第68話――環風風穴――風が途切れた先
>いつも『失われた断片 ― 風の環 ―』を読んでくださり、本当にありがとうございます!
第68話では、風穴の奥で新たな異変が静かに姿を現します。
少しずつ明らかになっていく違和感を、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
(人*´∀`)。*゜+
時刻:3670シヴン年12月25日 AM 08:52
場所:ビグトラス島・環風風穴
「――ああああああああっ!!」
リクトの悲鳴が環風風穴いっぱいに響き渡った。
「リクト!」
ジャスが反射的に駆け寄る。
リクトは片膝をつき、右耳を押さえたまま荒く息を繰り返していた。
「ぐっ……!」
「何だ……今の音……!」
肩が小刻みに震え、指の隙間から赤い雫が岩肌へ落ちていく。
エフィチもすぐ隣へ駆け寄った。
「耳をやられたのか。」
「違う……」
リクトは苦しそうに首を振る。
「耳だけじゃ……ない」
ゆっくりと右手を離した、その瞬間だった。
「……!」
ジャスの表情が変わる。
リクトの右目の周囲へ、細い黒い痕が静かに浮かび始めていた。
まるで何かが眼の奥へ染み込んでいくように、その痕はゆっくりと広がっていく。
リクト自身も異変に気づき、恐る恐る右目へ手を伸ばした。
「……右目が」
「見えない……!」
「リクト!」
ジャスが思わず叫ぶ。
その瞬間、
リクトの視界がぐらりと大きく揺れた。
「なっ……!」
「何だよ……これ……!」
ジャスはリクトの右目に広がる黒い痕を見据える。
そしてすぐに顔を上げ、後方のプリヴィへ鋭く視線を向けた。
迷っている時間はない。
「プリヴィ!」
「先にリクトを診てくれ!」
「応急処置だけでいい!」
「原因は後だ!」
「は、はい!」
プリヴィは慌てて駆け寄り、胸元の徽環へ両手を添える。
淡い光がリクトの右目を包み込み、探査術式が静かに流れ始めた。
「…………」
プリヴィの肩が小さく震える。
「どうした。」
ジャスが低く問いかける。
プリヴィは探査を続けたまま、小さく首を振った。
「違います……」
「普通の傷じゃありません……」
「結界反応も……能脈の乱れも……」
そこで言葉が止まる。
「読めません……」
その一言だけで、空気が張り詰めた。
プリヴィが読めない。
それは今まで一度もなかったことだった。
一方、その間もバライトだけは前方から視線を逸らしていなかった。
静かに目を閉じ、頬を撫でる風へ意識を向ける。
数秒の沈黙。
そして、ゆっくりと目を開いた。
「……違う」
その声には、先ほどまでの穏やかさはなかった。
「風が止まったんじゃない」
前方の環風気流を見つめたまま、小さく呟く。
「何かが……。」
「風を塞いでる。」
その一言に、
全員の視線がゆっくりと前方へ集まった。
幾筋もの光が差し込む環風気流。
白く渦巻いていた風は、
その中心だけが不自然に途切れている。
まるで巨大な岩壁でも立ちはだかっているかのようだった。
だが、そこには何もない。
ジャスが目を細める。
「……何だ」
光と風が幾重にも重なり、その向こう側はよく見えない。
それでも、
何かがいる。
誰も口にはしなかった。
それでも全員が、同じ気配を感じていた。
リプレイトが一歩だけ前へ出る。
「プリヴィ」
「探査は」
プリヴィは震える指先のまま探査術式を維持していた。
「だ、駄目です……」
「何度重ねても……」
「そこだけ結界線がありません」
バライトは前方を見据えたまま、小さく首を振る。
「違う......」
「この先に、何かいる。」
「慎重に――」
その瞬間だった。
ズゥン……
洞穴全体が、小さく震えた。
頭上の裂け目から細かな砂粒がさらさらと降り落ちる。
風が止まる。
いや、
吸われた。
環風気流すべてが一点へ向かって、ゆっくりと流れ始める。
リクトが苦しそうに顔を上げる。
「……いる」
「さっき……俺の囮音に返してきた奴だ……」
その言葉が終わるより早く、光柱の奥で黒い巨影がゆっくりと揺れた。
全員の呼吸が止まる。
次の瞬間。
差し込む光の中から、一つの巨大な眼が静かに姿を現した。
人の頭ほどもある赤黒い瞳。
縦に裂けた瞳孔だけが、ゆっくりと六人を映していた。
誰も声を失う。
だが、それだけでは終わらない。
巨大な眼の周囲で、暗闇の中から次々と小さな眼が開き始めた。
一つ。
二つ。
三つ――
昆虫の複眼を思わせる無数の眼。
大きさも形も揃わず、それぞれが別々の方向を向き、別々の速度で瞬きながら六人を見つめている。
それは、
一つの生き物には見えなかった。
灰霧の奥へ潜む、
無数の視線だけを、
無理やり一つへ縫い合わせたような異形だった。
リプレイトの表情が初めて強張る。
「……何だ、あれ」
「……ただならない気配だ」
バライトは小さく息を呑んだ。
風は止まっていない。
止められている。
あの巨大な存在が、
環風気流そのものを押さえ込んでいた。
異獣は一歩も動いていない。
ただ、
そこに立っているだけだった。
それだけで、
環風気流は巨体を避けるように歪み続けている。
「……風を、押し返してる」
ジャスは思わず息を呑む。
「いや……」
バライトが低く否定する。
「押し返してるんじゃない」
「風そのものを……止めてる」
腰の徽環を強く握り締めたまま、
その視線は異獣から一瞬も逸らさなかった。
「わ、私……」
プリヴィの肩が小さく震える。
「そんなこと……」
「結界線にも、こんな反応ありません……」
リクトは右目を押さえたまま苦しそうに顔を上げた。
「……あいつだ」
「囮音を返してきたのは」
巨大な主眼が、ゆっくりとリクトを向く。
その瞬間、周囲の複眼も一斉に同じ方向へ動いた。
ぞわり――
言葉にならない悪寒が、六人の背筋を駆け抜ける。
誰も動けない。
いや、動こうとしなかった。
目を離した瞬間、何かが起こる。
そんな確信だけが、全員の胸にあった。
その時だった。
異獣の喉の奥が、
微かに震えた。
「……ァ……」
「……ゥ……」
掠れた声だった。
虫が羽を擦り合わせて鳴くような、
細かな震えを帯びている。
耳を澄ませば、
誰かが喉の奥から、
言葉にならない言葉を、
無理やり絞り出そうとしているようにも聞こえた。
「また……聞こえる……」
リクトの肩がびくりと震え、
本能的に二、三歩後ずさる。
「リクト!」
「何が聞こえる!」
ジャスは反射的に振り返る。
だが、
すぐに視線を異獣へ戻した。
「頭の中へ……」
リクトは右目を押さえ、
苦しそうに歯を食いしばる。
「直接……響いてる……」
その時だった――
差し込む光が、
巨体の胸元をゆっくりと照らした。
黒い甲殻の隙間から、
異獣のものとは思えない何かが覗いている。
その半身は黒い甲殻へ埋もれ、
力なく垂れ下がっていた。
「……何だ、あれ」
ジャスの喉が小さく鳴る。
「気持ち悪い……」
エフィチは思わず口元を押さえ、
目の前の光景に吐き気を覚えた。
「……この反応は!?」
プリヴィは探査術式を維持したまま、
目を大きく見開く。
「異獣だけじゃ……ありません」
胸元の徽環が微かに明滅した。
探査術式は何度重ねても、
その場所で必ず乱されてしまう。
「読めない……」
「でも……中に何かいます」
「プリヴィ」
バライトは一歩前へ踏み出し、
静かに隣へ並んだ。
「見えたものを、
そのまま口にしろ」
プリヴィの唇が小さく震える。
「腕が……あります」
眼鏡の奥の瞳は、
なお光の向こうを見つめ続けていた。
短い沈黙が流れる。
「人の……腕です」
震える声で、
ようやく最後の一言を絞り出した。
誰も返事をしなかった。
ジャスは目を細める。
差し込む光の隙間から、
確かに何かが黒い甲殻の間に垂れ下がっていた。
その時、風が微かに揺れた。
黒い甲殻の隙間から、もう一つ白いものが覗く。
差し込む一筋の光に照らされ、その姿がゆっくりと浮かび上がった。
布だった。
裂け、
泥と黒い体液に汚れ、
元の姿はほとんど分からない。
だが、
その縫い目だけは、
見覚えがあった。
「……学院の制服」
エフィチの表情が固まる。
リクトも苦しそうに顔を上げ、
霞む右目でその布だけを見つめた。
「う、嘘……だろ……」
プリヴィは両手で口元を押さえ、
大きく目を見開く。
「…………」
「まさか……」
その瞳に浮かんだ驚きは、
次の瞬間、旧風鈴通りで見た光景と結びついた。
「旧風鈴通りで……」
「……あの遺体。」
「どういうことですか……!?」
ジャスの脳裏にも、
雨の街の光景がよみがえる。
石畳へ残された衣服。
泥水へ沈んだ腕。
引き裂かれた脚。
だが、
どの遺体も、
身体のどこかが失われていた。
リクトは右目を押さえ、
苦しそうに息を呑む。
「ぐっ……!」
「じゃあ……」
プリヴィは震える声で続けた。
「消えていた身体は……」
エフィチは再び口元を押さえ、
岩壁へ身体を預ける。
バライトとリプレイトは、
互いに視線を交わした。
言葉はない。
それだけで、
二人は同じ答えへ辿り着いていた。
誰も、
その先を口にはしなかった。
言葉にした瞬間、
それが現実になってしまう気がした。
巨大な主眼がゆっくりと瞬きをする。
それに呼応するように、胸元の黒い甲殻が微かに脈打った。
ずるり――
甲殻の隙間で何かが僅かに動く。
力なく垂れ下がっていた人の腕だった。
指先だけが痙攣するように、ぴくりと震えた。
「……動いた」
エフィチの呼吸が止まる。
「ま、まだ生きてるのか……?」
ジャスも目を見開いた。
「違う……」
「それは、生きている動きじゃない」
リプレイトはゆっくりと首を振る。
その声は、
今までになく低かった。
「……ァ……」
「……ゥ……」
異獣の喉が再び微かに震える。
掠れた音が、
環風風穴の奥へ静かに滲んでいく。
それは言葉になれない何かだった。
だが、
誰かの声を無理やり真似ようとしているようにも聞こえた。
「ぐぁっ……!」
リクトの身体が大きく震える。
右目を押さえる手から、新たな血が滲み始める。
「何だ、その動きは――!」
バライトは一歩前へ踏み出す。
その視線は、
異獣から一瞬も逸れなかった。
「みんな!」
「下がれ!」
その声と同時に、
巨大な異獣が動く。
轟音とともに岩盤が砕け散り、
黒い巨腕が地面を薙ぎ払った。
「散れ!」
ジャスの声が響く。
六人は反射的に左右と後方へ飛び退き、
砕けた石片が雨のように降り注ぐ。
ジャスは前方を見据えた。
吹き荒れる環風気流が視界を遮り、
複雑に渦巻く風道は絶えず姿を変えている。
ここは、
自分たちよりも、
バライトたちの方が遥かによく知る場所だった。
「バライト!」
ジャスは迷わなかった。
「ここから先は任せる!」
バライトもすぐに態勢を立て直し、頷きながら素早く指示を飛ばした。
「分かった!」
「ジャスは右から回れ!」
「エフィチは正面を支えろ!」
「プリヴィは探査を切るな!」
「リプレイト、俺と来い!」
「了解!」
それぞれの返事が、異なる方角から重なり合う。
ジャスは異獣の死角へ回り込み、火と土の術式を放つ。
エフィチは正面から異獣を引きつけ、防御術式で衝撃を受け流した。
リプレイトは崩れた岩場の流れを補正し、バライトは足場を固定していく。
環風気流は絶えず姿を変え、
風道も刻一刻と流れを変えていた。
それでも、
六人の連携は乱れない。
誰一人、
立ち止まることはなかった。
その時だった。
異獣が大きく身体を捻り、胸元の黒い甲殻が僅かに開く。
差し込んだ光が一瞬だけ奥を照らし、その隙間で何かが揺れた。
「何だ、あれ!」
バライトは思わず目を細める。
差し込んだ光に視界を奪われた、その一瞬――
銀色の首飾りが見えた。
泥と黒い体液に汚れながらも、見覚えのある意匠だけははっきりと残っている。
バライトの瞳が大きく揺れた。
呼吸が止まる。
その首飾りを、
バライトは知っていた。
「……まさか」
その声は、
誰にも届かないほど小さかった。
バライトの視線は銀色の首飾りから離れない。
胸の鼓動だけが、
大きく脈打っていた。
その瞬間だった。
異獣の巨大な主眼が、
ゆっくりとバライトを捉える。
見つめている。
――いや
見定めている。
黒い喉の奥が、
微かに震えた。
「……ァ……」
「……ゥ……」
次の瞬間。
巨大な巨腕が、
一気に振り下ろされた。
「バライト!」
リプレイトの叫びが響く。
「!」
バライトは我に返り、
反射的に後方へ飛び退く。
次の瞬間、黒い巨腕が地面を叩きつけ、轟音とともに砕けた岩片が四方へ弾け飛ぶ。
「くっ……!」
ジャスは火と土の術式を放ち飛び散る岩塊を迎え撃ち、エフィチも防御術式を展開して降り注ぐ岩片を受け止めた。
プリヴィはリクトを庇いながら探査術式を維持し、リプレイトは崩れた足場を補正しながら何度も攻撃術式を放つ。
しかし、
幾度攻撃を重ねても、
異獣の巨体は、
微動だにしなかった。
「バライト!」
「何を見た!」
リプレイトはすぐにバライトの傍へ駆け寄る。
バライトは小さく首を振り、
深く息を吸い込んだ。
答えない。
いや、
答えられなかった。
異獣の胸元で揺れていた銀色の首飾りが、
脳裏から離れない――
あの意匠を、見間違えるはずがなかった。
異獣はその隙を逃さなかった。
巨大な脚が岩盤を踏み砕き、洞穴全体が激しく揺れる。
頭上から無数の石片が降り注いだ。
「散開!」
バライトの声が響く。
六人は一斉に動く。
ジャスは右へ駆けながら火と土の術式を重ね、赤褐色の術式光が岩壁を駆け抜けて異獣の前脚へ激突した。
鈍い衝撃が響く。
だが、
巨体は微動だにしない。
「硬い……!」
エフィチは正面へ踏み込み、防御術式を展開して巨大な衝撃を受け止める。
両足は岩肌を削りながら大きく後方へ滑った。
「ぐっ……!」
「バライト!」
「左へ寄せる!」
リプレイトは崩れた足場へ徽環を向けながら叫ぶ。
二人の無属性徽環が同時に輝き、崩れかけた岩場がわずかに安定した。
その瞬間、
異獣が再び身体を捻る。
胸元の甲殻が僅かに開き、
銀色の首飾りが光を受けてゆっくりと揺れた。
バライトの呼吸が止まる。
異獣の主眼が、
ゆっくりと細められた。
次の瞬間。
巨大な前脚が石柱を粉砕し、一直線に振り下ろされた。
「来る!」
ジャスが叫ぶと同時に土の防壁術式を展開し、
エフィチも一歩踏み込んで防御術式を重ねる。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃が響き、
防壁全体へ無数の亀裂が走った。
「ジャス!」
バライトが我に返る。
「今だ!」
ジャスは右手を突き出した。
赤褐色の術式光が掌から一気に迸り、火と土の能脈が初めて一つの流れとなって重なる。
轟音とともに術式は異獣の肩口へ直撃し、爆炎が黒い甲殻を包み込んだ。
しかし、
異獣は一歩も退かない。
「そんな……」
プリヴィの声が震える。
黒煙の向こうで、
巨大な主眼だけがゆっくりと開閉を繰り返し、周囲を囲む複眼は六人を舐めるように素早く見回していた。
そして異獣は、
何事もなかったかのように静かに一歩前へ踏み出した。
ズンズン――
その一歩だけで洞穴全体が震え、頭上の岩盤から細かな石片が次々と崩れ落ちる。
「距離を取れ!」
バライトが叫ぶ。
六人はほぼ同時に後方へ跳んだ。
だが、
異獣は止まらない。
巨大な主眼がゆっくりとリクトを捉える。
「……!」
リクトの身体が強張る。
右目を押さえたまま一歩後ずさり、苦しそうに息を乱した。
「まただ……」
「頭の中に……」
喉の奥から、あの掠れた音が再び響き始める。
「……ァ……」
「……ゥ……」
リクトは思わず耳を塞ぐ。
「や、やめろ……!」
次の瞬間、
異獣の周囲に並ぶ複眼が一斉に開いた。
ぞわり、と空気そのものが震える。
「探査が……!」
プリヴィが思わず息を呑む。
「乱される……!」
術式光が大きく揺らぎ、
探査範囲が一気に崩れていく。
「全員、目を逸らすな!」
「位置を見失うぞ!」
バライトは支点固定術式を一つ解き、半歩前へ出た。
「来るなーー!離れてくれ!」
リクトは右目を押さえたまま呼吸を乱し、
霞む視界の先では巨大な主眼だけがゆっくりと自分を見つめている。
「くっ……」
一歩後ろへ下がろうとする。
「何で……足まで……」
だが、右足は思うように動かなかった。
「リクト!」
プリヴィが振り返る。
異獣の巨腕がゆっくりと持ち上がり、岩壁を擦る鈍い音が環風風穴いっぱいに響き渡る。
「来る!」
ジャスが叫ぶ。
火と土の術式が再び掌へ集まり始める。
だが、
間に合わない。
黒い巨腕が、
今にも振り下ろされようとしていた。
それでも、
リクトはまだ動けない。
リプレイトも思わず一歩踏み出す。
「リクト!!」
次の瞬間だった。
バライトの身体が、先に真っ直ぐ前へ飛び出す。
「バライト!」
リプレイトの叫びが響く。
振り返らない。
迷いも、躊躇もなかった。
リクトの前へ滑り込み、両腕を大きく広げる。
透明な徽環が、これまでで最も強く輝いた。
「固定術式――!」
足元へ幾重もの術式環が重なり、砕けかけていた岩盤ごと一帯を強引に固定する。
直後、巨大な巨腕が真正面から叩きつけられた。
轟ッ――!!
凄まじい衝撃が洞穴全体を揺らす。
透明な術式が一枚、また一枚と砕け散った。
「ぐぁぁぁぁっ!!」
バライトの身体が大きく震え、口元から鮮血が飛び散る。
「バライト!!」
リプレイトが思わず駆け出した。
「バ、バ……バライト……!」
震える声だけが、喉の奥から漏れた。
バライトはリクトを庇うように抱えたまま、ゆっくりと身体を起こす。
血が静かに口元を伝う。
それでも、
彼は小さく微笑んだ。
「血……?」
「うっ!」
リクトはその血に気づき、慌てて地面へ降り立つ。
その勢いで右目に激痛が走り、全身を貫いた。
「……今度は」
「間に合ったな……」
リクトは右目を押さえたまま、涙の滲む瞳でバライトへ這うように近づく。
「バライト……!」
「大丈夫か……!」
震える手で、
バライトの腕を強く掴んだ。
「ありがとう……」
「……うっ!」
その瞬間、
右目に再び激痛が走る。
リクトは苦痛に顔を歪め、
その場へ崩れ落ちた。
「……まだ動ける」
「心配するなーー」
バライトは倒れかけたリクトを右手で支え、そのまま静かに傍へ横たえる。
口元の血を拭い、小さく息を吐いた。
「そんな傷で何言ってる!」
ジャスが思わず叫ぶ。
その声とほぼ同時に、リプレイトも駆け寄ってくる。
バライトは静かに首を振り、ジャスへ視線を向けた。
「ジャス」
「ここから先は、お前が指揮を執れ」
ジャスは息を呑む。
だが迷わず頷く。
「……分かった」
バライトは続いてリプレイトを見る。
「リプレイト」
「俺のことは後でいい」
「今は全員で生きて……」
「学院へ戻れ」
リプレイトは首を横に振る。
「何言ってるんだ」
「置いていくわけないだろ」
その声はわずかに震えていた。
バライトは小さく笑う。
「……そういう意味じゃない」
「……ァ……」
異獣が再びゆっくりと前へ踏み出す。
複眼が一斉に開き、洞穴の空気が大きく揺らいだ。
「全員聞け!」
「戦うな」
「ここから離脱する!」
ジャスは最後の一撃を放つと後方へ退き、皆へ向かって叫んだ。
「了解」
エフィチは迷わず応じる。
「リクトは私が連れていきます!」
プリヴィはリクトの身体を支え、そのまま退路へ回る。
「あ……ありがとう、プリヴィーー」
リクトは右目を押さえながらかすかに礼を返した。
自力ではもう、まともに足を運ぶことすらできなかった。
「リプレイト」
「風穴の道は、お前が一番知ってる」
「バライトを頼む!」
「学院まで皆を導いてくれ」
ジャスは真っ直ぐリプレイトを見据えた。
「……お前は?」
リプレイトは目元の砂埃を拭い、思わず問い返した。
「俺とエフィチで時間を稼ぐ」
「その間に、お前たちは先に行け!」
ジャスはエフィチへ視線を向ける。
「エフィチ!」
「ここは俺と抑えるぞ!」
「ああ」
エフィチは警戒しながら、迷わず頷いた。
プリヴィはリクトの身体を支えながら、すぐにリプレイトの後ろへ回る。
リプレイトもバライトの肩を支え直し、ゆっくりと後退を始めた。
「先に行けーー!!」
「俺たちもすぐ追いつく!」
ジャスの叫びが洞穴へ響く。
リプレイトはその言葉を聞いた瞬間、足を止めて勢いよく振り返った。
「……死ぬな」
「全員で帰る!!」
そう言い残すと、再びバライトの肩を支え、洞穴の奥へ急いで駆けていった。
四人の足音は少しずつ遠ざかっていった。
荒れ狂う環風気流と巨大な異獣の威圧だけが、広大な空洞を支配している。
その場に残ったのは、
ジャスとエフィチだけだった。
「ふぅ……」
ジャスは小さく息を吐く。
「行ったな」
エフィチも異獣を見据えたまま小さく頷いた。
「ああ」
「ここからは俺たちだけだ、エフィチ……」
「そうだな」
エフィチは苦笑を浮かべる。
「お前は相変わらず、お人好しだな」
ジャスも小さく笑った。
「ははっ……」
「!」
「しゃべるときじゃない!避けろーー」
次の瞬間、
巨大な異獣が突如速度を上げ、ジャスたちへ一直線に突進してくる。
重い振動が岩壁を震わせる中、ジャスは胸元の徽環へ手を添え、赤褐色の術式光を静かに掌へ集めていった。
「エフィチ! 来る!」
「防壁を維持しろ!」
「任せろ!」
透明な防御術式が二人の前へ幾重にも重なり、ジャスは小さく息を吸う。
「防壁は維持したまま……」
「火を流し込む……」
防御術式を支える土の能脈へ、火の能脈がゆっくりと重なっていく。
赤褐色の光が防壁の縁を走り、透明だった光壁は少しずつ熱を帯び始めた。
「ジャス……」
「それ……」
エフィチが目を見開く。
「まだ分からない」
「でも……」
「今はこれしかない」
ジャスは異獣だけを見据えたまま静かに答え、続けて詠唱を紡ぐ。
「大地の精霊よ、我が呼び声に応えよ――」
「堅牢なる守りへ炎を巡らせ、護る力を貫く力へと変えよ――」
「土火の呪術――」
「〈焔壁守土〉!!」
赤褐色の術式光が一気に防壁へ流れ込み、轟音とともに防壁全体が灼熱の輝きを放つ。
その直後、異獣の巨腕が真正面から叩きつけられた。
轟ッ――!!
凄まじい衝撃が洞穴を揺らす。
しかし次の瞬間、防壁の表面から灼熱の炎が爆ぜるように噴き上がった。
爆炎は異獣の巨腕を包み込み、激しい熱風が洞穴いっぱいに吹き荒れる。
砕けた岩片は炎へ呑まれ、赤黒い光が視界を埋め尽くした。
「ぐっ……」
ジャスとエフィチは腕で顔を庇い、その向こうを見据え続ける。
やがて爆炎が収まり、立ち込めた黒煙の奥から重い足音が響いた。
ズン……
ズン……
黒煙の向こうで巨大な影が揺れ、焼け焦げた甲殻を晒した異獣が二人を見据えたまま静かに前へ踏み出す。
「……嘘だろ」
ジャスは息を呑む。
焼け焦げた巨腕が再びゆっくりと持ち上がる。
「まだ……」
「倒せないのか……」
エフィチは歯を食いしばった。
「いかん、避けろ!」
ジャスが叫ぶ。
二人は左右へ飛び退く。
次の瞬間、巨腕が岩盤へ叩きつけられた。
轟音が洞穴を揺らし、砕けた岩盤が爆ぜる。
無数の岩塊が二人へ降り注いだ。
「しまっ――!」
ジャスの身体が衝撃波に弾き飛ばされ、そのまま岩壁へ激しく叩きつけられる。
「がっ……!」
「ジャス!」
エフィチは咄嗟に徽環を掲げる。
「土壁守護――!」
地面が大きく隆起し、厚い土壁がジャスの前へ立ち上がった。
直後、降り注いだ岩塊が土壁へ激突し、凄まじい轟音とともに土煙が舞い上がる。
「……間に合え!」
エフィチは歯を食いしばり、防壁を維持したまますぐジャスの元へ駆け寄った。
「ジャス!」
「立てるか!」
ジャスは岩壁へ手をつき、苦しそうに咳き込む。
「ごほっ……!」
口元を押さえた手に赤い血が滲んだ。
「……大丈夫だ」
そう答えながらも、その視線は異獣から離れない。
土煙の奥では巨大な主眼がなお二人を見据え、焼け焦げた甲殻を軋ませながら異獣は歩みを止めなかった。
ズン……
ズン……
一歩ごとに洞穴全体が大きく震える。
ジャスは小さく息を吐いた。
「ヤバい……」
「はぁ……はぁ……」
「倒すことは……考えるな」
「……離脱か」
エフィチもすぐに理解する。
「ここで時間を使えば、全員巻き込まれる」
「俺たちも退く」
ジャスは荒い呼吸のまま、それでも力強く頷いた。
「分かった!」
「行こう!」
エフィチは最後に一度だけ異獣を睨みつける。
ジャスとエフィチは同時に踵を返し、四人が走っていった風穴の奥へ駆け出した。
重い足音がすぐ背後まで迫ってくる。
それでも二人は振り返ることなく、必死に風穴の奥へ走り続けた。
その時だった。
異獣の喉が微かに震える。
「……ァ……助」
「……ォ……」
言葉にならない音だけが、暗い環風風穴の中へ静かに響いていた。
>第68話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
いよいよ物語は、少しずつ核心へ近づいていきます。
皆さんは今回のお話をどう感じましたか?
よければ感想や考察なども、ぜひ聞かせてくださいね!
♪\(^ω^\)




