1話 公安6課6係
廃ビルの一室に広がる音と匂い。ぽたり、ぽたりと液体が滴る音が無音の中でいやに大きく聞こえる。
大きく息を吸ってしまえばせき込みそうなこの強い匂いは、決していいものではない。それでも男は、病葉 襖はそうなることを自ら望んだのだった。
「襖さん……どうしました?」
物静かな声で名前を呼ばれた襖は、反射的に声の方を見る。そこには十歳前後の少女が一人。少し離れたところ立っていて、白い肌には赤黒い液体がべっとりと付けている。
それが形の良い顎に溜まって滴り落ち、又は細い首筋を伝って、着ている紺色のコートに流れて行く。ただ、その紺色のコートは既に汚れており、液体が新たに汚す量はそれに比べて微々たるものだった。
薄い繭のような手には同じように汚れている剣が一本握られている。西洋の騎士が持っているような、両刃の剣。その剣先からは汚れの原因である液体が床に滴り落ち、下で溜まって広がり、少女が履いているブーツを濡らす。
顔つきが、コートの袖からは覗かせているその手が、一層それらを引き立てる。あまりにも似合わないその姿が互いに強調し合っている。
更にはたたずむ少女の奥にもう一つの人影が見える。仰向きに寝転がっているが、その表情を確認することが出来ない。
横目で襖はそれを見ると、少女は見つめ返す。まるでその瞳に襖以外の全てを映さないかのように、真っ直ぐに襖を見ていた。だが声を掛けるのをためらったのだろうか、少し不安げな表情をしているように襖には見える。
「何がだ」
淡々と、襖はそう聞き返す。視線を少女から逸らし、止めていた手を動かし始める。銃身に入っている弾を抜き出し、弾の一つひとつをアタッシュケースに戻す。
そんな襖に対して、少女は「先ほど手が止まっていたので……」と申し訳なさそうに小さく零した。全ての弾を取り出したことを確認すると、銃そのものもアタッシュケースに収納し、蓋を閉める。
それを手に持って立ち上がり、襖は今度は耳に付けている小さなインカムに手を添える。するとインカムから一度ノイズが流れたと思うと、人の声が聞こえ始めた。
「6課の病葉だ、処理班を回せ。袋を、後ケースも用意してくれ……そうだ、駆除が済んだ。防護服の点検を怠るな、着る前、着た後、入念にチェックしろ」
喋りながら何気なく辺りと見渡す。廃ビルの一室ということもあって、昼間でも薄暗く、何も無い。本来ならオフィスとしてデスクなどが置かれていたのだろうが、今は見る影もない。ただ、長方形の空間が広がっている。
コンクリートの剥き出しの壁にはスプレーの落書きが描かれ、床には空の缶が転がっている。窓際には割れている窓ガラスが落ち、どう言う扱いを受けていたかがうかがえる。
窓の外には隣のビルの壁があり、眺めは最悪。建物が乱立する都心の真ん中で眺めを期待する方がおかしいのだろう。
そして部屋の角を見ると、そこで寝転がっていた者の表情を確認できた。見開らかれた目に、噛み締められた歯。怒りに満ちた表情だと言うことが一目でわかる。
インカムの通信相手から「問題ありませんよ」と言葉が返って来る。だが、それは襖が聞きたい言葉ではなかった。思わず眉がピクリと動き、その言葉を言わせたいがため、口調が少し強くなる。
「感染したいなら別だがな」
それだけ言うと、インカムの向こうで戸惑う声が聞こえたと思うと「わかりました」と歯切れの良い返事がする。インカムから手を離し、再度襖は少女の方を見る。
少女は一歩も動いてあらず、その場で立ち尽くしているだけ。下を向いている剣先からは変わらず液体が滴り落ちている。先ほどと唯一違うところと言えば、物寂しげに少しうつむいていた。
「ルリチシャ」
襖が少女の名を呼ぶと、ルリチシャはその伏せていた顔を上げる。サイドテールを弾ませて、パッと花がほころんだように表情を変えるが、その頬は相変わらず赤黒く汚れている。
「はい! なんでも言ってください、襖さんっ!」
「……いや、俺は外で待つ。誰かが迷い込んだら困るからな。お前はそこで処理班が来るまで待ってろ」
「わかりました、任せてください。その後は、あの……襖さんは――」
「後は何時も通り、処理班の指示に従え。わかったな」
襖は剃り残りがある、無精ひげが生えている顎を一度撫でると、そのまま廃ビルの出口に向かう。一歩毎に何も敷かれていない床を革靴が踏み、コツリ、と足音が響く。
その革靴はいささか傷が目立ち、長く使っていると言うよりは、手入れを怠っているがためについた傷。襖が着ているコートも色あせ、コートの内に着ているスーツのネクタイも、だらしなく緩めている。
するとその色あせた背中にルリチシャは「あのっ!」と物静かな声を強くして、一歩、歩み出して声を掛ける。
「次に、次に襖さんとこうして一緒に外を歩けるのは何時になりますか?」
白い頬に血を巡らせて、ルリチシャはジッと襖の背中を見つめる。だが廃ビルに響く足音が止まることはなく、襖は答えることはしなかった。
返ってこない返事を待つように、ルリチシャはその足音が聞えなくなるまで襖が出で行った方向を見詰め続ける。そして聞えなくなっても暫くたたずんでいた。染めた頬をそのままに、見惚れるように眼を潤ませながら。
ほどなくして、不意に窓の外から車のクラクションの音が飛び込んでくる。ルリチシャは何気なく振り向き、窓の外を見て、足元を見る。寝転がっている者の首からおびただしい量の血が流れて出でいて、それに蓋をする頭は部屋の角にある。ルリチシャはそれを見下ろしていたが、一瞬動いた。指が動き、床を引っ掻いたのだ。
それとは別に、廃ビルに足音が聞こえ始める。一人ではなく、多数の足音。
ルリチシャは手に持つ剣をゆっくりと振り上げると、変わらずに剣先に溜まっていた血が垂れる。頭のてっぺんにぽたりと落ち、それを阻害しないほどにキメ細やかな黒髪を通って、額に流れ出る。それを合図にするかのように、ルリチシャは無表情のまま、感情を表すことなく鈍く光るそれを振り下ろした。
・
診察室。私は数日に一回ここに連れて来られ、何時も同じようなことを聞かれる。もしくは、仕事終わりにも同じようにここに呼ばれる。
眼の前には白衣を着た大柄の男が一人。白衣を着た大柄の男の机上にはコンピュータがあり、細かな文字やグラフと言った様々な情報がディスプレー上に映し出されている。壁際にはベッドがあり、白いシーツが引かれている。
後は壁の一面が鏡になっていることだろうか。その鏡に大柄の男に、その隣に立つ女性。そして私の姿が映っている。
部屋はそれなりの広さがある。窓がない閉鎖的な空間なものの、鏡に映る空間で更に広く感じた。
「それで、ルリチシャ。最近調子の方はどないや? 身体の方に違和感はあるか?」
ぎしり、と椅子を軋ませると、大柄の男は対面して座っている私に問い掛ける。
短い髪をジェルで掻き上げた状態で硬め、顔にはサングラス。前を開けた白衣の下にはブランド物と呼ばれているスーツ。合わせて履いている革靴もそう呼ばれ、私にはわからないが高級感に溢れている。
そしてサングラスの後ろにある――なんと言っていたか、そう、確か襖さんは『チンピラ顔』と言っていた――チンピラのような人相。そして私は知っている。この男は白衣を着ているが、医者ではないことを。
質問に私は黙ったまま口を開かない。返答する必要を感じないからだ。その視線も大柄の男の方に向けているが、見ているわけではない。
「もし調子悪いなら早めに言ってもらわな俺も、襖も困るで?」
「……問題ありません、時順先生。調子はいい方です」
襖さんが困る、それは駄目だ。あの人に迷惑を掛けてはならない。
大柄の男、時順先生の言葉に反応するように、私は淡々と答える。同時に視線の焦点も時順先生に向け、対話する意思を見せる。
それに合わせて時順先生の隣に立っている、白衣を着た女性が持っているカルテにペンを走らせる。発言を記録しているのだろう。何時ものことだ、気にもならない。
「そうか? それならええんや。じゃあ、ルリチシャが今困っていることはないか? 他にも最近気になる事とかないんか?」
再度、時順先生は質問する。困っていること、気になること。違う言い方で、もう一度体調のことを聞いているのだろう。これもまた、何時も通り。
ありません、そう私は言おうと思ったが、ふとあのことが頭に過る。少しして、質問に答えるために私は口を開くが、ためらって口を閉じる。それに対して時順先生は眉を潜ませた。グッと眉が動き、眼も睨むように細くなる。だが、これでも私にばれないようにしているらしい。
こうなると、時順先生の診察は長くなる。そうならないために、私は直ぐに言葉を部屋に転がした。
「次の仕事が早くしたいです。そうすれば……そうすれば襖さんと、一緒にいられる。名前も、たくさん呼んでもらえるんです」
淡々と喋ろうとしたが、言葉が終わるにつれて、ボリュームのつまみを回されたように声は小さくなる。言い終わる頃には私は少しうつむく。
最後に仕事したのは、もう数週間も前。分厚い灰色の雲が空を覆い、流れる風が身を引き締める中、私はコートを着て、襖さんもコートを着ている。
ここ、施設の外は中と違って一定の気温を保っていない、それは仕方がないことだ。それを不便だと言う者もいるが、好きだと言う者もいる。私はなんとなくだが、好きな方だ。
実際、その時その時で見せる光景が違う。太陽が強く輝き青い空が広がることがあれば、凛とした涼しい風が吹く時もある。それがなんだか見ていて、感じて気分が良い。
そして今外では袖から流れ入って来る風は冷たく、頬を撫でる空気は氷のようだった。もしコートがなければ、それを全身で感じることになる。襖さんもそれが嫌で、コートを着るのだろう。
だが、私は寒いとは感じなかった。二人してコートを着て、歩く。襖さんの後ろを歩き、襖さんの言う通り私は動き、仕事をした。それだけで、私は温かかった。
しかし、基本的に仕事は直ぐに終わってしまうため、襖さんと一緒に外を歩けるのはほんの少しだけ。他の担当官たちと違い、襖さんは最後の仕上げにしか私を連れて行ってはくれないからだ。
確かに、私が調査に手伝えることは少ないかもしれない。その逆で、邪魔をしてしまうことの方が多いのかもしれない。だから、私が仕事の手伝いをさせて貰えるのは本当に、ほんの少し。1、2時間と言ったところだ。
本当はもっと襖さんと共にいたい。もし調査中に万が一が起こったら誰が襖さんを護るのか。仕事中であれば、襖さんも私を遠ざけたりはしない。
だからこそ、仕事が、次の仕事を早くやりたい。
時順先生はそんな私を見ると、かけているサングラスのフレームを指で押し上げてズレを直す。そして机上のキーボードを叩くと、ちらりと鏡に視線を向ける。
私も同じように鏡を見ると、頬を紅葉させ、瞳を潤ませた自分がそこにはいた。
「時順先生、あなたは襖さんの古い友人だとお見受けしています。そう言った会話を二人がしているのを聞きました」
「お? おお……学生時代からの友人やけど?」
「私に至らないところがあるのはわかっています。ですが、私はあの人のカマキリです、担当官である襖さんとは友好な関係を築きたいと思っています。どうやれば、襖さんに認めて貰えますか?」
次に気になる事を言い、向こうが提示した質問に全て答える。すると時順先生は今度は困ったような表情をそのサングラスの奥に見せる。苦笑いとも、困惑ともとれる表情だった。
「それはあれか? 襖との関係に不安があるってことか?」
その質問に私は首を左右に振る。
「襖さんに不安も不満もありません。あの人は何時も私の身を案じてくれています。悪いのは私です、襖さんの期待に沿えない私がダメなんです。私がもっと仕事をすれば、襖さんに――」
「ルリチシャ」
思考を止めるように、声が私の耳に響く。そして先生に言われて、ふと気が付く。立っている女性は驚いた様子で数歩後退り、時順先生も身体が私から離れるように仰け反っている。そして私は手が物を掴むように拳を造り、振り上げていた。
その手を眼の前に持っていき、ゆっくりと開き、握り、開いたりと繰り返す。そうしていると手の平にあった剣の柄の感覚がなくなり、握っていた目に見えない物が消え、手を膝の上に戻す。
すると鏡からノックする音が聞こえ、同時に先生が咳払する。時順先生はカルテを持つ女性に身振りで何かを合図する。それに合わせて女性はカルテを時順先生に渡すと、時順先生は今しがた書き込まれていたページをカルテから取る。
「他に聞きたいことはあらへんか」
「はい、ありません」
「そうか、そうか。血中の方も安定しとるし……じゃあ、これで診断は終わりや。部屋に戻ってええで」
ひらひらと、何事もなかったように時順先生は手を振る。
「はい」と私は短く返事をすると、椅子から立ち上がる。その時にはもう頬は白くなっていた。時順先生にくるりと背中を向け、私は立ち止まらずに出入り口に向かう。扉の前に立つと自動に扉は開き、そのまま外に出る。
そこは窓のない、汚れのないタイルを敷き詰めた廊下。廊下の壁には数個の矢印が書かれ、それぞれに文字が書かれている。私は『宿舎』と書かれた矢印に従い歩き出す。照明がしっかりと点けられた廊下は奥まで見え、白衣を着た大人たちがちらほら歩いてる。ファイルを小脇に抱えながら眼の下を黒くしている者や、私を見るなり眉を潜ます者。後者は私を奇怪な眼で見る者もいる。
そんな中、扉が開く音と共に、コツリ、と革靴が鳴る音が後ろから聞え、頬が緩む。それはもう、意図してではなく、自然的に。私は振り向くと、二、三歩近寄り、その人を見上げる。
「襖さん、私に用ですか?」
嬉しくて、言葉が躍る。そこにはよれたコートを着て、剃り残しの無精ひげを生やした三十代半ばの男性。私が良く知る人。いや、正確には良くは知らず、その逆であまり知らない。
襖さんは、仕事のこと以外であまり語ろうとしてはくれない。聞こうとは思わない、そんなことをして嫌われたくはないからだ。
尋ねる私に襖さんは何も語らずに、顎を動かして答える。付いて来い、と言うことだ。私が行こうとしていた方向とは逆に歩き出す襖さんに、私は「はいっ」と答え、歩き出す。
そうなると、大人たちの視線がまた変わった物になり、中には襖さんに会釈する者もいる。そんな者には軽く手を上げて返すなどする、その後ろ姿に付いて行く。
廊下と廊下の間、区画を分けるために存在する扉を一つ、二つと潜り抜けて行く。すると大人の姿も変わり、今度はスーツ姿になる。
「昨日、死体が見付かった。場所は19区画で人通りのない路地、通りかかった不良が通報したそうだ。被害者は21歳男性の大学生。死体には何十か所の打撲痕。だが直接的な死因は強い力が加わって首の骨が折れたこと」
前触れなく襖さんの口が開く。私はもしやと思い、少し歩く速度を上げ、横に付くとその横顔を見上げる。
「三日前も同じ19区画で死体が見つかった。そいつも死因は同じくズタズタにされ、首の骨が折られていた。警察は同一犯だと考えているらしいが、これについてはまだ憶測の域を出ない。だが恐らく……」
「吸血鬼の仕業。打撲傷しかないと言うことは、三型ですね。ですが襖さん、襖さんの担当は17区画では……?」
「そうだ、19区画を担当していた若林とそのカマキリが『狩られた』。その穴埋めをすることになった、ちょうど今の17区画に調査をするようなことは起こっていないからな」
皮肉交じりに襖さんは肩を竦める。内心、私は驚く。先ほどやりたいと言っていたのが、まるで伝わったようなタイミングだった。こういうのを何と言ったか、言霊だったか。確かお喋り好きがそう言っていた覚えがある。
何時ものようにふらりと現れて、教育係りの人たちが教えることとは違ったことを得意げに説明する。その躍動ある、生き生きとした喋り方が良く耳に残っている。逆にその表情は何一つ動かさず、黒と赤しかない充血させた目と言うその不釣り合いが、また記憶に残る。
仕事が出来る。しかし、私は素直に喜べなかった。もちろん、仕事がしたくないわけではない。だが――
「あ、病葉さん。病葉さんは今から出るんですか?」
「こんにちは」
窓のない廊下を進み、十字路に差し掛かった頃、角から男が一人現れた。スーツを必要以上にしっかりと着て、まだ顔にも声にも、若さが見える。
その隣には私と似たような背丈の少女を一人置いている。ツインテールで、嬉しそうに上がっている頬と、鼻先がほんのりと赤い。片手にはそれよりも赤いコートを掛け、もう片方の手にはロゴが入った小さな紙袋を提げている。中身はどうやらアクセサリーのようだった。
見てみれば私と違い、その少女の髪を縛る髪留めには飾りが付いていたり、服や靴も支給されている簡素な物ではない。今しがた外に出るために着ていたであろう赤色のコートも、支給されている物ではない。
襖さんの足が止まり、その若い男と向き合う。
「多々良か。ああ、調査にな。お前は……見回りと称して、そいつと買い物か?」
襖さんがそう尋ねると、その若い男、多々良はぎょっとした顔をする。そして少女が持つ紙袋に気付いて、それを隠すように一歩前に出る。
「いや、そんな――」
「言い訳はいい、素直に『耳が痛い』とでも言ったらどうだ。多々良からすれば、悪いことをしているわけではないんだろ? 他の担当官同様に、自分が担当するカマキリの世話をしているだけ、だろ?」
カマキリと言った時に、ツインテールの少女を指差し、同時に私を横目で見ながら言う。そんな襖さんに、多々良は表情を曇らせ、ムッと眉を吊り上げる。
「……お言葉ですが、病葉さん。そう理解しているのなら、何故あなたはこの子たちに冷たく当たるんですか?」
「ああ、すまない。お前のやり方に文句を言ったわけじゃないんだ。常識の範囲内で好きなようにすると良い。だが、言い訳をしなくちゃならないほどに後ろめたいのなら、しない方がいいと思ってな」
「なら、あなたのやり方はどうなんです! この子たちは好きでこんな――」
「多々良」
感情を現すように多々良は口早に喋り出したが、襖さんは一言でそれを制する。その横顔はあまり見ない顔で、何と言い現せばいいかわからない。目を吊り上げ、怒っているようにも見えたが、そうでもないような眼。
多々良はグッと言葉が止まり、口を紡ぐ。襖さんの圧か、立場の問題か、恐らくその両方だろう。私も襖さんの言うことには逆らえない。
するとその後ろにいる少女が密かに襖さんを睨んでいた。私は一歩、前に出る。そんな中、襖さんは口を開く。
「多々良、深入りして馬鹿なことはするなよ。俺たち6課はいわゆる秘密組織、いつ死ぬかわからないからな。気が滅入るのもわかる」
それだけ襖さんが言うと、多々良は眼を逸らす。そして会釈すると「行こうか、シレネ」と少女に優しく声を掛け、そのまま歩き出す。シレネの方は何か言いたげにしたが、直ぐに元気よく「わかりました」と返事をして付いて行った。去って行く二人を軽く見送った襖さんは再度歩き出し、私も付いて行く。
しかし先ほどの男、いったい何だと言うのか。いきなり襖さんに突っかかって来た。それにシレネだ。あの顔、あの雰囲気、何かあれば襖さんに危害を加えようとしていた。行動に移していたのなら、私も黙ってはいない。誰であれ襖さんには手を出させない、私の眼の前なら尚更だ。
思考を巡らせていると、着いたのが施設の出口。外に繋がる唯一の道。いや、正確には私が知る、唯一の道だ。私たちは仕事以外で遊戯室と宿舎との間しか行動してはいけない。それこそ、担当官が同伴だったりと何かしらの理由がない限りは施設内でさえ自由には動けない。そのため、私はまだ施設の全ての部屋や構造を知らない。
襖さんはその出入り口に立っている者に話し掛け、外に出る旨を伝える。するとその人は胸に付けているトランシーバーで車を回すように指示を出した。
その姿を見て、私は声を出す。
「襖さん。いつも通り、対象が見付かるまで私は待機しています。訓練の方も、一人で問題ありません。襖さんの迷惑を掛けることは起こしません」
出来るだけハッキリと、私は口にする。きっと、今の私は良い感情をしていない。
襖さんは仕事の最後、仕上げの時にしか私を連れて行ってはくれない。これの本当の問題はその間、襖さんは一切私に会いに来てくれなくなるいのだ。
訓練、診察、教育。それら全てに『調査中だから』と来てくれなくなる。ふと周りを見ると、楽しそうに自分の担当官と接する他の者たちを見て、自分の立場を考える。
私は本当に、とそんなことが脳裏を過ってしまう。あり得ないとも思うが、もしかして、と思ってしまうのだ。
先ほどのシレネもそうだ。あのアクセサリーも服も、赤いコートも、担当官に買い与えられたもの。それだけ、多々良とシレネの関係は良いと言うことだろうか。
そんな私を横目で見た襖さんだが、直ぐにその視線を外す。そして懐から一冊の手帳を取り出す。
「持ってろ」
何だろうと見ていると、その手帳を私に押し付けるように渡す。確実に受け止められるように、私は両手で包むように受け止めた。
近くで見てわかったが、まだ真新しい背表紙に、線と点を書くように黒い汚れが付着している。
その手帳を開き、ページをパラパラとめくる。手帳は数ページ書かれているだけで、直ぐに白紙になる。ざっと書いてあるページに眼を通すが、多くのことは書かれていない。
一番新しいページには五人の名前と、店の名前が一つ。店の方には日にちと時刻が書かれている。ちょうど今日だ。他には手帳には19区画の詳細な地図が折り畳まれて挟んであった。手帳を閉じると、そのタイミングを見計らったように襖さんは言う。
「今回の調査はお前も同行させるように言われている」
「……えっ?」
「そう言う指示だ。カマキリと担当官の二人を『狩った』相手に一人では危険だとさ」
「あ、じゃあ、私も一緒に……?」
「何のためにお前をここまで連れて来たんだ。見送りをさせるためるためじゃない」
従業員が出入り口の扉を開けば風が流れ、そこには車が用意されている。扉を潜り外に出ると、襖さんは車の後部座席のドアを開く。中には新品の紺色のコートに、肩に掛ける紐が付いた真黒な長袋。私が外に出る用意がそこにはされていた。
襖さんはそのコートを掴むと私に投げ渡す。慌てて受け止める私に、襖さんは次に顎を動かし、催促した。乗れ、と言うことだ。
パッと、私にまとわり付いていた感情が消え去り、他の感情が私を震わせる。「はいっ!」とハッキリと、私は返事をする。
受け止めたコートを着ながら車に乗り込み、奥に詰める。そうすると襖さんが車に乗り、ドアを閉めた。ドンっ、と車内に音が飛び込み、軽く揺れる。それを確認した運転手の男が助詞席に置いてある、アタッシュケースを襖さんに手渡し、襖さんはそれを開く。
中には拳銃とその銃声を消すためのサプレッサー。そして弾倉。襖さんは拳銃にサプレッサーを付け、弾を込めるとコートとスーツで隠したホルスターに収めた。
「出してくれ、19区画だ」
襖さんが指示を出すと、運転手は車を走らせる。車内が斜めになり、地下を抜けると照明とは違う光が車の窓から差し込む。
辺りには背の高い建物が建ち並び、目に付く人々は比べられないほど多くなる。何度も思うことだが、施設の外は騒がしい。施設にはない物がたくさんあり、スーパーだとか、ファミリーレストランだとか、様々な物が溢れている。
それに合わせて、人々も様々。大人がいれば、子供がいて、笑っていれば怒鳴っていたり。本当に、良くわからない物が溢れている。
私は隣に座る襖さんを見上げるが、襖さんは私から顔を背け、外を見ている。一度「襖さん」と名前を呼ぶも、返事も、反応もない。それでも私の頬は上がり、口から言葉がこぼれる。
「襖さん。私、頑張りますから」




