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元夫の後悔に興味はありません  作者: 九葉(くずは)


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第6話 愛人の涙

「お願いです、リーナ様。──私を、助けてください」


玄関先に立っていた女は、思っていたのと違った。


社交界で噂に聞いていたクラーラ・フォン・ベルクは、柔らかい巻き毛とよく潤んだ目を持つ、可憐な令嬢のはずだった。男の庇護欲を掻き立てる、そういう類の美しさ。


目の前にいる女は、目の下に隈があった。巻き毛はほどけかけていて、ドレスの袖口が擦り切れている。頬がこけている。食事をきちんと摂っていないのだろう。


──その姿を見て、最初に思ったのは怒りではなかった。


奇妙なほど、何も感じなかった。


この女がグラーフ侯爵の愛人だった。この女が私の知らないところで夫と過ごし、私が「石女」と呼ばれる原因の一端を担った。


怒るべきなのかもしれない。でも、怒りは来なかった。


代わりに浮かんだのは、妙に冷静な疑問だった。


──この人は、いつからこんな顔をしていたのだろう。



三十分前のことを思い出す。


アンナが居間に入ってきた時、ミラは私の膝の上で絵を描いていた。アンナが教えた花の絵だ。花弁の数が多すぎて向日葵のようになっているが、本人は薔薇のつもりらしい。


「リーナ様、少しよろしいですか」


アンナの声がいつもと違った。低くて、慎重な声。


「先日の審理の傍聴席にいた、フードの女性を覚えていらっしゃいますか」


覚えている。最後の方で、傍聴席の隅にフードを深く被った人影があった。私は審理に集中していたから顔は見ていない。


「あの方が、今、外にいらっしゃいます」


「……誰?」


アンナが少し間を置いた。


「クラーラ・フォン・ベルク様です」


ミラの手が止まった。私の膝の上で、空気の変化を感じたのかもしれない。


「会うべきです、リーナ様」


アンナの目が真っ直ぐだった。


「あの女も──あの方も、使い捨てにされた側です」


使い捨てにされた側。


アンナがそう言うからには、何か根拠がある。この侍女は感情だけで判断しない。


「どうしてそう思うの」


「審理の後、あの方が法廷を出るところを見ました。フードの下で泣いていらっしゃいました。勝った側が泣く顔ではありませんでした」


アンナの観察眼は、七年間の侯爵邸生活で鍛えられたものだ。使用人の視点は、当事者には見えないものを見る。


「……お通しして。ミラはあなたの部屋に」


ミラを下ろした。ミラは薔薇の絵を握ったまま、不安そうな目で私を見上げた。


「すぐ戻るわ」


ミラが小さく頷いて、アンナの手を取った。



それで、玄関先にクラーラが立っていた。


「お願いです、リーナ様。──私を、助けてください」


声が震えていた。玄関の敷居を跨ぐのを躊躇っている。当然だ。夫の愛人が、夫を訴えている妻の家を訪ねているのだ。


「中へどうぞ」


クラーラが一瞬、信じられないという顔をした。追い返されると思っていたのだろう。


居間に通した。椅子を勧める。クラーラは座ったが、背もたれに体を預けなかった。椅子の端に腰かけて、膝の上で両手を握り締めている。爪が掌に食い込んでいた。


「お茶を」


アンナが茶を運んできた。二人分。クラーラは手をつけなかった。


しばらく黙っていた。クラーラが口を開くのを待った。急かさない方がいい。証言者の話を聞く時に身につけたことだ。こちらから聞き出そうとすると、相手は構える。待てば、必要なことは向こうから出てくる。


「……審理を、見ていました」


クラーラが言った。目はテーブルの上の茶杯を見ている。


「帳簿を出されて、差し押さえの命令が出て。イレーネ様の顔が変わるのを見ました」


「傍聴席にいらしたのね」


「はい。フードを被って。エーリヒ様に見つかったら、何をされるかわからなかったので」


何をされるかわからない。


その言い方が引っかかった。


「クラーラさん。あなたは今、グラーフ侯爵とどういう関係ですか」


直接的な質問だった。でも回り道をしている余裕はない。


クラーラの肩が震えた。


「捨てられかけて、います」


声が途切れた。一度止まって、深く息を吸って、続けた。


「裁判が始まってから、エーリヒ様の態度が変わりました。私を──証拠にされることを恐れて。私との関係を、なかったことにしようとしています」


「なかったことに」


「手紙を返せと言われました。贈り物も全部。会った記録が残るものは、何もかも」


なるほど。


エーリヒは裁判を意識して、愛人との関係を消そうとしている。不貞の証拠を消すために、愛人そのものを切り捨てる。


自分が蒔いた種を、自分で刈り取ろうとしているのだ。ただし、刈り取り方を間違えている。


「……私の実家には、借金があります」


クラーラが唐突に言った。


「ベルク男爵家は、三代前から財政が苦しくて。父は──父は、私がエーリヒ様のお傍にいることで、侯爵家からの援助を受けていました」


愛人の実家への援助。それも使途不明金の一部だろう。


「エーリヒ様が私を切り捨てれば、実家への援助も止まります。父は……」


言葉が途切れた。クラーラの目から涙が溢れた。声を上げずに泣いている。涙だけが頬を伝っていく。


私はテーブルの上のクラーラの手を見た。握り締めた指の間に、涙が落ちていく。指輪はしていない。愛人の立場には、指輪は贈られないのだろう。


怒りは、まだ来なかった。


この女が悪くないとは思わない。夫の愛人になったこと、私の悪評を社交界で広めたこと。それは事実だ。


でも──この女を操っていたのは誰だ。


実家の借金を盾に愛人にし、用が済んだら切り捨てようとしている男は誰だ。


「クラーラさん」


顔を上げた。涙で目が赤い。


「あなたも、利用されていたのね」


クラーラの表情が崩れた。


今度は声が出た。抑えきれなかったのだろう。嗚咽が漏れて、両手で顔を覆った。肩が大きく震えている。


私は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったのではない。言わない方がいいと思ったのだ。今この人に必要なのは、言葉ではなく、泣ける場所だ。


しばらく待った。


クラーラの嗚咽が収まるまで、茶杯の縁を指でなぞっていた。安物の茶杯だ。縁が少し欠けている。侯爵邸の銀の茶器なら欠けることはなかっただろうが、あれは私のものではなかった。この欠けた茶杯は、少なくとも私のだ。


「……証言したいのです」


クラーラが顔を上げた。目が腫れている。鼻が赤い。


「エーリヒ様との関係を、全て。日時も、場所も。お話しします。書面にしていただいて構いません」


「なぜ」


聞かずにはいられなかった。


「なぜ、私に?」


クラーラは少し考えてから、答えた。


「審理を見ていて、思ったんです。リーナ様は──法廷で、感情的にならなかった。帳簿を出して、手続きを踏んで、必要なことだけを言った。あの方たちを憎んでいるだけなら、あんなふうにはできない」


言い方が不器用だった。でも、たぶん本音だ。


「それで、この人なら──私を、ただの道具として使うだけじゃないかもしれない、と」


それは買い被りだと思った。


私だって道具として使うかもしれない。クラーラの証言は、訴訟にとって極めて有利な証拠だ。利用しない手はない。


でも──利用するだけで終わらせるつもりもなかった。


「わかりました。証言を聞かせてください」


ペンと紙を用意した。証言を聞き、要点を文書にまとめる。染みついた手順だ。


クラーラは話し始めた。



証言は具体的だった。


日時。場所。頻度。エーリヒとの最初の出会いから、愛人関係に至った経緯。侯爵邸への訪問の回数と日時。使用人が手配した密会用の部屋の場所。


クラーラの記憶は正確だった。感情的な女だと思っていたが、こういう細部は覚えている。怯えていた分だけ、記憶に刻まれていたのかもしれない。


証言を文書にまとめていく。ペンを走らせながら、時折確認する。


「この日付は確かですか」


「はい。父の誕生日の翌日でしたから」


「この場所は侯爵邸のどこですか」


「西棟の二階、来客用の寝室です。使用人のマルタが鍵を持っていました」


具体的すぎて、少し胸が痛んだ。


この証言の中に出てくる「侯爵邸の西棟二階」は、私の部屋から廊下を一つ挟んだ場所だ。私が一人で眠っている間、廊下の向こうで夫は愛人と──


──やめよう。今は記録者だ。感情は後にする。


文書を書き終えた。クラーラに内容を読み上げて確認を取り、署名を求めた。


クラーラの手が震えていた。ペンを取る指が定まらない。


「大丈夫です。ゆっくりで」


クラーラが署名した。字が少しだけ歪んでいたが、読める。


文書を乾かしながら、クラーラに茶を勧めた。今度は手をつけた。一口飲んで、少しだけ表情が和らいだ。


「もう一つだけ」


クラーラが茶杯を両手で包みながら言った。


「あの方は──エーリヒ様は、私だけでなく」


言いかけて、止まった。茶杯の中を覗き込んでいる。


「イレーネ様のことも、切り捨てるつもりです」


「……イレーネを?」


もう「お義母様」とは呼ばなかった。自分でも気づかないうちに、呼び方が変わっていた。


「裁判で不利になったら、全てを義母のせいにするつもりだと。横領は義母が勝手にやったことだと。自分は何も知らなかったと」


母親を切り捨てる。


エーリヒは愛人を捨て、母親すらも切り捨てようとしている。


最初の感情は驚きだった。次に来たのは──これも怒りではなかった。納得だ。あの人はそういう人だ。自分の手を汚さず、誰かに責任を押しつける。七年間、そうやって生きてきた。帳簿を見ない。愛人を作る。不都合が起きたら誰かを切る。


「クラーラさん」


「はい」


「今日のことは、あなたを守るためにも使います。あなたの証言は訴訟の証拠になりますが、あなた自身を罪に問うために使うつもりはありません」


クラーラが目を見開いた。


「……本当に?」


「ええ」


嘘ではなかった。クラーラを潰しても、私の得るものは何もない。むしろ、クラーラが安全であることが、証言の信頼性を担保する。打算と善意が重なる時、人はもっとも正しいことができる。


クラーラが帰ったのは、日が傾き始めた頃だった。


玄関で、アンナがクラーラの背中を見送りながら言った。


「リーナ様。あの方を恨んでいらっしゃらないのですか」


「……わからない」


正直に答えた。


「恨むべきなんでしょうね。でもね、アンナ。あの人を見て思ったのは、七年前の私と同じ顔をしている、ということだけだったの」


アンナは何も言わなかった。



夜。


ミラを寝かしつけた後、私室のテーブルに座った。


クラーラの証言書を広げる。日時、場所、頻度。全てが揃っている。アンナの目撃証言と合わせれば、不貞の立証は十分だ。


訴訟の三段構造。


第一の柱、不貞。証拠──クラーラの証言書+アンナの目撃証言。これで固まった。


第二の柱、白紙婚。証拠──純潔証明書。提出済み。


第三の柱、横領。証拠──帳簿原本。差し押さえ命令は発出済み。執行を待つだけ。


三本の柱が、全て揃いつつある。


テーブルの上に、蜂蜜湯の入った杯があった。


ヴォルフ様からの差し入れだ。いつからか、定期的に届くようになった。蜂蜜湯と言っても、ただの蜂蜜を湯で溶いたものではない。レーヴェンシュタイン領の特産だという深い色の蜂蜜を、温めた牛乳で割ったものだ。甘すぎず、喉に優しい。


杯に手を伸ばした。


温かかった。


アンナが温め直してくれたのだろう。差し入れが届いたのは昼前のはずだから、何度か温め直さないとこの温度にはならない。


一口飲んだ。甘い。疲れた体に沁みる。


ヴォルフ様は、こういう差し入れをする時にも何も言わない。手紙も添えない。ただ蜂蜜湯が届くだけだ。届いた時にアンナに「侯爵様からです」と告げる使いの者が来るだけで、それ以上の言葉はない。


あの人は言葉が少ない。行動も少ない。でも、少ない行動の一つ一つが、妙に温度がある。


蝋燭の灯りの下で、蜂蜜湯を飲みながらクラーラの証言書を読み返した。


西棟の二階。来客用の寝室。使用人のマルタが鍵を持っていた。


私の部屋から、廊下一つ分の距離。


杯を置いた。蜂蜜湯はまだ温かかった。


温かいものが手元にあるということが、今はただ、ありがたかった。

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