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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編

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60話 ― 空痕風環――痕跡と風

>第60話では、崩れた構造物の中に残る灰霧と異獣の気配が、

まだ場を締めつけています。


その混乱の只中で、


イランの視界は


“外側”からさらに一段深い層へ踏み込み、

痕跡そのものの脈動を捉え始めます。


術式の逆流の余波、義肢の火花、

そして胸元の六角切面箱が鳴り続ける理由ーー


戦いの形は変わらず続いていますが、

その裏で、


イランの中に眠っていた何かが

静かに目を開けようとする気配が流れ始める回ですw



時刻:3670シヴン年12月25日 AM 09:15

場所:ナイトヴァル・建物の破れ口内部


 青白い光の残滓が、まだ石床の上に薄く揺れていた。


 破れた建物内部には、焦げた金属の匂いと、雷術式が空気を焼いたあとの鋭い臭いが残っている。


 灰色の霧は、完全には晴れていない。


 崩れた壁の向こうでは、モファイクスが炎をまとった巨腕を構え、奥へ続く通路を塞いでいた。


 ヘペニーもまた、雷を指先に残したまま、霧の奥へ何度も視線を走らせている。


 ルキは割れた柱のそばに座り込み、荒い息を整えていた。


 胸元を押さえる指は、まだ震えている。


 ミドはその隣で片膝をつき、左の超合金義肢を押さえていた。


 逆流は止まりかけている。


 それでも、関節の隙間では青白い火花が小さく跳ねていた。


「動くな」


 キリム教授が低く告げる。


「外部中枢との連結は落ちた。だが、体内に残った衝撃はまだ消えていない」


「……分かってるよ」


 ミドは苦笑しようとして、すぐに顔をしかめた。


「さすがに、今すぐ走れって言われても無理だ」


 その声を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。


 生きている。


 ルキも、ミドも。


 けれど、その実感が胸に届く前に、指先の震えが戻ってきた。


 俺は自分の手を見下ろす。


 さっきまで、そこには小さな風環が浮かんでいた。


 青白く透き通った、掌ほどの輪。


 それが何だったのか。


 どうやって動かしたのか。


 俺には、まだ何も分かっていない。


 ただ一つだけ覚えている。


 見えていた線を、切った。


 中ではなく、外側を。


 それだけだった。


 胸元の六角切面箱が、まだ熱を持っている。


カチ


 小さな音がした。


 俺は思わず胸元に手を当てた。


「……またか」


 箱の奥で、風が低く鳴っている。


 眠っていた何かが、不機嫌そうに身じろぎしているみたいだった。


 その時、灰霧の奥で、濡れた足音がした。


 ヘペニーが即座に顔を上げる。


「来るわよ」


 モファイクスの炎が、低く唸るように揺れた。


 霧の向こうで、大型異獣が爪を立てる。


 それは、先ほどまで通路に現れていた継ぎ接ぎの異獣とは明らかに違っていた。


 背丈は崩れた柱よりも高い。


 肩から背にかけて、厚い骨板のようなものが何枚も重なり、その隙間から黒い霧が脈打つように漏れている。


 腕は太く、爪は壁を削るほど長い。


 動きは鈍い。


 けれど、一歩ごとの圧が重すぎた。


「ガグググーールル……!」


 潰れた喉を引きずるような咆哮が、建物内部に響く。


 モファイクスが炎をまとった巨腕で、その巨体を正面から押さえ込んだ。


 石床が軋み、壁の亀裂から粉塵が落ちる。


 押し返している。


 けれど、倒しきれてはいない。


 大型異獣の腹の下。


 黒い霧が溜まった影の中で、別のものが動いた。


 一頭


 二頭


 三頭、


 小型の異獣が、大型異獣の足元から弾かれるように飛び出した。


 大型異獣のような重さはない。


 厚い骨板も、壁を削るほどの爪もない。


 代わりに、体は低く、細長く、床を這うように速かった。


 前脚の片方は節肢のように長く、もう片方は獣の腕のように短い。


 背中には、違う生き物の肋骨が無理やり差し込まれ、その隙間から黒い霧が細く漏れている。


 眼球は三つ。


 口器は二つ。


 大型異獣が力で押し潰すためのものだとすれば、こいつらは隙間を抜けて噛みつくために作られたものだった。


 一頭はモファイクスの炎に弾かれ、石壁へ叩きつけられる。


 もう一頭はヘペニーの雷に足を焼かれ、灰霧の中で転がった。


 だが、最後の一頭だけが止まらなかった。


 炎の腕と雷の隙間を低く滑り抜け、ルキとミドの方へ一直線に向きを変える。


 キリム教授は、まだ二人から手を離せない。


 モファイクスは大型異獣を押さえている。


 ヘペニーも、残る小型異獣を雷で牽制していた。


 そのうち一頭だけが、こちらへ抜けてきた。


 俺は息を呑んだ。


 逃げれば、ルキとミドがやられる。


 下がれば、教授ごと押し潰される。


 胸の箱が、もう一度鳴った。


カチ


 胸の奥で、何かが噛み合う音がした。


 次の瞬間、視界の端で小さな青白い輪が揺れた。


 さっきの風環だった。


 まだ消えていない。


 掌ほどの薄い環が、俺の手の前に頼りなく浮かんでいる。


「イラン!」


 キリム教授の声が背後から届いた。


「無理に広げるな。さっきと同じだ」


「同じ……?」


「見えているものだけを追え!」


 教授はルキとミドの術式流を抑えたまま、こちらを見ずに言った。


「力で押すな。全部を斬ろうとするな。お前が見ている痕だけを狙え」


 痕


 その言葉を聞いた瞬間、抜けてきた小型異獣の姿が少しだけ違って見えた。


 骨と肉の継ぎ目。


 濡れた膜と眼球の境界。


 節肢と脊骨が無理やり繋がれている場所。


 黒い霧で縫い止められた裂け目。


 そこに、線があった。


 さっきルキとミドを縛っていた外部中枢の線とは違う。


 もっと汚く、もっと粗い。


 何かを正しく繋ぐための線ではない。


 壊れたものを、無理やり動かすために縛りつけた痕だった。


 小型異獣が石床を蹴る。


「ガグググーールル……!」


 喉の奥を擦り潰すようないやな叫びが、灰霧の中で低く響く。


 三つの眼球が別々の方向に動いた。


 一つがルキを見た。


 一つがミドを見た。


 そして、


 最後の一つが、俺を見た。


 背中に冷たいものが走る。


 足が動かない……


 (それでも、下がるわけにはいかなかった!)


 今、下がれば、また誰かが俺の前で傷つく。


 また、俺は見ているだけになる。


「……嫌だ」


 声が漏れた。


 自分でも驚くくらい、かすれていた。


「もう、奪わせない!」


 胸元の六角切面箱が熱を帯びる。


 手の前に浮かんだ風環が、かすかに震えた。


 怖い。


 さっき外部の線を切れたのだって、偶然だったのかもしれない。


 次もできる保証なんて、どこにもない。


 けれど、異獣は待ってくれない。


「イラン!」


 ミドの声がした。


 地面に片膝をついたまま、義肢を押さえている。


 顔色は悪い。


 左の超合金義肢には、まだ青白い火花が残っていた。


 それでも、彼は笑おうとしていた。


「ぼさっとすんな……そいつ、来るぞ……!」


「分かってる!」


 俺は叫んだ。


 でも、手が震える。


 空痕風環も、その震えに合わせるように、かすかに傾いた。


「イラン!」


 キリム教授が叫ぶ。


「痕だけを追え! 形に惑わされるな!」


 形に惑わされるな、そう言っても……


(いや、待って……)


 俺は小型異獣をもう一度見た。


 全身が歪んでいる。


 どこが頭で、どこが胴なのかも分かりづらい。


 骨


 肉


 黒い霧


 眼球


 節肢


 全部が絡み合っているように見える。


 でも、その中で一つだけ、他よりも強く歪んでいる痕があった。


 胸から肩へ、


 肩から首へ。


 違う生き物の骨格を繋いでいる、黒い縫い目。


 そこだけが、他の部分よりも不自然に脈打っている。


「そこ……か」


 俺は息を止め、右手を前へ出した。


 指先に集めた風が薄い輪を描き、空痕風環の形を取る。


 狙いを、その不自然な一点へ合わせる。


 次の瞬間、俺はそれを放った。


 掌を離れた空痕風環が、小型異獣へ向かって走る。


 けれど、すぐに軌道が歪んだ。


「っ……!」


 青白い輪は異獣の首筋を狙うはずが、少し外れて、横の崩れた壁へ向かった。


「まずい!」


 俺は指先を強く引いた。


 風環が急に曲がる。


 その反動で、手首に裂けるような痛みが走った。


 壁の一部が薄く削れ、石片が散る。


 外した。


 小型異獣は止まらない。


「ガグググーールル……!」


 濁った叫びを漏らしながら、ルキたちへさらに近づいてくる。


 ルキもミドも、まだ動けない。


 キリム教授は、補助術式を解けない。


 ヘペニーもモファイクスも、間に合わない。


(やるしかないーー)


 喉の奥が熱くなる。


(今度……俺が守り抜く!)


 俺は歯を食いしばった。


「そこじゃない」


 自分に言い聞かせるように呟く。


「全部じゃない」


 輪郭ではない。


 動きでもない。


 その内側で、何を無理やり繋ぎ止めているのか。


 それだけを見ろ。


 黒い縫い目が、また脈打った。


 胸から肩へ走る痕。


 まるで間違った答えみたいに、そこだけが浮かび上がる。


「そこだけ……」


 空痕風環が、もう一度静かに浮き直る。


 俺は震える手を前へ押し出した。


「そこだけ、切れろ!」


 青白い輪が走った。


 今度は、大きく光らなかった。


 音もほとんどない。


 ただ薄い風の刃が、小型異獣に刻まれた黒い痕へ水平に滑り込む。


 ピシ、と。


 乾いた音がした。


 異獣の動きが止まる。


 次の瞬間、肩から首にかけての黒い縫い目が裂けた。


 そこから崩れ落ちたのは、黒い霧と、無理に繋がれていた骨の残骸だった。


 血ではなかった。


 肉でもなかった。


 異獣の体が、内部からばらける。


 前脚が別方向へ崩れ、首の片側が支えを失い、三つの眼球が一斉に違う方向を向いた。


 それは斬られたというより、繋ぎ止めていた理由を失ったように崩れていった。


「ガグググーールル……!」


 潰れた喉から絞り出されるような叫びが、灰霧の中へ吸い込まれていく。


 小型異獣は石床へ倒れた。


 黒い霧が、ほどけた糸のように散っていく。


「……切った」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 けれど、安心できる状況ではなかった。


 灰霧の奥では、まだ大型異獣が動いている。


 ヘペニーが振り向く。


「今の……何?」


 雷を放つ手を止めないまま、彼女の目だけが俺の方を見ていた。


 キリム教授も、ルキとミドの術式流を押さえながら、俺の前に浮かぶ空痕風環を見つめていた。


「空間を削ったのか……いや、違う」


 教授の声が低く落ちる。


「あれは、痕跡そのものを切っている」


 俺は答えられなかった。


 息が荒い。


 腕が熱い。


 胸の箱が、まだ内側から鳴っている。


カチ

カチ

カチッ


 さっきよりも、はっきりと。


 まるで、眠っていた何かが、不機嫌そうに扉を叩いているみたいだった。


「……イラン」


 横から、かすれた声がした。


 ミドだった。


 彼は左の義肢を押さえたまま、ゆっくりと俺の方へ顔を向ける。


 まだ顔色は悪い。


 額には冷たい汗が浮かんでいる。


 それでも、口元だけはいつものように少し上がっていた。


「やったな……!」


 ミドは荒い息の中で、無理やり笑った。


「よくやったな、イラン!」


「……お前、そういう時だけ元気だな」


 俺は息を切らしながら返した。


 声はまだ震えていた。


 けれど、ミドがそう言っただけで、張りつめていた胸の奥が少しだけ緩む。


 生きているーー


 まだ、軽口を叩ける。


 それだけで、今は十分だった。


 ミドは義肢の関節を押さえながら、短く笑う。


「次の祭りで、またクロワッサン奢ってやるよ! イラン」


「……それなら俺は」


 そこまで言いかけて、俺は頭をかいた。


 本当は、ただ笑って返すつもりだった。


 『どういたしまして』


 そう言えばよかった。


 けれど、ミドの口から出た「祭り」という言葉が、胸の奥で別の記憶を揺らした。


 星織・雨


 その名前が、ふいに浮かぶ。


 祭りの灯り。


 人の声。


 並んだ屋台。


 どこかで甘い匂いがして、誰かが笑っていた。


 手を伸ばせば届きそうだったのに。


 気づいた時には、もう遠くなっていた背中。


 (星織・雨……)


 まだ、何も終わっていない。


 俺はあの子を見つけなければならない。


 この場所で立ち止まっている場合じゃない。


 ルキを助ける。


 ミドを助ける。


 この奥にあるものを止める。


 そして、必ず。


 必ず、


 星織・雨を見つける。


 俺はゆっくりと息を吸った。


 震えていた指先を握りしめる。


「……その時は」


 俺はミドに向かって、少しだけ笑った。


「二個な」


 ミドが一瞬だけ目を丸くする。


 それから、痛みに顔をしかめながらも、吹き出すように笑った。


「はあぅ~……欲張りだな」


「奢るって言ったのはお前だろ」


「言った。言ったけどよ……」


 ミドは左の義肢を見下ろし、苦笑する。


「その前に、こいつをまともに動くようにしないとな」


 キリム教授が、二人の術式流を押さえたまま低く言った。


「軽口を叩けるなら、意識は戻っているな」


「教授、それ確認の仕方が雑じゃない?」


 ヘペニーが雷を構えたまま横目で言う。


「雑でも、生きている証拠だ」


 キリム教授は短く返す。


 その間にも、灰霧の奥では大型異獣がまだ動いていた。


 モファイクスの炎が、何度も押し返される。


 石床が軋むたび、破れた建物の天井から細かな粉塵が落ちた。


「ガグググーールル……!」


 大型異獣の咆哮が、ナイトヴァルの奥から響く。


 さっき切った小型異獣の黒い霧は、まだ床の上でほどけ続けていた。


 けれど、奥の気配は消えていない。


 むしろ、こちらを認識したように重く濃くなっている。


 俺の胸元で、六角切面箱がもう一度鳴った。


カチッ


 今度は、はっきりと蓋の奥から叩かれたような音だった。


「……今の、何?」


 ルキが苦しそうに顔を上げる。


 俺は視線を胸元に降ろし、小さな箱を押さえた。


「分からない」


 けれど、さっきからずっと感じている。


 箱の奥にいる何かが、目を覚まそうとしている。


 その何かは、俺の中で眠っていた風と繋がっている。


 そしてたぶん、今の俺の乱暴な使い方に、かなり怒っている。


 青白い風が、箱の隙間から細く漏れた。


 俺の前に浮かんでいた空痕風環が、ふっと揺れる。


 その輪の中心を、小さな風の渦が通り抜けた。


 キリム教授の目が細くなる。


「イラン、下がれ」


「え?」


「それは、もう術式反応だけではない」


 教授の声が低くなる。


「何かが、出てくる」


 その言葉が終わるより早く、六角切面箱の表面に細い光の裂け目が走った。


 青白い風が渦を巻く。


 俺は反射的に一歩下がった。


 空痕風環が砕けるようにほどけ、その風だけが俺の胸元へ集まっていく。


カチ

カチ

カチッ


「……まったく」


 聞き覚えのない声がした。


 小さい。


 けれど、妙に古い響きを持った声だった。


「人が眠っておれば、寝床ごと叩き起こしおって」


 青白い風が、俺の目の前で形を作り始めた。

>ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


ここは、イランの力が

偶然ではなく 意図として動き始めた瞬間 を描きました。


空痕風環は、ただ現れる風ではなく、


“痕跡そのものを切る” という働きを見せ始めています。


そして、六角切面箱の反応も、

術式の乱れではなく、


もっと別の何かーー


イランの内側に眠っていた存在が

この場でより強く姿を現し始めていることを示しています。


戦いはまだ続きますが、


この回は「力の正体」ではなく

力が目覚める前の呼吸 を描くための一話です。


次の話では、その存在が何をもたらすのか、

さらに深い層で輪郭が見えていきます。


どうか、続きも見届けてくださいね~~


(^∇^)ノ♪


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