第1話「数字にならない男」
クラン「ゼノギア」の応接室は、床が鏡みたいに光っていた。
昨夜、俺がワックスを二度がけしたからだ。その床の上で、俺はいま解雇を言い渡されている。世の中はよくできている。
呼び出しは朝一番だった。応接室に通された時点で、おおよそ察しはついていた。先月から備品の発注が俺を通らなくなっていた。ああいうのは、だいたい前兆だ。
受付の観葉植物が枯れかけていたのも見た。誰も水をやらないからだ。先週まで、あれは俺の仕事だった。
「数字で語れ、灰崎。お前がこの5年で討伐した魔物は何体だ。攻略した階層は。持ち帰った素材のポイントは」
代表の王城巧は、タブレットから顔も上げなかった。爪の先まで手入れされた指が画面の上をすべっていく。その爪を磨く時間で、俺の5年は査定し終わったらしい。
「……装備の手入れなら、延べ8,000件くらいはやりましたけど」
「それは数字じゃない。コストだ」
即答だった。あらかじめ用意してあった台詞なんだろう。
俺は膝の上で軍手の指先を折り畳んだ。洗っても落ちない研磨剤の黒が、爪の間に残っている。この部屋でいちばん汚れているのは、たぶん俺の手だ。
「悪いが、数字にならない人間を雇う余裕はないんだ。契約は今月末で終了。私物は今日中にまとめてくれ」
「……後任は」
「雇わない。外注で回す。そのほうが安い」
俺の5年は、外注より高くついていたらしい。
窓の外では、若手の攻略班が遠征の積み込みをしていた。あいつらの剣を研いだのは俺で、防具の呪詛抜きをしたのも俺だ。保存食の仕込みも、拠点の結界の張り替えも。――なんて並べたところで、攻略ログに「雑用」の欄はない。
出発前に剣を研ぎ直してやりたい、と一瞬思って、やめた。もう俺の仕事じゃない。
「5年、お世話になりました」
頭を下げると、王城は初めて俺を見た。値札を確かめるような目だった。
「君のスキルは【クリーンアップ】だったな。汚れを消す。それだけ。……ダンジョンのある時代に生まれて、気の毒だったとは思うよ」
同情の形をした値踏みだ。俺は「どうも」とだけ返した。言い返す言葉なら5年分あったが、どれを口にしても時給は発生しない。
「ああ、それと守秘義務の書類にサインを。うちの内部情報は、数字になるんでね」
最後まで数字の話だった。ペンの走る音が、磨き上げた床によく響いた。
段ボール一箱ぶんの私物を抱えてビルを出る。業務用スプレーは持って帰った。備品台帳に載っていない。俺が自費で買ったやつだからだ。
病院の面会時間には、ぎりぎりで間に合った。
消毒液のにおいのする廊下を抜けて、402号室のドアを開ける。妹はベッドの上で身体を起こしていた。
「あ、お兄ちゃん。今日は早いね」
灰崎ひより、16歳。魔素症候群で入院8か月目。窓際の鉢植えの葉が、先週より1枚増えていた。点滴の管を挿したままで、こいつは植物の世話だけは欠かさない。
サイドテーブルには読みかけの参考書が置いてあった。付箋が几帳面に並んでいる。退院する気満々だ。
「まあな。仕事が……早めに終わったんだ」
「ふうん?」
ひよりは俺の顔をじっと見た。この妹は昔から、嘘のにおいに犬より鋭い。俺は売店で買ってきたゼリーを掲げて、話の向きを変えた。
「いちご味しかなかった」
「いちごでいいの。……ね、お兄ちゃん。退院したら、いちご狩りに行きたいなあ。冬でもやってる農園、あるんだって」
「調べとく」
「あとね、退院したら、お兄ちゃんの職場も見てみたいなあ。かっこいい探索者さん、いっぱいいるんでしょ」
「……あそこは関係者以外、入れないんだよ」
嘘はついていない。俺がもう関係者じゃなくなった、というだけで。
「顔色わるいよ。お昼、ちゃんと食べた?」
「食った食った」
食っていない。段ボールを部屋に運んだら、それだけで夕方になっていた。
ひよりはスプーンを口にくわえたまま、少しだけ目を細めた。
「お兄ちゃんはすごいんだよ。世界が気づいてないだけ」
「はいはい」
「はいは1回」
面会終了のチャイムが鳴るまで、ひよりは学校の課題の話をした。友達が写真で送ってくれるノートの話。俺は相槌を打ちながら鉢植えに水をやった。それくらいしか、兄にできることが思いつかなかった。
「また来るよ」
「うん。次はお仕事の話、聞かせてね」
ドアが閉まる寸前まで、ひよりは手を振っていた。
帰り際、廊下で主治医に呼び止められた。診察室の椅子は妙に低くて、座ると先生を見上げる形になる。次の治療ステージの話だった。新しい魔素抑制剤は効果が高い。ただし、保険適用外だという。
「費用は、月に40万ほどになります」
40万。月に。
俺は床の継ぎ目を見ながら、はい、と返事を重ねた。継ぎ目の隅にワックスの塗りむらがある。ここの清掃業者は仕事が雑だ。頭の中で、そんなことばかり数えていた。
「ご家族で相談して、ゆっくり決めていただいて構いませんから」
「やります。……やれる方法を、探します」
先生は少しだけ黙って、それから治療計画のパンフレットをくれた。紙が1枚増えただけなのに、鞄はやけに重くなった。
病院を出ると、夜気が湿っていた。自販機で缶コーヒーを1本だけ買って、飲まずに握った。【クリーンアップ】。汚れを消すだけのハズレスキル。妹の病気は、消せない。手のひらが温まるまで、ずっとそうしていた。
深夜のアパートで、俺は求人サイトを漁っていた。
解体業、夜間警備、道路工事。指が勝手に時給の高い順へ並べ替えていく。日付が変わる頃、画面の隅で一件の求人が目に留まった。
『ダンジョン清掃員募集。深夜勤務。時給1,200円。未経験可。スキル持ち優遇』
ダンジョンの中を掃除する仕事。そんなものがあるのか。いや、考えてみれば当たり前だ。人が出入りする場所は、必ず汚れる。
電卓を叩く。時給1,200円に深夜手当、週6で入って――足りない。昼に別の仕事を挟んでも、まだ足りない。それでも、ゼロよりはずっといい。
応募ボタンを押した。30秒後に電話が鳴って、俺は画面を二度見した。深夜1時に鳴る採用電話があるか。普通はない。だがこっちも、普通の状況じゃなかった。
「くまがいクリーンサービスだ。明日の朝、面接に来られるか」
翌朝の事務所は、駅裏の雑居ビルの3階にあった。所長の熊谷源三は熊みたいな男で、俺の履歴書を3秒で読み終えた。
壁には清掃計画表と、色褪せた集合写真が1枚。若い頃の熊谷らしき男が、防護服の連中と笑っていた。
「ゼノギアに5年。辞めた理由は」
「……コストカット、だそうです」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。ありがたかった。熊谷の視線が、スキル欄で止まる。
「【クリーンアップ】。どんなスキルだ」
「汚れが消せます。それだけです。あの、戦闘のほうは、その……」
「うちは清掃会社だ。戦闘なんぞ頼まん」
熊谷は履歴書から目を上げた。
「夜勤は身体にくるぞ。昼間は寝られる環境か」
「大丈夫です。……夕方に、病院へ寄れれば」
熊谷は何も聞かなかった。シフトの融通は利く、とだけ言って、事務所の隅を顎で示した。誰かがこぼしたコーヒーの染みが、床板に沈着していた。
「消してみろ」
しゃがんで床に手を当てる。染みが、砂糖が水に溶けるように消えた。ついでに床板の黒ずみと、こびりついたガムの跡も消えた。我ながら地味なスキルだと思う。5年使って、これで誰かに驚かれたことは一度もない。
顔を上げると、熊谷がじっとこっちを見ていた。ほんの一瞬、目が細くなった。何かを思い出すような、ここではないどこかを見る目だった。
「……所長?」
「採用だ。明日から来い」
「え。あの、志望動機とか、条件の話とか」
「掃除ってのはな、世界を昨日より少しマシにする仕事だ。それが分かる手をしてる。書類より確かだろう」
手の甲の古傷と、爪の間の黒ずみを見られていたらしい。よく分からない採用基準だったが、時給は発生するらしい。俺は深く頭を下げた。
「時給分は働きます」
帰り際、熊谷が勤務表を寄越した。ざらついた紙が1枚。集合時間、支給装備、現場番号。
帰りの電車で、ひよりにメッセージを送った。仕事、決まった。既読は3秒でついた。びっくりマークが5個並んだスタンプが返ってきて、俺は少しのあいだ画面を見ていた。
アパートに戻って、勤務表をもう一度眺めた。初仕事の現場の欄には、こうあった。
『第七ダンジョン・第47層』
ふうん、と俺は思った。ずいぶん深いところを掃除するんだな、と。
――その階層に、人類がまだ一度も足を踏み入れていないことを。
俺はまだ、知らない。




