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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
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第48話 ― 灰霧の雪崩――届かなかった制止

>古の守護神モファイクスが顕現し、圧倒的な火風の力で大型異獣を押し返す。


しかし異獣は退かず、壊れるたびに別の残骸を継ぎ足し、なお戦う形へと変質していく。


その背後から灰霧に乗った群れが雪崩のように押し寄せ、戦場は一瞬にして混乱の渦へ――



時刻:3670シヴン年12月25日 午前8時45分

場所:ナイトヴァル・建物の破れ口内部


 炎は、ただ燃えているのではなかった。


 それは空間そのものを書き換えるように、そこに在った。


 ここはもう、ただの崩れかけた建物の内部じゃない。ナイトヴァルの曲能鉱精製装置が組み込まれた、天井の高い魔導施設の中枢部だった。砕けた導床を走る熱も、頭上を這う導管に絡みつく白煙も、壁面に埋め込まれた魔導装置の残光さえ、すべてが一つの秩序に従っているように見えた。荒れ狂っていたはずの熱が、あの存在のまわりだけは異様なほど整っている。暴威ではない。支配だった。


 面甲の奥で灯る深紅の双眸は、こちらを見ているのか、それとも目の前の異獣だけを捉えているのか分からない。だが、その視線が向けられた瞬間、胸の奥にまで熱が差し込んでくるような圧迫感が走った。息を吸うたび肺の奥が焼ける。なのに、不思議と恐怖だけではなかった。


 畏れだった。


 キリム教授から聞かされていた、古の守護神。火と風の境に座し、乱れた焔を律し、崩れた秩序を焼き直す存在。


 それが今、俺たちの目の前に顕現している。


 モファイクスの上半身を覆う火殻は、まるで太古の神殿から切り出した甲冑のようだった。熔けた金属にも、焼き固められた鉱石にも見えるその表層には、幾筋もの古い火紋が明滅し、脈を打つたびに暗紅から金白へと色を変える。その周囲では、古い封印を思わせる鎖が幾重にも交差し、赤く発光する符文を帯びながらゆるやかに巡っていた。さらに、その外縁を淡い緑を含んだ風流が螺旋を描いて駆け抜け、鎖と火をまとめて一つの輪の中へ閉じ込めている。


 胸の中央では、銀白を核に、淡い緑の風脈と火紅の焔流が絡み合う明るい核心が脈打っていた。その光だけが異様なほど静かで、逆に目を離せなかった。


 静かすぎるのだ。


 目の前にいるのは、あれほどの熱を宿しながら、咆哮ひとつ上げない。


 怒りに任せて噴き上がる炎ではない。すでに完成された王の火だった。


 しかも両の掌には、火紅を主としながら淡い緑の風流を内に巻き込んだ高密度の力が渦を巻いていた。あれはただの火球じゃない。圧縮され、律され、解き放たれる寸前の火風そのものだった。


 その身を支えているのも、ただの炎ではなかった。モファイクスの足もとには、火と風をまとった細長い異形の獣が長くうねり、その背を王の座のように静かに差し出している。龍にも蛇にも見えるのに、そのどちらとも違う。古い伝承の断片だけが形を得たみたいな、名のない火風の器だった。


 その場にいるだけで分かる。この存在は、燃やすために熱を持つのではない。従わせるために、熱を持つのだと。


 (うそ……これが、モファイクス……?)


 喉がひどく乾いていた。熱に焼かれているはずなのに、背筋には薄く冷たいものが走っている。怖いのか、圧倒されているのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ一つだけ分かっていた。今、俺たちの目の前にあるのは、学院で学んできた術式の延長なんかじゃない。もっと古く、もっと大きく、簡単に人が触れていいものではない力だった。


 息を呑んだまま固まっていたのは、俺だけじゃない。隣のミドは目を見開いたまま言葉を失い、さっきまで必死に火を維持していた右手さえ、今はわずかに下がったままだった。


 ルキもまた、信じられないものを見るようにその姿を見つめていた。あれほど張りつめていた表情の奥に、わずかな驚きがはっきりと浮かんでいる。


 破れ口のそばに立つヘペニーでさえ、杖を握る手に力を込めたまま、無言でその姿を見上げていた。冷静さを崩してはいない。けれど、その目の奥には、ただ事ではないものを前にした緊張と驚愕がはっきりと宿っていた。


 けれど、俺たちが本当に目を奪われていたのは、モファイクスだけじゃない。


 その古の守護神を、この場へ呼び下ろしたキリム教授――その人自身だった。


 禁術講義の教壇に立ち、石板や封印資料を前に淡々と語っていたあの教授が、今は崩れかけた精製施設の中心で、古の守護神を現実に呼び下ろしている。


 まるで、授業の中で聞かされていた遠い記録や失われた伝承が、そのまま現実の姿を取って俺たちの前に降りてきたみたいだった。


 「ガガガーーグルルーーーーガガッ!!」


 その声は、咆哮というよりも、喉の奥にいくつもの異なる器官を無理やり押し込まれたものが、耐えきれず軋んだような濁音だった。


 外壁の破れ口に巨体をねじ込むように侵入していた大型異獣が、そこでびくりと痙攣した。胸に裂けた血口の奥で蠢いていた触手が一斉に縮み上がり、粘ついた緑の体液が糸を引きながら揺れる。棘の輪は乱れた歯車みたいにがちがちと不規則に噛み合い、その全身に継ぎ合わされた器官や骨節が、ひとつひとつ不快な脈動を返していた。


 後ずさろうとしている。


 そう思った次の瞬間、あの巨体は逆に前肢を導床へ叩きつけた。砕片が跳ね、濡れた黒膜の下で複数の骨節が不自然に盛り上がる。逃げたいはずなのに、退けない。いや、退いてはいけないと何かに命じられているみたいだった。


 胸の裂口が大きく開いた。


 どろり、と内側の触手が何本もせり出し、粘液を撒き散らしながら空中でのたうつ。裂口のさらに奥では、密集した短い棘が濡れた歯のように何重にも噛み合い、口とも肺ともつかない深部から漏れ出した灰白の湿気が、熱に焼かれてじゅっと音を立てた。


 「……っ」


 ミドが息を呑む。


 だが、モファイクスは慌てて踏み込もうとはしなかった。細長い異形の獣にその身を預けたまま、両手に火風の力を蓄え、深紅の双眸で異獣を見下ろしているだけだった。


 その静けさが、かえって異様だった。


 大型異獣はなおも喉を軋ませた。


 「ガ、ガガ……ギィィ……ッ!!」


 さっきまでの威圧的な衝突音とは違う。今そこにあったのは、怯えと混乱と、それでもなお抗おうとする歪んだ本能の悲鳴だった。


 次の瞬間、異獣の全身を覆う黒い膜質がぶるりと波打った。肩、胸、前肢、背の隆起――あちこちに浮かぶ暗色の紋様がいっせいに脈打ち、無理やり継ぎ合わされた器官の隙間からは複眼めいた光や魚鰭のような残片までぬらりと覗く。

まるで体内で何か別のものが無理やり目を覚まし始めたみたいに、全身がさらに醜く膨れ上がっていく。


 まだ、変わるつもりだ。


 いや、あれは――


 モファイクスを前にしてなお、自分をより戦う形へと押し固めようとしている。


 キリム教授の目が、わずかに細まった。


 「あれ以上、形を与えるな――」


 低く落とされたその声は、命令というより、すでに起きかけている何かへ楔を打ち込むような響きだった。


 次の瞬間、モファイクスの周囲を巡っていた交差の鎖が、かすかに角度を変えた。


 赤く灯っていた古代符文がひとつ、またひとつと強く脈打つ。そこへ淡い緑の風流が絡みつき、火の輪郭を削るように走った。鎖はただ回っていたんじゃない。あれは、熱を閉じ込め、風を整え、顕現した神性そのものをこの場へ固定するための構造だったのだ。


 大型異獣の全身が、ぐん、と不自然に膨らんだ。


 肩の骨節がさらに盛り上がり、背の隆起が裂け、その隙間から濡れた魚鰭めいた膜がぬらりと覗く。脇腹の黒膜の下では、複眼のようなものが一瞬だけいくつも浮かび、すぐまた肉の奥へ沈んだ。胸の血口では触手がもつれ合い、押し合い、何か別の器官を無理やり押し出そうとしているみたいに激しく蠢いている。


 「っ、まだ膨らむのかよ……!」


 ミドが息を詰めたまま声を漏らした。


 ルキは何も言わなかった。ただ、杖を握る指先に力が入り、その視線は異獣の中心――胸の裂口から一瞬も逸れない。


 ヘペニーも破れ口の脇で身を低くしながら、外縁に広がる灰霧の流れと、異獣の変質を同時に追っていた。今ここで一歩でも崩れれば、次に何が流れ込んでくるか分からない。そんな緊張が、その横顔にははっきり浮かんでいた。


 俺は喉の奥に張りつく熱を呑み込みながら、目の前の光景から目を離せなかった。


 変異が進んでいる。


 けれど、それ以上に異様だったのは、モファイクスがなおも動じていないことだった。


 細長い異形の獣が、その足もとで静かに身をくねらせる。炎と風で編まれたような長い体躯が、導床の上を滑るでもなく、宙を泳ぐようにうねった。その動きに合わせて、モファイクスの両掌に集められた火風の力が、さらにひと回り濃くなる。


 火紅を主とした灼ける光の内側に、銀白の芯が覗き、その周囲を淡い緑の風脈が幾重にも巻きついていた。


 圧縮されている。


 そうとしか思えなかった。掌の中にあるのは光の塊なんかじゃない。暴れ狂うはずの火と風を、ありえない密度で押し込めた、ひとつの災厄そのものだった。


 大型異獣が、喉の奥をひしゃげさせるような音を立てた。


 「グ、ガァァァァッ――!!」


 その咆哮に合わせて、胸の血口が限界まで開く。


 どろりとした触手の束が一斉に前へ突き出され、粘液を撒き散らしながら槍のように伸びた。先端には細かな棘がびっしりと生え、熱に焼かれるそばからさらに別の触手がその後ろを押し出してくる。まるで一度に何十もの口が飢えたまま飛びかかってくるみたいだった。


 「来るぞ!」


 ヘペニーの鋭い声が飛ぶ。


 だが、それより先に動いたのはモファイクスだった。


 動いた、というより――


 ただ一度、右の掌をわずかに開いただけだった。


 それだけで、周囲の空気が裂けた。


 掌中で圧縮されていた火風の核が、解き放たれた瞬間もなお崩れず、一本の奔流としてまっすぐ前へ走る。赤い焔を骨に、淡い緑の風を刃に、銀白の芯を貫きにしたその一撃は、放たれたというより空間ごと押し切るように異獣へ叩きつけられた。


 轟音は、一拍遅れて来た。


 胸の裂口から伸びた触手の群れが、接触した瞬間に根元から捻じ切れる。焼けたのではない。風に裂かれ、火に呑まれ、形そのものを保てなくなって崩れ飛んだ。緑の粘液が蒸発し、棘は赤熱して弾け、裂口の奥から噴き上がった灰白の湿気すら火流の中で消し飛ぶ。


 大型異獣の巨体が、初めて真正面から押し返された。


 「ギ、ァ――ッ!?」


 悲鳴が、もう異獣自身の声なのか、胸の中で潰れた別の器官の断末魔なのか分からないほど歪んだ。


 それでも、倒れない。


 破れ口に食い込んだ前肢が砕けた導床を引っかき、ずるりと後退しながらも、なお踏みとどまる。黒膜の下では、壊れたはずの骨節がまた不気味に蠢き、裂けた箇所を別の組織が塞ごうと盛り上がっていく。


 「再生してるのか……?」


 俺の口から、乾いた声が漏れた。


 キリム教授は短く首を振った。


 「違う。あれは“再生”じゃない。足りない部分を、別の何かで埋めているだけだ」


 その言葉と同時に、異獣の傷口から、また新しい形が覗いた。


 焼き落とされたはずの触手の根もとで、今度は複眼を埋め込まれた細い節足のようなものが何本もせり上がり、その奥では魚の鰭に似た膜がぬるりと開閉している。継ぎ足し、埋め合わせ、無理やり次の戦う形に寄せていく。生き物というより、壊れるたびに別の残骸を押し込まれて動き続ける異形の器だ。


 ぞっとした。


 けれどその瞬間、モファイクスの胸の核心がひときわ強く脈打った。


 銀白、淡緑、火紅。


 三つの色がひとつに融け合い、静かだったはずの核が、今度は明確な意志を持ったみたいに光を増していく。


 そして俺は気づいた。


 これは、まだ一撃目にすぎない。


 ――と、思った、そのときだった。


 大型異獣の背後、外壁の破れ口の向こうで、灰霧が不自然に膨らんだ。


 揺れている、なんてもんじゃない。まるで向こう側に押し寄せていた何かが、堰を切られたみたいに一気に流れ込んでくるような気配だった。


 次の瞬間、その灰のうねりの奥から、大小さまざまな異獣の輪郭がいくつも浮かび上がった。


 四つ足で床を掻くもの。胴だけ異様に長く、壁を這うもの。骨の節を剥き出しにしたまま、半ば跳ねるように迫ってくるもの。どれも形が定まっていない。どれも歪んでいる。なのに、そのすべてがこの破れ口を通って、こちらへ雪崩れ込もうとしていた。


 「っ……!」


 息を呑むより早く、ヘペニー先輩が一歩前に出た。


 杖を鋭く振り抜く。


 「雷よ――!」


 詠唱と同時に、導床の上を白い光が走った。直後、破れ口の上方から雷が落ち、先頭の異獣をまとめて打ち据える。焼け焦げた膜質が弾け、何体かはそのまま床へ叩きつけられた。けれど、数が多すぎる。


 焦げた肉の匂いが広がるその隙間を、次の群れがすぐに埋めてくる。


 ヘペニー先輩は歯を食いしばったまま、もう一度杖を振りかぶった。だが、一人で押し返し切れる量じゃない。雷を落とすたびに足止めはできる。けれど、それだけだ。このままじゃ、押し潰される。


 「ガ……ガ……グルルーー」


 破れ口に食い込んだ大型異獣まで、喉の奥を震わせるように低く唸った。


 目の前の巨体も、後ろから流れ込んでくる群れも、どちらも止まっていない。


 どうする――


 俺がそう考えた、その瞬間だった。


 「ミド! ルキ! 予備攻撃術式を使え! イラン、お前は準備できているか!」


 キリム教授の怒声が、精製施設の内部に叩きつけられる。


 教授はなおもモファイクスを通して大型異獣と対峙しながら、周囲の流れまで正確に見切っていた。異獣の変質も、破れ口の奥から押し寄せる群れも、その全部を把握したうえで指示を飛ばしている。



 「はい、教授!」


 ミドとルキが同時に応じた。


 それぞれが一歩踏み出し、術式の起点を組もうとする。ミドの右手に火が集まり、ルキの足もとには別系統の光が走った。予備攻撃術式――学院で非常時用に叩き込まれた、複数人連結前提の迎撃術式だ。


 だが、その瞬間。


 教授の表情が、目に見えて変わった。


 今まで冷静に全体を捌いていたその顔から、初めてはっきりと余裕が消えた。



 「待て――!」


 その叫びは、ほとんど叩きつけるようだった。


 「連結するな!!」


 声は確かに、二人の耳元まで届いていた。


 届いていたはずなのに――


 次の瞬間、俺の目の前で起きたことは、その警告すら追い越していた。


 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 ただ、あまりにも唐突で、あまりにも想定の外で、


 俺は、その場で完全に動きを失った。

>ここまで読んでくださりありがとうございます。

第48話では、モファイクスの力と異獣の異様な変質、そして灰霧の群れの雪崩が重なり、戦況が一気に緊迫する場面を描きました。


教授の冷静な指揮と仲間たちの迎撃術式が交錯する中、届かなかった「制止」の一言が、次の展開への大きな不穏を示しています。


古の守護神の存在がもたらす畏れと、灰霧の群れが押し寄せる圧力――


その狭間で仲間たちがどう動くのか、物語はさらに激しい局面へと進んでいきます。


次回もぜひ楽しみにしていただければ嬉しいです


(^∇^)ノ♪

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