第1話:異世界転移と、完璧な先輩の裏の顔
「最悪だろこれ……ハァ、マジでふざけんなよ……どこなんだよここは……」
頭上から降ってきたのは、聞き覚えのある、けれど普段の爽やかさとは程遠い低い声だった。
湿った土の嫌な臭いに眉をひそめながら重い瞼を開けた相沢澪は、次の瞬間、絶句した。
視界に飛び込んできたのはオフィスビルの天井でも見慣れた会議室でもない。見たこともない太さの木々だった。
「……は? え、嘘でしょ……!?」
自分の置かれた状況が理解できず、澪は地面に座り込んだままパニックに陥った。
今日のために新調したネイビーのスーツも、お気に入りのパンプスも泥とぬかるみがついて全滅している。
「何これ……打ち合わせは!? 14時からの、クライアントとの……!」
今年で23歳。大手の式場で打ち合わせ担当のプランナーとして、ようやく仕事に慣れてきた矢先の出来事だった。澪は慌てて自分の手元や周囲を見回した。転がっていた自分のビジネスバッグを引っ手繰り、泥を払うのも忘れてチャックをぶち開ける。
「私のスマホ、どこ……っ!?」
「そんなもん、見ても無駄だぞ」
ガサリと草を分ける音がして、視線を上げる。
そこに立っていたのは、瀬尾智矢だった。親会社である『瀬尾グループ』の御曹司であり、社内では誰もが認める優秀で爽やかなエリート。入社当時の澪の元指導係でもある先輩だ。
だが、今の瀬尾に会社で見せる完璧な笑みはない。着崩したワイシャツの袖を乱暴にまくりあげ、前髪を雑にかき上げながら佇んでいた。
「……瀬尾さん!? なにがどうなってるんですか!? ここ、どこですか……!?」
「俺が知りたいわ。……あー、それより相沢さん、どこかケガしてないか? 痛むところとかないか?」
瀬尾は屈み込むと、泥で汚れた澪の顔を覗き込み、眉をひそめた。
「えっ……あ、はい。どこも痛くないです……たぶん」
「そうか、ならよかった……」
ホッとしたように息を吐いた瀬尾だったが、次の瞬間にはため息をつきながら後頭部に手を当てた。
「で……話を戻すけどよ。相沢さんが倒れてる間に周りをちょっと走り回ってみたけど、道も標識も電柱もねぇ。スマホも完全に圏外。挙句に見たこともないデカい木ばっかりで、意味が分からん。ハァ……マジで何なんだよここ」
「圏外って……瀬尾さん、どこ探したんですか!? ちょっとでも高いところ上ったら電波拾えるかも……!」
カバンから引っ張り出した自分のスマホの画面を連打しながら、澪は必死で腕を頭上に掲げてあちこち振り回した。画面の左上には虚しく『圏外』の文字が浮かんでいる。
「無駄だって。俺もそれやって一通り走り回ってきたんだよ。それに、周りの木見てみろよ。日本じゃねぇだろこれ!」
瀬尾は盛大のため息をつくと、スーツのジャケットを脱いで雑に肩に担ぎ直した。かつて親切丁寧に仕事を教えてくれた、完璧だった指導係の面影はゼロだった。
(え……何この人。心配してくれたのはありがたいけど……会社にいる時の瀬尾さんと違いすぎない……? )
「日本じゃないって……じゃあ、遭難ですか!? 海外のどこかの森に放置されたってことですか!?」
「だから、それならまだマシだって言ってんだよ。……なあ相沢さん、会議室で倒れる直前のこと覚えてるか?」
「直前……? ええと、急に足元が光って、変な模様が浮かび上がって……」
「そうだろ。で、目覚めたらこの謎の原生林だ。……これって最近世間でよく聞く『例のアレ』じゃねぇのか?」
「例のアレ……? え……まさか、異世界転移ですか!?」
「知らん。けど、この状況見てみろよ。……なあ相沢さん、ダメ元で言ってみろ」
「えっ? 何をですか……?」
瀬尾は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、心底嫌そうに顔を歪めながら、誰もいない空間を指差し、ボソリと言った。
「……『ステータス』だ」
「……は?」
「いいから! 誰も見てねぇんだから早く言ってみろ! 俺が一人で言って何も起きなかったら死ぬほど虚しいだろ!」
「瀬尾さん、さっき一人でやろうとしたんですか!?」
思わずドン引きの視線を向けると、瀬尾は気まずそうに「……余計なこと察すんじゃねぇよ」と目を逸らした。一人で格闘していたらしい。
「ほら、相沢さんも恥を忍んで言うんだ! せーの、で言うぞ!」
「う、嘘でしょ……会社の先輩と森の中で何やってるの私……」
澪は泣きたくなりながらも、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「せーの……っ」
「「ステータスオープン!!」」
二人の切実で恥ずかしすぎる叫び声が、森の中に空しく響き渡る。
……沈黙。
(うわあああ恥ずかしい!! やっぱり何も起きな——)
ポンッ!!
「うわあっ!?」
突然、二人の目の前の空間が青く光り、見たこともない半透明の画面が空中に浮かび上がった。まるで最新のSF映画のように、ホログラムの画面が照射される。
そこに表示されていたのは、驚くほど詳細な二人のデータ——本物の『ステータス画面』だった。
【名前】セオ トモヤ
職業: 勇者 レベル:1
体力(HP): 3000 / 3000
魔力(MP): 500 / 500
筋力: SSS 耐久: SSS 敏捷: SS
固有スキル:
【言語理解】
【勇者の加護(成長型)】
【剣術】
【全属性攻撃魔法】
【名前】アイザワ ミオ
職業: 誓約者(巻き込まれ) レベル:1
体力(HP): 80 / 80
魔力(MP): 8000 / 8000
筋力: G 耐久: G 敏捷: E
固有スキル:
【言語理解】
【創造魔法】
【???(未開放)】
「……マジで出た……」
画面を凝視したまま、瀬尾が呆然と呟いた。
次の瞬間、ハッと悟ったように深いため息をつくと、がくっと首を後ろに倒した。
「……はー、なるほどな。はいはい異世界転移ね。やっぱそういうことかよ……」
すっかり状況を理解して吹っ切れたのか、それまでの妙な緊張感が嘘のように消え、瀬尾の全身からダラーッと力が抜けていく。
「ゆ、勇者……!? 誓約者……!?」
一方で澪は、表示された内容に開いた口が塞がらなかった。瀬尾のステータスは、筋力も耐久も「SSS」というふざけた文字が並んでいる。一方で、自分の欄には輝く『筋力:G』の文字。
(魔力だけ無駄に高いけど……筋力Gって何!? Gってアルファベットのかなり後ろの方だけど、もやしレベルってこと!? というか……)
「誓約者って何ですか……!? なんで横にわざわざカッコ書きで『巻き込まれ』なんて不吉な注釈がついてるんですか! そもそも誰と何を誓約したって言うんですか!」
不親切かつ謎仕様に、澪は叫んだ。
「創造魔法ってのも意味不明だし……スキル欄の最後、『???(未開放)』って何……? 伏字にする意味ありますか!?」
「まあ落ち着けよ……そのステータス、筋力Gって凄くないか? 多分、生まれたての仔鹿レベルだろこれ」
自分のチート性能を確認した瀬尾が、澪の画面を覗き込んで、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべている。
(うわ……ホントいい性格してる……!)
「笑わないでください! 瀬尾さんのステータスこそ何なんですかそれ! 体力3000ってゴリラですよね!?」
「ゴリラ言うな。……ってか、よく見てみろよ。『誓約者』だってよ……。文字通り解釈するなら、俺が『勇者』として召喚されたときに、相沢さんが運悪く巻き込まれて何か契約させられたってことだろ。だからわざわざ(巻き込まれ)なんて注釈がついてるんじゃねぇの」
「……」
澪は一瞬、思考を止めた。そして、ゆっくりと瀬尾の方へ顔を向けた。
「……サラッと言いましたね?言っちゃいましたね?」
「へ?」
「いいですか? そもそも瀬尾さんが『勇者』なんていう職業に選ばれなければ、私が謎の『誓約者』にされてこんな巻き添えを食らうことも、お気に入りのスーツを泥だらけにされることもなかったんです! 全部、瀬尾さんのせいですからね!?」
澪は冷ややかな、けれど絶対に引き下がらない強烈な目力で瀬尾を睨みつけた。
「打ち合わせの資料も用意したのに! 今日の夜食べるはずだったパスタの予約もキャンセルですよ!? 幼馴染と女子会だったのに! どう落とし前つけてくれるんですか!?」
あまりの勢いに、筋力SSS勇者のはずの瀬尾が、思わず一歩後退りした。普段はおとなしい後輩が見せた本気の顔に、冷や汗が頬を伝う。
「分かった……俺が悪かった。俺が原因なのは認めん…でもないから、そんな恐ろしい目で見るな……」
「当たり前です! 私を無事に日本まで送り届けるまで、瀬尾さんは私の下僕ですからね!」
「下僕って……相沢さん、会社でのキャラどうしたよ……」
「お互い様です!!」
瀬尾は頭を抱えてため息をついたが、それ以上は反論してこなかった。巻き込んでしまったことへの罪悪感が確かに少しはあるらしい。
「ハァ……まあいいわ。文句言ってても腹が減るだけだしな。行くぞ」
「ちょっと、どこに行くんですか!」
「人里探すんだよ。ここに居座ってたって、ご飯もベッドも降ってこねぇだろ」
歩きにくそうにする澪の足元に合わせて、瀬尾はさりげなく歩調を緩めて先を行く。
「ちょっと待ってください、置いていかないでください!」
「置いてかねぇよ。ほら、足元気をつけろよー」
差し出された無骨な手を少しだけ睨み返しつつ、澪は落ち葉を踏みしめて一歩を踏み出した。




