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フェンリルとの遭遇

「っ!?」


 あまりに突然の出来事に驚きの表情を浮かべる恵菜だったが、反射的に体を逸らして飛んでくる何かを必死に避ける。


 飛び出してきた巨体は恵菜の肩を掠め、恵菜の首元があった付近を通過した。


「ちょっと! 危ないじゃ――」


 話し合おうと近づいた自分に問答無用で襲い掛かってきたことに対して、声を荒げて抗議しようとした恵菜だったが、その襲ってきたものの姿を見て言葉が止まる。


 襲い掛かってきたのは人ではなく狼だった。


 だがその姿はフォレストウルフとは全く違う。恵菜よりも一回り大きな体は美しい白銀の毛で覆われ、威嚇するかのようにむき出しにされた牙や力強く地面を踏みしめる足から覗く爪は触れるだけで怪我をしそうな程の鋭さだ。


『ほぅ、人間にも案外早く動けるものがいるのだな』


「え……あなた、しゃべれるの?」


 襲われたことも忘れてその姿に少し見とれていた恵菜だったが、突然聞こえてきた声に目を丸くする。


『こちらの台詞だ、まさか人間が神聖語を話せるとはな』


 どうやら恵菜だけでなく、両者ともお互いと意思の疎通ができるとは思わなかったようだ。


 両者が今使っているのは神聖語といい、人ならざるものとコミュニケーションを取るために用いられていた言語である。

 昔は話すことのできる人もいたが、古代語と同じように時代が進むにしたがって失われていった、いわば幻の言語。


 ちなみに、恵菜は神様からもらった力によって、無意識に相手の言語に合わせて話すことができる。


「魔物にも言葉を話せる魔物がいるのね」


『魔物とは我のことか? 我は魔物ではない』


 魔物とそうでないものとの違いは、魔力を制御できているか否かである。


 全ての生き物には魔力が存在しているが、その中には魔力を自らの意思で制御できずに暴走させてしまう生き物がいる。魔力が暴走すると非常に気性が荒くなり、他の生き物に襲い掛かるようになってしまう。

 このような生き物が魔物と呼ばれている。


 一応、恵菜もその事は知っている。

 しかし、フェンリルが魔物であるかどうかまでは判断できなかった。


「そうなの? でも普通の生き物がしゃべるのもおかしいと思うけど」


『我は普通ではないからな』


 今一、言っていることが分からない恵菜だが、どうやら話すことのできる相手の様だった。


 相手が人でないと分かった時は話し合いなど不可能だと恵菜は思っていたが、話すことができる相手だと分かって色々と尋ね始める。


「あなたは一体何なの? こんな所にあなたみたいな生き物が生息しているなんて聞いたことないけど」


『人間は我のことをフェンリルと呼ぶ。前は北の山にいたが、わけあって今はここに来た』


「そのわけって?」


『それは貴様が知ることではない』


 バッサリと切り捨てられムッとする恵菜。


 フェンリルは何か理由があって北から南へ移動してきたようだったが、理由については語る気がないらしい。


「……まぁいいわ。それより何でいきなり襲い掛かってきたの?」


 恵菜はここに来た理由が全く気にならないわけではなかったが、それよりも聞きたい事があったことを思い出し、さらに尋ねる。


 だが、その質問を聞いたフェンリルは目を少し細め、怒ったかのように表情が厳しくなる。


『白々しいな……我を狩りに来ておいて』


「か、狩り?」


『惚けても無駄だ。貴様ら人間が我らの毛皮や牙を求めて我らを襲うことは知っている。先日もここで武器を持った三人が我に突然襲いかり、最近それ以上の数の人間が我を討とうと林に入ってきたではないか』


 何の事だか全く分からない恵菜が戸惑うが、フェンリルは恵菜が惚けているように見えたらしい。


 実際は、フェンリルが言う三人とはオーランとその仲間のことで、彼が蹴りウサギだと思ってロクに確認もせず武器を振るった結果、近くにいたフェンリルが襲われたと判断しただけである。


 また、林に入ってきた大人数の人間というのは兵士の調査団だ。しかも、調査団はフェンリルに襲い掛かっておらず、むしろ発見してから即座に撤退している。


 だが、フェンリルからすれば、林の中で突然襲われた後に武器を持った人間が林に入ってくるのは、報復に来たとしか見えなかったようだ。


「ちょ、ちょっと待って、私はあなたを狩ろうなんて思ってないし、その人たちと関係ない!」


『……まだシラを切ろうとするか』


「だから、ちょっとは話を――」


『黙れ』


 言葉が通じる相手であっても、話し合いができるとは限らない。


 恵菜の必死の説得はフェンリルには聞き入れられなかった。


 フェンリルの纏う空気がガラリと変わる。


 ずっと恵菜に対して敵意は持っていたが、今のフェンリルが恵菜に対してぶつけているのは純粋な殺意のみ。


『おしゃべりはここまでだ』


「……本気なの?」


『当然だ』


 自らが殺される前に殺す。

 今までずっとそうしてきたかのように、フェンリルからは一切の躊躇いが感じられなかった。


「……いいわ、ちょっとその堅い頭を叩きなおしてあげる」


 話し合いどころではないと察した恵菜は自らの体全体に魔力を廻らせる。


 身体能力を上げるためだけに廻らせた魔力は消費されることはないが、強化中はその魔力を魔法に使うことができない。


 恵菜は人並み外れた魔力量を持つため、このようなことが平然とできるのだが、通常は全身を強化するとなると保有魔力の大半が必要になる。

 その状態で一般的な魔術師が魔法を発動しても、せいぜい数発の魔法を撃つことしかできない。


 それに、恵菜は元から高い身体能力がある。ある程度の強さの相手に対しては、全身強化など使う必要はないのだ。


 とはいっても、先程のフェンリルの一撃はかなりの速さだった。


 不意打ちだったとはいえ、強化していない状態の恵菜にとっては躱すのが精いっぱいであり、恵菜は元の身体能力のままで戦うのは厳しいと思ったようだ。


『ゆくぞ――』


 恵菜の魔力が体に行き渡ると同時に、フェンリルは地面を蹴り急加速し、恵菜に向かって突進する。


 まるでさっきの一撃が手加減されていたかのように思えるその速度は、強化中の恵菜であってもあまり余裕のないものだったが、恵菜はしっかりとその動きを目で捉えることができていた。


 一気に恵菜へと迫ったフェンリルは、勢いそのままに爪をむき出しにした右前足を恵菜に振り下ろす。刃物のように研ぎ澄まされた爪で切り裂かれようものなら、一発で致命傷となるだろう。


 自身の左から迫る致死の一撃に当たらないよう、恵菜は左へと飛びながら躱す。


 同じ方向へ飛ぶのはリスクがあるが、右に躱せばすぐにフェンリルの左前足からの追撃が来る可能性があり、最悪そのまま連続攻撃を受けることになる。


 恵菜は反撃の魔法を叩きこむためにも、多少のリスクを無視して、フェンリルが連続攻撃しにくい方向へと避けるべきだと判断したのだ。


『ファイアバレット』


 フェンリルの一撃を躱した恵菜がファイアバレットを放つ。


 恵菜の魔法は、攻撃後の隙でがら空きになったフェンリルの横っ腹に吸い込まれるように飛んでいくが、フェンリルはそのファイアバレットを躱す素振りも見せず、そのままフェンリルに命中する。


 だが、攻撃を受けたフェンリルは何事もなかったかのように、恵菜の逃げた方向へ再び攻撃をしかけてきた。


「っ!」


 ファイアバレットを意にも介さず攻撃してきたフェンリルに驚きながらも、恵菜は先程と同じように攻撃を躱す。


 恵菜はファイアバレットが躱される可能性は考慮していたが、避けようともせず再度攻撃をしかけてきたことに驚いていた。

 ファイアバレットは一発で死ぬほどの威力を持っていないが、直撃しても全くの無傷というわけにはいかないはずである。


『ストーンバレット』


 もしや魔法の相性が悪かったのかと考えた恵菜は、今度は異なる属性の魔法を放つ。


 魔法にはそれぞれ相性があり、水は火に、火は風に、風は土に、土は水に強く、その逆だと弱い。さらに、相性がない者同士には強い弱いが存在しない。


 また、光と闇はこの四属性とは特に相性がなく、光は闇に強く、闇も光に強いといった関係がある。


 ファイアバレットが効かなかったことと、フェンリルが北の山にいたことから、フェンリルが水属性を持つのではないかと考えた恵菜が選択したのは、土属性のストーンバレットだ。ついでに、先程より少し多めの魔力を消費して威力も高めてある。


 ストーンバレットは先程の魔法のリプレイのように、再びフェンリルの横から迫る。


『この程度、躱す必要がない』


 だが、それでもフェンリルは魔法が脅威だとは思っていないようだった。

 ファイアバレットの時と同じように、フェンリルはそれを躱さずに受け、無傷で恵菜へと向き直る。


『アクアランス』


 あまりにもフェンリルにダメージを受けた気配が見られないため、フェンリルの魔法耐性そのものが高く、下級魔法のファイアバレットやストーンバレットが効かなかった可能性を考慮した恵菜は、一度大きく距離を取って中級魔法をフェンリルに放つ。


 先の二つより威力が上の魔法。それをフェンリルはその場でジッと待ち構える。


 そのままフェンリルはアクアランス正面から受け止め、恵菜の放った水の槍はフェンリルの体に傷を付けることなく霧散した。


『そのような魔法で、我を倒せると思ったのか?』


「……少しぐらい傷を負わせられるとは思ったんだけど」


 正直なところ、恵菜はフェンリルが下級魔法だけでなく中級魔法を受けてまで無傷でいられるとは思っていなかった。


 中級魔法に注ぐ魔力を増やせば何とかなるかもしれないが、フェンリルの様子を見る限り大きなダメージは期待できない。


『もう少しできると思ったのだが、興ざめだな』


「……まだ負けたわけじゃない」


 中級魔法が通じなかったとはいえ、あくまでアクアランスだけだ。


 もしかしたら別の属性なら通じるかもしれないと、恵菜は次に土属性の中級魔法をぶつけてみようと意気込むが、フェンリルは口の両端を少し吊り上げ不敵に笑う。


『いや、貴様の負けだ』


 自らの勝ちを疑わない発言をして、フェンリルは恵菜へと迫る。


 何度も同じような攻撃は通じないと思いながらも、恵菜は再び躱そうとする。


 だが、恵菜は足に力を込め始めて違和感に気付く。まるで地面と靴が接着剤でくっついたように動かしづらいのだ。


 恵菜が足元を確認すると、靴が氷で固められていた。


「なっ――」


 突然の異変に驚愕する恵菜だったが迷っている時間はない。


 今すぐ行動しなければ、フェンリルの(あぎと)が恵菜の首元を直撃するだろう。


 恵菜は火傷する可能性を無視して、無詠唱でファイアーボールを足元に発動する。


 ファイアーボールで氷は即座に溶け、恵菜も自由に動けるようになったが、その時には既にフェンリルは目の前に迫っていた。


 横へ飛んでいる暇はないと判断した恵菜は、最初の時と同じように体を逸らせて避けようと試み、何とかフェンリルの牙の餌食になるのは回避する。


『甘いな』


 そんな恵菜の回避を読んでいたのか、フェンリルは突進のスピードを殺さずに、尻尾を真横へ振るって恵菜へと叩きつけてきた。


 流石に恵菜も体勢が崩れた状態では満足に躱すことなどできず、フェンリルの太い尻尾は恵菜の右腕の上から体の真横に直撃する。


「うっ!」


 まるで丸太で殴られたかの衝撃によって骨が軋み、思わず恵菜から苦悶の声が漏れる。恵菜に尻尾を叩きつけたフェンリルは、そのまま恵菜を弾き飛ばした。


 何とか体勢を立て直そうとする恵菜だが、空中に飛ばされた状態では満足に体勢を戻せない。


 さらに、飛んでいく方向には湖沼があり、恵菜はそのまま着地もままならずに水の中へと突っ込んだ。

話を聞いてくれないフェンリル。


次話は三日後に更新予定です。

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