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001●がんばれ

彼は今日の仕事を終え、帰宅する。

妻はリビングの椅子でくつろぎ、タブレットでネット漫画に夢中だった。


「ただいま。調子はどう?」

「いいです!」の声。


彼は決して「だいじょうぶ?」とは問わない。

その質問には、頷くか首を振るかで答えることができてしまうからだ。

少しでも発話をすること。それが妻には必要だった。


定年退職をしたその年の10月。フルタイムを離れ、

短時間再雇用で新たな職場についていた彼は、教育委員会から呼び出しを受けた。

最後に校長を務めた学校で、職員同士のハラスメントがあった、

昨年度の事情を聞き取りたいというのだ。


彼は首を傾げる。ハラスメント?いや、気が付かなかった。

1年間だけの最後の赴任校だった。

学校や地域のことを知るので、正直、精いっぱいだった。

しかし、その聞き取りは、さかのぼること3代の校長に及んだ。


役所を後にし、いつもよりかなり遅れて帰宅した彼に、妻が言った。

「右手に力が入らない。壁に押しピンをとめられない。」


彼は、すぐに妻を自家用車に乗せ、近くの病院に向かった。

普段の彼では考えられない、猛スピードで。

病院に着いた時、妻はもう、自力では歩くことができなかった。

脳梗塞だったのだ。


3日間の集中治療室での治療後、手術が行われた。

医師から、内科療法では、血管の詰まりを取り除くことができないと説明を、彼は何も言えず聞いた。


せめて、もう少し早く帰宅していれば。後悔が彼を苦しめる。

8時間の手術のあと、妻は生還した。

しかし、右半身と言語野に障害が残った。失語症である。

音声器官の問題ではない。

外国にいきなり行き、言いたいことはあるが、その国の言葉が何かわからない。

それと同じような状態になる症状だった。


短時間勤務であることが不幸中の幸いだった。

退院後の妻のリハビリに、彼は平日の非勤務日である2日を当てた。

脚、腕、言葉。それぞれの療法士が懸命に2人を支える。


物を掴むことさえできなかった右手が、時間をかけながらもキュウリを切った時、

療法士の女性は尋ねた。自宅で料理できるようになったら、何を作りたい?

妻は言葉を探し、しばらくして「カレー」と答えた。


やがてリハビリの限界となる。

これ以上、病院でリハビリしても、さらなる回復はない。

あとは、実際の日常生活で鍛えることがリハビリとなった。

発病から2年近くがたっていた。


開催された冬季オリンピック。女子カーリングの奮闘がテレビに映し出される。

接戦を力を合わせて切り抜け、勝ち進んでいく。

言葉が出ない妻が「がんばれ、がんばれ」と応援を続ける。

彼には、その言葉が、彼や妻自身に向けられているように感じられた。

銀メダルに終わった涙ぐむチームを、妻は満足そうに見ている。

「がんばれ」という言葉は、再度、言語野に記憶された。

妻の「言葉」は、確かにそこにあった。


  失語症 それでも応援する妻の 「声」届いたか 女子カーリング


もし、半四郎先生が生きておられたなら、

今、どんな言葉をかけてくれるだろうか。

人生はなくしたものを数える過程かもしれない。

そうだと知ってはいたが、やはり悲しい。


だが、彼と妻の新しい生活はこれからが長い。と、あってほしい。


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