第45話 ― ナイトヴァル ──灰霧の先に現れた影
>イランたちがキリム教授に導かれ、転送台へ足を踏み入れた瞬間――視界は冷たい青と淡い白の光に包まれました。
足元の感覚が抜け落ち、心臓の鼓動だけが重く響く中、彼らの前に広がったのは、これまで見たことのない構造と空気。
そして、その新しい光景の中で、最初に目に飛び込んできたのは、ただの施設ではなく、異様な静けさと灰霧の気配でした。
時刻:3670シヴン年12月25日 午前7時04分
場所:????・半開放通路
さっきまで、俺たちは自分たちで選んでいるつもりだった。
だが、本当の選択は――裂斗山脈が揺り動かされたあの瞬間に、もうとっくに俺たちの代わりに下されていた。
キリム教授はそれ以上何も言わず、ただ杖を持ち上げて、俺たちに転送台へ上がるよう示した。
地面の符紋が再び幾重にも灯り、冷たい青と淡い白の光流が縁に沿って素早く閉じていく。まるで、あらかじめ用意されていた通路が、今ようやく本当に起動したみたいだった。
ヘペニー先輩が先頭に立ち、その後ろにルキとミドが続く。俺は踏み出した瞬間、反射的に胸元の無知の眼を押さえていた。
次の瞬間、視界は強い光に呑み込まれた。
それは刺すような白じゃない。冷たさを含んだ、青い光だった。
周囲の音は一瞬で遠くへ引き伸ばされ、耳の奥に残ったのは細い唸りと、符紋が流れる震えだけだった。まるで自分の身体ごと、細長く精密な裂け目の中へ押し込まれたような感覚だった。
足元の重みは抜け落ちていくのに、心臓の鼓動だけは逆にはっきりと重くなる。ひとつ打つたびに、その見えない通路の境界へぶつかっているようだった。
その感覚は、長くは続かなかった。
再び足が地面を捉えたとき、靴裏から伝わってきたのは、秘密研究室で慣れたあの石床の温度ではなかった。
光流が素早く収束する。 符紋が一本ずつ消えていく。
俺が目を開けると、いつの間にか俺たちは別の転送台の上に立っていた。
ここは、さっきまでいた秘密研究室では明らかにない。高所に組まれた構造はもっと広く、もっと高い。足元の平台の縁には細かな導流紋が埋め込まれ、周囲は半ば閉ざされた鋼骨と岩壁に囲まれている。
遠くには、淡い光を帯びた輸送脈管が何本か、壁沿いに外へ伸びているのも見えた。空気には、薄く鉱塵と金属、そして熱流が混ざったような匂いが漂っていて、秘密研究室とはまるで違っていた。
ミドは呆けたように左右を見回し、とうとう我慢できなくなったように口を開く。
「教授……ここ、どこなんですか?」
キリム教授は杖を握ったまま、淡々とひと言だけ返した。
「すぐに分かる」
ミドは口を開きかけた。まだ何か訊きたそうだったが、結局そのまま言葉を呑み込んだ。
教授が先に転送台を降りる。
俺たちもすぐ後に続いた。
平台の外縁には、前方へ伸びる金属歩道が続いていた。足元からは、ごく微かな振動が絶えず伝わってくる。まるで建物全体が、何か巨大なエネルギーの流れに合わせて呼吸を続けているみたいだった。
両脇は完全な壁ではなく、高い構造柱と半開放の手すりで通路が区切られている。隙間から冷たい風が吹き込み、夜明け前の湿った冷気を運んできていた。
俺たちはその歩道を抜け、外側のゲートを押し開けた瞬間――視界が一気にひらけた。
冷たい風が正面から吹きつけてくる。潮の湿り気、鉱塵の乾いたざらつき、それに長時間稼働し続けた設備が残した、かすかな熱の気配。
半閉鎖の通路に押さえ込まれていた空気が、一瞬で果てしなく広がる。目の前にあるのは、もう狭い鋼骨や岩壁じゃない。外へ向かって開けた広い高地、平台、導流塔、そして遠く灰青に滲む海と空の輪郭だった。
そして、その景色よりも先に目へ飛び込んできたのは――光だった。
空はもう、完全な夜の色ではなかった。東の地平には、淡い金と灰青が交じる細い明帯がすでに押し開かれている。
薄い朝の光が遠い海面と山体の縁を越え、アシュール環の上層に組まれた鋼骨や平台、晶質導流軌道へ斜めに差し込んでいた。その光は高地一帯を、冷たさとぬくもりの境目みたいな、揺らぐ色合いで照らし出している。
高所に残っていた魔導灯のいくつかは、その朝光の下では夜よりもなお青白く見えた。まるで、本当の昼にようやく追い払われようとしているみたいに。
俺は思わず天の端を見上げ、呼吸をわずかに止めた。
「……もう、朝なのか?」
ミドも今ようやく現実に引き戻されたように、目を見開いて外を見た。
「うそだろ……? さっきまで下にいたのに、そんなに時間が経った感じ、全然しなかったぞ」
風の中に立つルキの銀の髪が、朝風にそっと持ち上がる。彼女は、朝の光に磨かれたような遠景を見つめたまま、低く言った。
「そんなに経ってないんじゃない……この夜が、長すぎたのよ……」
ヘペニー先輩は傍らの手すりに手を添え、まだ少し不安定な息のまま、ぽつりとこぼした。
「……急がないと」
キリム教授は杖を握り、前方に幾重にも広がる高地と構造物の先へ視線を向けたまま、低く告げた。
「この先がナイトヴァルだ」
「えっ? ナ、ナイトヴァル?」
ミドは一瞬きょとんとし、さらに目を大きくする。
教授は足を止めず、そのまま続けた。
「このあと中枢区域を抜け、さらに山道を下る。その先で島体と裂斗山を繋ぐ脊状石橋を渡って、ようやく本当に裂斗山脈へ入る」
そこで一拍置き、教授の目がわずかに沈んだ。
「向こうの状況は、おそらくここ以上に楽ではない。ここから先は、全行程で警戒を保ったまま進むぞ」
「はい、教授」
俺はすぐに答えた。
「ヘペニー、お前の傷はまだ完全には落ち着いていない。道中、イランたちのことを頼む」
「はい、教授」
ヘペニー先輩は多くを言わず、ただ静かに頷いた。
「任せてください、教授!俺とイランとルキで、ちゃんとペイ姉を守りますから!」
ミドは鼻先を軽くこすり、それから左腕を持ち上げた。符紋の光を帯びた超合金の義肢が、朝の光の中で鈍く輝く。
俺とルキのほうを振り向いたその顔には、無理に作った自信がはっきり浮かんでいた。
「うん。先輩に迷惑はかけないよ」
俺は少し引きつった笑みを返すのがやっとだった。
「ミド、まずは落ち着いて……」
ルキは小さく息をつき、少し呆れを含んだ声で言った。
そうして、気が緩むほどではないけれど、完全に息が詰まるほどでもない、そんな空気のまま――俺たちはキリム教授に先導され、外側通路を慎重に進んでいった。
足元の平台には依然として微かな振動が残っている。冷たい風は、半開放の構造の隙間から絶えず吹き込み、潮の匂いと鉱塵、そしてかすかな熱流の匂いを運んで、俺たちの裾をかすめていった。
誰ももう軽々しく口を開かなかった。ただ靴底が金属歩道や石面を踏むたびに生まれる細かな音だけが、朝のまだ定まりきらない空気の中を低く反響していた。
やがて俺たちは、大きな岩壁をひとつ回り込む。
その瞬間、視界が一気にひらけた。
そしてそのとき、俺たちはようやく、本当の意味で目の前の全域を見渡した。
そこに広がっていたのは、ただの工房群じゃない。
アシュール環の中枢区域――ナイトヴァルだった。
「ナイトヴァル……」
学院の最上部から見下ろしても、その全貌だけはどうしても掴めなかった場所。外縁部にある、輸送、転送、鍛造、整備を主とする工房群とは違う。
ナイトヴァルはむしろ、工学と禁術の境界に築かれた巨大な精製中枢のようだった。全域は環状の主構造を骨格として広がり、中央から四方へ何層にも展開している。
無数の導流塔柱、封閉式精錬槽、懸空管脈、そして半透明の結晶槽が複雑に交差し合い、精密でありながら壮観でもある、異質な空間を形作っていた。
高所には、剥き出しの煙突や鍛冶設備はそれほど多くない。代わりに目を引くのは、主環に沿って上昇していく幾重もの晶質導流軌と、地層の深部へ垂直に突き刺さる巨大な精錬柱だ。
それらの柱体は純粋な金属ではなく、金属と灰白の石材、そして半透明の晶層が一体となって構成されている。内部では赤橙と幽かな青が交錯する光流が、ゆっくりと昇降していた。
まるで、高密度の生命の脈動そのものが、無理やりそこへ拘束されているかのように。
ナイトヴァルの光も、普通の工房とはまるで違っていた。
ここには、人の手で点された明るい照明はほとんどない。本当に区域全体を照らしているのは、精錬柱、輸送脈管、晶質槽体の内部を絶えず流れ続ける曲能光流だった。
それは時に凝縮し、時に枝分かれし、液体のようでもあり、雷火のようでもある。半透明の結晶壁の向こうで幾重もの微光を投げかけ、この中枢区域一帯を、冷たさの奥に熱を孕み、静けさの底に危うさを沈めたような奇妙な色に染めていた。
空気の匂いも、一般的な工房にある重い機油や焼けた金属、鍛冶場の熱気とは違う。
代わりに漂っているのは、鉱塵と塩気、そして薄い灼熱感を帯びた特殊な匂いだった。まるで深海の冷たさと地底の火を同時に精製し、そのままこの空間へ封じ込めてしまったような匂いだった。
息を吸うたび、どこまでも遠く、なのに妙に近い場所で、何か高密度のエネルギーが絶えず回り続けている気配がした。
俺も最初は、その光景に圧倒されていた。
けれど次の瞬間、違和感がはっきりと浮かび上がってくる。
静かすぎる。
ナイトヴァルは、本来こんな音しかしない場所じゃない。ここにはもっと密な導流の低鳴りがあるはずだ。
精錬柱の内部で響く共振音も、輸送脈管が互いの位相を合わせるときの細かな振動音も、さらにその奥には、中枢そのものの鼓動みたいに続く、もっと深くて安定した脈動があるはずだった。
なのに今、その区域全体を満たしているべき運転音は、何かに大きく抉り取られたみたいに欠けていた。
高所ではまだ光流が動いている。 精錬柱も光を保っている。 導流管路の一部も、最低限の稼働だけは続けている。
だが、ナイトヴァルを支える本当の主拍は、すでに乱れていた。
空気の中に残る低鳴りは安定せず、途切れ途切れで、ある瞬間には聞こえ、次の瞬間には消える。巨大で精密な心臓が、どうにか動き続けようとしているのに、もう力を均等に全域へ送り出せなくなっている――そんなふうに思えた。
足元に伝わる微かな震えも、さっきまでの安定した律動ではない。均衡を押し殺したまま残っている余波に近かった。
さらに目を凝らせば、遠方の精錬柱のいくつかには、すでに明らかな亀裂が走っていた。本来なら柱体を巡りながら上昇していくはずの晶質導流軌も、数か所が無残に歪み、巨大な外力で途中からねじり裂かれたようになっている。
半ば宙に突き出した転接平台も一部が下へ落ち込み、手すりは傾き、砕けた石材と金属片が縁に散らばっていた。
さらに奥では、輸送脈管そのものが一帯ごと引き裂かれている場所まである。本来なら閉じているはずの導流構造は破れ、淡い光流が明滅を繰り返し、最後には裂け目の奥で不安げに痙攣するように揺れていた。
そこから吹いてくる風には、かすかな焦げ臭さと鉱塵の匂いが混じっていた。
俺が口を開きかけた、そのときだった。
前を歩いていたルキが、ふいに足を止めた。
肩がわずかに強張る。まるで目に見えない何かに触れられたみたいに。
銀色の髪が朝風に揺れる中、さっきまでどうにか保たれていた平静の表情に、言葉にしづらい緊張が差し込む。
彼女はある一点をじっと見つめ、その視線を徐々に固めていった。
「……待って」
俺たちは全員、反射的に足を止めた。
ルキは一歩前へ出る。眉間の皺は深まり、声もさらに低く沈んだ。
「向こうの、あの灰色の霧……あれ、何?」
俺は彼女の視線を追った。
半壊した精錬柱と外環平台のあいだ。本来ならはっきり見えるはずの空間に、いつの間にか灰色の霧が立ちのぼっていた。
朝の自然な霧じゃない。
色が濁りすぎている。 重すぎる。
普通の霧のように風に流されていくのではなく、むしろ崩れた区画のどこかからじわじわと滲み出しているようだった。一筋ずつ、一縷ずつ、地面や平台の縁を這い、破損した鋼骨や岩壁に沿って、外へ広がっていく。
その動きは遅い。なのに、妙に粘りつくような気配があった。
まるで、空気の中にあってはいけないものが混ざっているみたいに。
ミドは目を見開き、さっきまで残っていた驚嘆を一瞬で消した声で言った。
「教授……ここって、もともとあんな気体が出る場所なんですか?」
キリム教授は一目見た瞬間、表情を完全に沈ませた。
「違う」
そのひと言が落ちた瞬間、空気までさらに冷え込んだ気がした。
教授は杖を握り直し、その灰霧を見据える。
「全員注意しろ!距離を保ったまま、ゆっくり下る!」
「散開するな。崩落区画にはむやみに近づくな!」
ヘペニー先輩はすぐに一歩前へ出て、俺たちより少し前の位置に立ち、右手で魔杖を握り直した。
「ミド、内側に入って。イラン、あなたは岩壁側を向いて、上を警戒して。ルキ、あなたは私の横。一つでも異変があったら、すぐ支援して」
「はい、ぺい姉」
「分かりました」
ヘペニー先輩はほとんど迷いもなく立ち位置を割り振った。その素早く無駄のない判断は、その場しのぎのものじゃない。普段からグモ教授のもとで行動し、訓練を積んできたからこそ染みついた本能なのだと、すぐに分かった。
まだ傷を抱えているはずなのに、その声には少しの乱れもない。まるで、彼女が引いた陣形の中へさえ入っていれば、周囲で膨らみ続ける不安もまだ押さえ込める――そう思わせるだけのものがあった。
ただ、それでも。
指示を言い切ったその一瞬だけ、彼女の目には、ほとんど見逃しそうなほど小さな憂いがかすめていた。
ディア先輩はいまも危機の中にいて、グモ教授は依然として行方不明のまま。
どれだけ自分を落ち着かせようとしても、胸の奥に沈んだまま消えない気がかりまでは、なくせなかったのだろう。
俺は頷いて立ち位置を変えた。ミドも反射的に左腕を持ち上げ、その符紋を帯びた超合金義肢が、ごく低い共鳴音を立てる。
ルキは何も言わず、ただ灰霧の奥を見据え続けていた。全身が、いつでも震え出しそうな一本の弦みたいに張り詰めている。
その瞬間、俺の胸元の無知の眼も、かすかに震えた。
俺たちはキリム教授に先導され、外環の石段と平台の縁を伝いながら、慎重にその一帯へ近づいていく。
足元の石面は冷たく湿っていて、ときおり砕けた晶片や崩れた金属片が混じっていた。
一歩踏み出すたび、靴底が立てる細かな音がいつも以上にはっきり響く。そして下へ降りるほど、その灰霧の存在感は濃くなっていった。
ただ空気に漂っているだけじゃない。前方のどこかで、じわじわと増殖しているようだった。
風では散らない。
朝の光でも透けない。
それどころか、まだかすかに光っていた導流紋でさえ、灰霧の縁に近づいた途端、色を呑まれたみたいに鈍く濁っていく。
俺は知らず、呼吸を浅くしていた。
普通の異常じゃない。
あの灰霧の奥に、何かがいる。俺たちが近づいてくるのを、ただ静かに見ている何かが。
そのとき、ミドが唐突に息を呑んだ。
「――あそこ、何かいないか?」
俺たちは彼の視線の先を追った。
半ば崩れた転接平台の下、その灰霧がまだ完全には晴れていない奥で、霧の色よりもさらに濃く、さらに黒い影が、ほんのわずかに動いた。
一瞬、壊れた機械の残骸が風で揺れたのかと思った。
だが次の瞬間、その黒い影は灰霧の中からゆっくり持ち上がり、人でもなく、普通の獣でもない肢体の輪郭を露わにした。
細長く、歪んでいる。まるで一度無理やり引き伸ばされ、それでもう一度継ぎ直された骨と肉みたいだった。
続いて、二つ目。
三つ目。
灰霧の中にいるのは、一体じゃない。
そいつらは壊れた精錬構造や平台の残骸のあいだに身を伏せたまま、霧の中で何かを待っているようだった。
そしてあれが、俺たちにとって初めてのことだった――
この、ずっと平和だった島で、あの不吉なものを本当に目にしたのは
――『異獣』の姿だった。
>ここまで読んでくださりありがとうございます。
第45話では、イランたちが教授に導かれ、転送の果てに未知の空間へ到達する場面を描きました。
光に包まれた移動の感覚から、灰霧の中に潜む影へと繋がる流れは、舞台転換でありながら緊張をさらに高めるものです。
そして、彼らが初めて目にする『異獣』の輪郭は、物語全体の空気を大きく揺さぶり、次回以降の展開へ強い期待を繋げています。
ぜひ続きも楽しみにしていただければ嬉しいです。
\(◎o◎)/




