0 午後の陽気と秘められた発端
過去が消えることはない。今さら言うまでもない当たり前のことだ。たとえ忘れることができたとしても、すべてがなかったことにはならない。現状を変えることでよりよい未来を得ることができたとしても、過去の失敗はどうしようもない。今こうしている間にも時間は流れ、現在は過去に変わり、取り返しのつかないものは積み重なっていく。
時間は不可逆のものだ。だから後悔のないように生きる必要がある。しかしどれだけ精一杯に生きていても人間は悔いるのだ。その瞬間には最善だと思ってとった行動も、他にもっといい方法があったのではないかと思えてくる。自分の判断が間違っていたとわかった場合はとくにそうだ。それでも多くの後悔は時間が経つと忘れてしまう。
ならば忘れることのできない後悔はどうすればいいのだろう。
ふとしたときの何度も思い出す。そして自問する。なぜあんなことを。わかっているのだ。限られた時間、場所、道具、力量。そうする以外に道がなかった。きっと最善だっただろう。たとえ今この瞬間の自分が、当時と同じ状況に立たされたとして、結局また同じ行動をとってしまうのであろうことも。
他の方法があってほしかったと願っている。すべてが丸く収まる最高の道があってほしかった。そんなものはないのだ。自分は正しいことをしたのだと頭では理解していても。理想を求める心が自分自身を責め立てる。それ以外になにもできないのだ。過去には手が届かないのだから。
この後悔こそが自分に与えられた罰なのだと、そう考えることでしか向き合うことができない。
*
どこまでも澄みきった空の青が目に刺さるほどまぶしくて、思わず目を細めた。窓枠に肘をつき、暖かな陽光を浴しながらぼんやり外を眺めていると、茶色い小鳥が目の前を横切って飛んでいった。人間が友達同士で雑談をしながら歩いているのと同じようなものだろうか――そんなどうでもいいことを考える。
恐ろしく平和だ。
ロワリアギルドの二階廊下。屋内に吹き込んでくる柔らかな風を肌に感じながら、天風柴闇はなにをするでもなく午後の時間をすごしていた。のんびり陽気も悪くはないのだが、こうも平和だとなんだかかえって物足りない。柴闇は死地を渇望する戦闘狂でこそないが、平和主義を自称するほど穏健でもない。なのでこうも退屈だとほどほどに暴れたい気分になってくる。
柴闇が第二の故郷として居住するこのロワリア国は、彼が生まれ育った故郷であるダウナ国よりも治安がよくのどかな場所だ。現在十七歳の柴闇がロワリアに移住してきたのは約十年前。つまり故郷で過ごした時間よりもこの国で過ごした時間のほうが圧倒的に長く、正直柴闇はダウナよりもこの国こそが自分たちの故郷であり、あるべき場所だと思っている。
「おい、柴闇」
振り返ると青い髪に青い目の男がこちらへ向かって早足に歩いてきた。風音勇來。同郷の幼馴染だ。幼馴染といっても幼少期のとある一時期のみ一緒に遊んだだけの間柄だ。それが数年越しに、偶然このギルドで再会した。なので幼馴染というには縁が遠いのだが、勇來のほうがそう呼んでくれるので呼ばれるままに肯定している。おそらく彼は昔馴染みと言いたいのだろうが、今さら訂正する必要も感じない。
「ああ勇來、どうした」
「空來を見なかったか?」
「空來? ……いや、見てない。なにか急ぎの用でもあるのか?」
「そうじゃないけどさ。空來のやつ、もう三日は帰ってねえんだよ」
空來というのは勇來の弟の風音空來ことだ。勇來は三つ子の長男で、妹の静來と、その下に空來がいる。三つ子というと大抵の人は物珍しそうにおどろくのだが、柴闇にも癒暗という双子の兄弟がいるので、そこに一人多いだけの三つ子の兄弟に新鮮さは感じない。
「別に、空來が帰らない日なんてそこまで珍しくないだろ。あいつはギルドの外にも友達が多いし、町でできた友達の家に泊まってるとかさ」
「まあ、あいつはコミュ力高くて、誰とでも仲よくなれるやつだけど……」
「そうでないなら女じゃないのか? なんだかんだでモテるだろ、あいつ。いつもの女遊びが長引いてるだけかもしれない」
「空來に限ってそれはありえねえよ」
「悪い悪い、わかってるよ」
空來は見知らぬ相手にも臆さず声をかけることができる。とくに相手が女性であれば、いつもの倍は積極的になるのだ。もともと顔のつくりがいいので、彼自身が動かなくとも相手から声をかけてくることもあるようだ。実際、ギルドの外で仲よくなった女の子と一緒に歩いている様子を何度か見かけたことがある。しかも、そのとき一緒にいる女の子がいつも違うのだ。
とはいえ、複数の女性と関係を持っているただれた人間である――というわけではない。空來は単純に女友達が多いだけだ。その相手と友達になったきっかけが空來からの声かけで、彼はそうして交友関係を広めることでなにかの目的を果たそうとしている。
勇來と柴闇が幼馴染――昔馴染み――なら、その弟妹である空來と静來も、同じだけ付き合いのある友人なのだ。
「……それで、本当にただの外泊じゃないのか? あいつが外に友達が多いのはたしかだろ」
「それなら俺か静來に知らせるはずだ。なんにも言わないで何日も帰らないなんて心配させるようなこと、あいつがするはずない。それに連絡も取れないんだよ。あいつの外の友達にも聞いてみたんだけど、誰もなにも知らないらしい」
「ふうん……ただ帰ってこないだけならまだしも、連絡が取れないとなると話は別だな。どこかに出かけるとか、誰かと会うとか、本当になにも聞いてないのか? いなくなる前日とかじゃなくても、その数日前から前もって伝えていたとか」
「いや、俺も静來もなんにも聞いてない。俺は普段そういうのを聞いたらすぐに静來に言うから、俺が忘れてても静來が覚えてる。でも静來もなにも聞いてないって言ってる。置き手紙もないし、誰かに伝言を頼んだって感じでもない」
「他の連中には?」
「まだこれからだ。柴闇、悪いけど癒暗とか龍華にもなにか知らないか聞いてみてくれないか」
「……わかった。癒暗たちにも聞いてみる。それだけでいいのか?」
「おう、できれば他のやつにもなにか知らないか聞いてみてくれ。俺はとりあえず礼のところに行ってみる。もしかしたら誰かと任務に出てて、連絡がうまく伝わってないだけかもしれないし。じゃあまたあとでな」
勇來は早足に去って行った。話し方や振る舞いに普段と変わった様子はないが、これまでにない焦燥を抱いていることは、細かい仕草や動作からよくわかる。弟が行方不明の音信不通――となると心配するのは当然だろう。そのうえ、ごく普通の一般的な兄弟と勇來たちとでは境遇が異なる。
柴闇はため息をついて壁にもたれかかった。
「まあ……俺らみたいなのからすりゃ、緊急事態だわな」




