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5 あるセカンドライフの始まりについて

 全員が紅茶で喉を湿らせて一呼吸置いたところで、再びニコラが背筋を伸ばした。


「ジルさんの怒りや警戒はもっともなものだと思います。過去、皇族でさえ市井(しせい)の者をいたずらに慰み者にした例は少なくないのですから。だからどうか、ジルさん。僕に、機会をくれませんか?」

「機会?」

「はい。僕が、貴方の信頼に足るか、貴方の妹君に相応しい者かどうか。その証明の」


 この皇子は本当に馬鹿ではないだろうかという疑念がジルの胸の内に沸いて、訝しさに演技ではなくジルの眉間に皺が寄った。


「ニコラ様、貴方、今、自分が随分滑稽なことを言っていると自覚なさっていますか?」

「ジル! いい加減にして!」

「お前こそいい加減にしなさい。誰の話をしていると思っている。――ニコラ様。貴方は今、皇子たる自分を、平民の、それもマネステトラなどという敗国の亡命者に裁けと、そう仰っているのに等しいのですよ?」


 すると意外なことにニコラは小さく笑い、いいえ違いますときっぱり首を横に振った。


「僕は今、ただ愛しい人との交際を、彼女のお兄様に認めて頂くために必死になっているだけの、ただの年若いひとりの男です」

「……」


 リリアが隣でポッと頬を染めるのが見えた。そのことに気づいたニコラはリリアに向けてやんわり笑いかけ、頷きを向ける。頷きの力強さに比べ、その目元は少し照れたように紅かった。

 こんな至近距離で変な空気を作られてはたまらないので、ジルは一瞬萎えた気持ちを奮い立たせる。


「では、一体どうしようというのですか」

「オラソルド国軍に入っていただこうかと」

「はい?」


 ジルは素っ頓狂な声をあげた。意味が全くわからない。


「聞けば、現在はおふたりとも定職に就かぬまま、かつての貯蓄を崩してなんとか生計をたてていらっしゃるとか。先の戦乱以降、流民や移民は我が国でも増加しています。正式な移民ではなく亡命者である貴方がたが仕事を探すには非常に苦労する状況が続いていることと思います」


 わかった。


「軍籍に身を置き、市民権を得よ、と仰いますか」

「理解が早くて助かります。軍には貴方と同じような、元マネステトラ民もいますよ」

「できるなら、既にしているとはお思いにならないのですか? わたくしは一度戦場より逃げ出した身。その程度の精神と、技しか修めておりませぬ。そもそも入軍試験を突破できませんよ」

「文官の席があります。剣を振るうばかりが軍人ではありません」


 なるほどその手があったかと、思ったのが正直な気持ちだ。いや真剣に軍に入ることを目指したならすぐに気づいた手ではあっただろう。もちろん軍に入れば、同時に扶養家族まで市民権を所得できることは知っていた。知ってはいたが、そうすることで自分たちが市民権を得るという発想自体が、ジルにはなかったというのが正しい。自分たちはマネステトラの影であった、という事実はジルが普段意識しない思考の深くまで染み着いていた。


 だが、とジルは思う。金銭的にはまだまだ余裕があるとは言え、今後オラソルドに腰を据えるのであれば市民権の問題は何れ解決しなければならない問題だ。そういった意味で、ニコラの提案は非常に有用ではある。だが、なんだろう。ジルはここで容易に頷くことに危機感を覚えた。隣をちらりと窺うと、ジルと目があったリリアは、途端にぱあっと華やかな笑顔を浮かべた。ジルの心の警鐘が大きくなる。ジルにはわかる。これはひどい作り物だ。

 何かを見落としているか隠されている気がしてならない。ジルは注意深く言葉を重ねた。


「わたくしに軍籍を奨めるのは、……無礼な言い方をしますが、恩を売るという手段のひとつでしょうか?」

「いいえ、奨めたところで、能力がなければ入軍できないのは、武官も文官も同じこと。国を預かる末端の責任として、能力のないものを故意に入軍させることは僕にもできかねます。――つまり、貴方に意思と、それに能力がなければ、これは全く無意味ですから売れる恩にはなりません」


 そう言ってにっこり笑う第五皇子が、実はいい性格をしているのではないかとジルが疑ったのはこの時である。


「では、なぜ」

「リリアがオラソルドの市民権を得る一番確実な手段のひとつだからというのが、ひとつ。軍属は王城に侍ることも増えます。僕という人間を見定めてもらう場を多く提供できるだろうというのが、ひとつ。軍で実績を重ねれば一代爵位の授与もあり得るというのが、ひとつ」

「身分差が問題なのでしょう? 私もニコラ様もジルに認めてもらえるよう頑張るから、いつか私たちのことを認めてくれたら、ジルは頑張って軍で爵位をもらってね」


 笑顔でなんてことを言うのだ、この娘。

 かなり乱暴な方法で外堀を埋めに来ていることに気がついて、ジルはぞっとした。恋愛脳が暴走しているとしか思えない。より暴走しているのは、リリアなのか、ニコラなのか。知らないことは愚かだが、愚かでもいいから追求したくない。


「それに、リリア殿の話を聞けば納得したが、貴方がマネステトラを見切ったのは随分早い。崩れてからは早かったが、それまでは随分強固に耐えていた国だ。貴方のその先見の目は素晴らしい。有能なものは何人でも欲しいというのが、ひとつ」


 ライモンドが言葉を継いだ。

 リリアがどこまで話しているのかが計れず、ジルは眉を寄せる。


「先見と言えば聞こえはいいが、臆病とも言い換えられましょう。皆が戦っている中、たやすく母国を捨てた者ですよ?」

「卑屈は害だが、臆病は悪いことではないだろう。傲慢よりも遙かに役に立つ。国より、仲間より、ひとりの家族を選ぶことができるのも、ひとつの心の強さではないかな」

「軍人としては失格だと思いますが」

「そう言う者もあるだろう。けれど私は、自分が守るべきものを明確に心に持つ者こそが強き者だと思っている。私は、強い者が欲しくてね」


 なんでもものは言いようだなと、それこそ卑屈に捉えようとしてジルは、ん、と動きを止める。幾分緩慢にライモンドの顔を窺い直すと、彼は目を細め笑みを僅かに深めた。


「貴方の能力についてはリリア殿の伝聞だが、少なくとも確かに貴方は聡い方だと、私も思うよ。――ジル殿、ご想像通り貴方の席は私の元に用意してある」

「まあ、全く私情が挟まっていないというのも嘘ですしね。僕の元だともっと都合はいいのでしょうが僕は内政中心で、軍にはほとんど身を置いていませんから。丁度兄上のところは文官が不足していましたし、タイミング的にぴったりでしたね」


 僕たちにも兄上にも都合が良くてと笑い合うカップルを見て、味方がどこにもいないことをジルは痛感した。私情しか挟まってないではないか、と叫んだところで誰も聞いてくれないに違いない。

 「あにぅ」という謎の掛け声ではなく、しっかりと「兄上」とライモンドを呼ぶニコラはジルの前でも誤魔化すのをやめたらしい。それはそうだ、先日ジル自身が「ライ」の正体を理解した素振りを本人の前で見せたし、どうせ入軍すればすぐに知れることだ。

 2人は顔のパーツだけを見ればそれほど似ているとも思えないのに、笑うととてもよく雰囲気が似ている。ライモンド=フォルツァ=オラソルド第二皇子殿下は、見た目だけなら可愛らしくも微笑ましい男女を一瞥してから、何やら妙に同情的にジルに向けて微笑んだ。同情するなら……――いや、何も言うまい。


「さあ、話もついたところで! ねえ、ニコラ様、早く買いに行かないとマルケシュのストロベリーチーズケーキが売り切れてしまいますわ」

「え、でも、まだジルさんは、はいともいいえとも……」

「大丈夫です、これはイエスですから。ほら、早く、立って、立ってください。焼き上がりは3時なんですよ」

「え、あ、ええと、それじゃあ、ジルさん、どうぞよろしくお願いします!」

「ジルもライモンド様もいきますよ!」


 イエスではない。これはギブアップというのだ。そして自分も行かなくてはいけないのか……。

 リリアに腕を引っ張られながら出て行くニコラをげんなりとした目で見送って、ジルは力尽きたようにテーブルに沈んだ。すると頭上からくすくすと笑い声が振ってきたので、慌てて身を起こす。


「失礼しました、ライモンド様」

「いや、実際のところ無理を通しているのは此方の方だから」

「そう思われるのであれば、今からでもご容赦いただけると幸いです」

「私の弟と、貴方の妹君がそれを納得するのなら」


 ジルが重い溜息を返答の代わりとしていると、席を立ったライモンドがジルの傍らに移動してきた。なにかとジルが顔を上げるのと同時に、片手が差し出される。


「不肖の弟ですまない。私からも、どうかよろしく頼むよ、ジル殿」


 差し出された手を避けるよい理由が浮かばなかったので、ジルはライモンドの手を握った。すると握りかえされたかと思うや腕を引かれて、ジルは立ち上がる格好になる。

 驚いてライモンドの顔を見上げると、彼は笑っていた。


「先日は手伝う前に避けられてしまったからね」

「……もうしわけありません。お手を煩わせたくなかったので」

「いや、構わないよ。それにしても、ジル殿の手は小さいのだね。それに、軽い」


 まじまじと握ったままの手を見下ろされて、顔に熱が上がる。男の癖にと侮辱された、と思ったがゆえの恥の朱だと、ライモンドが思ってくれれば助かるところだ。

 無理に手を取り戻すのは未来の上司候補への不敬にあたるかを考えながら、ジルは口を開く。


「恥じておりますので、あまり言わないでいただけますか」

「なぜ?」

「な、なぜって」

「小さな手も、薄い肩も、細い輪郭も、それはそれで構わないのでは?」


 ――とても、可愛いと思うけれど。


 そう言ってライモンドがにっこりと笑うのを見た瞬間、ジルは自分の手を強引に引き戻しライモンドを置いて扉に向かう。どうしたのかと至極不思議そうな声を背中で聞きながら、待たせていますから行きましょうと振り返らずに言葉を返した。そして祈る。


 何か今すぐぞっとすることを考えよう。早くこの血よ顔から下りてくれ。





 ――いっそ本気の本気で受験に失敗すればいいのに、というジルの願いも虚しく、ニコラとライモンドの事前のたたき込みの結果、後日ジルは見事に入軍試験を突破した。そして訓練期間を経た後、晴れて予想通りライモンドの部隊への配属書を手にする。


 それは第二の人生の始まりと同時に、ライモンドはわかっているのかわかっていないのか、というジルの深い懊悩(おうのう)の日々の始まりを告げるものでもあった。

以上完結。読了感謝。


現実同様の食べ物も外来語も出てくる、なんちゃって雰囲気ファンタジーでした。

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