクロユリは私に問う。ぞんざいな扱いと言われるが、無視や強い物言いはあるが、手をあげたリと暴力的なことをされた覚えはない。

 クロユリが言いたいことは私が他の者と比べて、襖さん、担当官に好かれていない。それなのに何故襖さんの肩を持つような発言をするのか、と言うことなのだろう。または、クロユリが別に何か思うことがあるのか。

 私は襖さんの姿が脳裏に浮かび、ふわりと口の端が上がる。同時にクロユリに対して勝ったようにも思えた。私にも、いや、私だからこそわかることがあるのだと、素直に感じる。


「襖さんと初めて会った時、優しい眼をしていた。悲しそうだけど、とても優しい……私は、あの眼をまた見てみたい」


 ほんのりと、顔が温かくなるのがわかる。初めて会った時、私の話しを聞いていた襖さんは今では見せない眼をしていた。今ではもう見せないその時にだけ見せたその瞳は、本当に柔らかく、安心を覚えるほど。

 それは大袈裟とは言えないほどに、産まれてから今間までで感じた『安息』と言える感情の中で一番大きいものだった。

 あの瞳なら、目の前に刃先でも、銃口を向けられても心から笑っていられる。だからこそ、私は襖さんのそばにいたい。もっと襖さんのことが知りたい。もう一度あの瞳をと、そう思うのは不思議なことなのだろうか。

 そんな私にクロユリは少しうつむいて、腰に手を当て首を左右に振り、呆れたフリをする。その後ろではシレネが「幸村さんも優しい眼をしてる!」と発言してにこやかに笑う。

 会話を続けていると進行方向のT字路でスーツの上に白衣を着た大柄の男が現れる。そのサングラスをかけたチンピラ顔の男に気付いたクロユリが、我先にと挨拶する。


「あら、時順先生。奇遇ね」


「あん? おお、クロユリに、シレネにルリチシャ? 三人ともどないしたねん、どこ行くつもりや?」


 手に持っているカルテから顔を上げ、時順先生は驚いた顔をする。


「一足早く食堂に行きたいってシレネが言ったの。一人で行かせるわけにもいかないから、こうして一緒なのよ」


「シレネが? どないした、まだ食事の時間じゃないで」


「えっと、食事の後に幸村さんと見回りに行くの。それが待ち遠しくて、早くしたいなぁって思いました」


 シレネは照れ笑いを浮かべて、左右の人差し指の先を合わす。対して時順先生は困ったように息を吐き、明らかに不服と言った感じで眉を歪ませる。

 それもそうだろ、本来なら私たちはまだ遊戯室にいるはずで、廊下にいるのは場違いだ。


「多々良なぁ。せやけど、時間は守らなあかんで? 何度も言うとるけど、勝手に動かれたら困るんはこっちなんやから。ああ、後それと――」


「『体調に違和感があったら直ぐに言うんやで』でしょ。はーい、わかってますよ。けど、時順先生の方が体調を崩しそうよね。サングラスで隠せないぐらいにクマさんが一段と濃いわ、研究部門はまた徹夜したのね? 折角のブランドスーツが台無しね」


 自分の眼の下を指でなぞりながら、クロユリは時順先生の顔を覗き込む。確かによく見れば寝不足なのか、眼の下の彫がいつも以上に深く、眼付も悪い。「好きでしてへんわ」と時順先生は苦笑いを浮かべながら言い返すも、それはまるで何回も繰り返されたやり取りのように、自然なモノだった。

 そう言えば、クロユリは襖さんと付き合いが長いと言っていた。ならば、襖さんの友人である時順先生とも付き合いが長いのかもしれない。そう考えれば二人のやり取りがごく自然なモノだとしてもおかしくはない。もしかして、襖さんともそうなのだろうか。

 そもそも、クロユリは何時から6課にいるのだろうか。少なくとも私よりは早くにいて、襖さんと知り合っているのは確かだ。


「せや、ルリチシャ。この前調査に行ったんやろ、初めてとちゃうか? 襖とは上手くいったんか?」


 考えていると、時順先生がふとそう尋ねる。思考が邪魔され少し反応に遅れたものの、私は軽く首を左右に振って見せる。


「……いえ、襖さんの邪魔ばかり、怒られてばかりです。私は――」


「あっ! そう言えば私、その調査に行ったことは聞いたのだけど内容については知らないわ。どう言う話しなの?」


 私の言葉を遮り、一度手を叩いたクロユリは別のことを私に尋ねる。そして前髪を少し指で払い、しっかりと出した眼で時順先生に目配せする。時順先生はその意味を理解したのか、申し訳なさそうな顔を見せ、首を引っ込めた。

 逆にクロユリは表情で何を思っているのかを察するのは難しく、なぜ話しを遮ったのかは想像でしかない。


「……19区画で吸血鬼の活動が見られるって、そこを担当していた人がいなくなったからその穴埋めに私と襖さんが調査に。ここに書かれている五人が、いや、五人に恨みを持っている者がそうだと襖さんが」


 見せた方が早いと、ポケットから襖さんから渡された手帳を出す。開いたページを見せながら説明すると、ページを覗き見るためにクロユリとシレネが左右から覗き込む。

 考えるようにクロユリは顎に指を添えて、シレネも軽く首を傾げてツインテールを揺らす。「うーん」とシレネが声を漏らすと、思い付いたように口を開く。


「その中で朝に弱い人がきっとそうよ! 幸村さん言ってた、吸血鬼は朝に弱くて夜に活発になる。日光が苦手だって。それに怒りっぽい!」


「襖さんが今それを調べてる。何にしても、ここにいる私が確かめる方法は……なに?」


 話しの途中にクロユリは手帳を持っている私の手を掴み、それを曲げたり捻ったりして手帳を傾ける。あらゆる方向から手帳を確認したクロユリはまた顎に指を添えて、私と手帳を交互に見る。赤黒い瞳がきょろきょろとし、最後には私を見て止まった。


「ねぇ、ルリチシャ。その手帳ってあなたの? 手帳なんて持ってなかったわよね?」


「ええ、調査に行く時に襖さんが持っているようにと渡してくれたもの」


 手帳を閉じ、傷つけないように大事に包むように持つ。するとクロユリは「へぇ」と楽し気に声を漏らす。


「ルリチシャ、あなたそれを渡されてどう思ったかしら?」


「どう……?」


「そうそう」


 そう言って、クロユリは頷く。意味がわからず尋ね返したつもりだったが、こちらの意味が伝わらなかったのか、はたまた答える気がないのか。

 私は視線を手に持つ手帳に向ける。そう言えば、何故襖さんは私にこの手帳を渡したのだろうか。この手帳はただの物ではなく、今回のこの件に関係している。そんな大事な物を何故わざわざ私に渡したのか。まさか荷物持ちなわけではない。襖さんが持たず、私が持たなくてはならない理由、それはいったいなんなのか。

 思考を一度巡らすが、それは意味のないものだと理解する。残念だが、これは私が考えてもわからないことだ。襖さんも理由なしで渡したわけではない、私にとって理由はそれで十分だ。

 話しを戻そう。襖さんに手帳を渡された時、私は何を感じたか、今はそのことを聞かれているのだ。それはもちろん、仕事をするのだと意気込んだ。私の仕事は吸血鬼の駆除、それが目的。

 だが、そうだろうか。思い出してみれば、私はそんなことを考えていなかったかもしれない。同時に、それに気付けたことに私は微笑んだ。


「襖さんと仕事が出来て、一緒にいれて嬉しい……そう思った」


 クロユリを見てみれば額に手を当てて天井を仰ぎ、すると時順先生も首を傾げて苦笑い。最後には「まあ、いいか……さあ、食堂に行きましょう。時順先生、適度に休みなさいね」と会話を済ませたクロユリはシレネの背中を押し始める。シレネは喜んで返事をして、私は手帳を仕舞う。そしてその後ろゆっくりと、軽やかな足取りで付いて行く。

 結局初めて襖さんの調査に同行したが、散々な結果だった。だがそれとは別に、襖さんの調査に初めて同行させてもらったのも事実。

 一緒に歩いた、喫茶店に入りテーブルを囲んだ。それは大きな経験だろう。決して悪いことだけではなかった。襖さんとの関係、私の現状。それを変えるきっかけがあるのなら、きっとそれは既に起きているのかもしれない。

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