五話 大公病床
政庁は静かだった。
静かすぎる、とレオは思った。
人は増えている。
書記官。
伝令。
監査官。
神官。
地方からの使者。
朝から中央棟へ入っていく人数は、明らかに増えていた。
なのに、誰も声を荒げない。
羽ペンの擦れる音だけが、広い回廊に妙に響いていた。
「・・・空気が違う」
レオは抱えた書状束を見下ろした。
ここ数日で、政庁へ届く文書の種類が変わっている。
『忠誠確認』
『継承儀礼照会』
『護衛増員申請』
『地方備蓄確認』
そして増え始めたのが、
『面会希望』
だった。
相手は、現護国大公ではない。
次座。
つまり、現大公の実弟。
かつて寺院へ入り、後に還俗した男。
正式な継承順では、次代護国大公となる人物だった。
「坊ちゃん」
老書記官が小声で近寄ってくる。
「東部から急便です」
「・・・また?」
「今朝だけで、四通目です」
受け取った羊皮紙を開く。
『街道保全のため、兵站徴発を実施』
短い。
だが、レオは眉を寄せた。
徴発。
本来、大公の権限だ。
地方領主が勝手に行えば、中央に対する謀反となってしまうのだが。
最近、東部ではこういう報告が増えている。
『自衛兵招集』
『通行税徴収』
『護衛契約締結』
名目だけは、整っている。
だが実態は、地方が中央を待たなくなっている。
「・・・早いな」
「え?」
「あ、いえ」
老書記官は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
最近の政庁は、誰も余計なことを聞かない。
聞けば、認めることになるからだ。
ーーこの国が、変わり始めていることを。
◇
中央棟上層。
政庁中枢。
そこだけ、空気が違った。
衛兵が増えている。
しかも、政庁直属兵だけではない。
寺院武僧。
教会護衛神官。
社殿側警護役までいる。
宗教勢力が、露骨に中央へ顔を出し始めていた。
「あまり見ない場面だ」
レオが呟くと、隣を歩くセシリアが静かに答えた。
「珍しいどころじゃないわ」
監査局制服の袖を整えながら、彼女は続ける。
「今朝、面会順が変更された」
「変更?」
「本来なら王家が先。でも、寺院側が優先された」
「・・・大公に?」
「違う」
セシリアは声を潜めた。
「次の大公閣下によ」
レオは、足を止めた。
次座。
次代大公予定者。
元寺院僧。
そして、今もっとも"次の時代"へ近い男。
「まだ現大公は御存命、ですよね?」
「当然じゃない」
「なのに?」
「だからよ」
セシリアの目は、冷えていた。
「皆、次の秩序へ挨拶を始めてる」
ぞくり、とした。
それは反乱ではなく、陰謀でもない。
もっと静かなものだ。
席順。
祈祷依頼。
献金先。
面会順。
そういう小さな変化だけで、時代は傾き始める。
◇
夕刻。
アルディン家執務室。
エーヴェルは、大量の書状を読んでいた。
机上にあるのはーー
東部地図。
街道図。
物流記録。
護衛契約一覧。
宗教勢力分布。
軍議ではない。
だがレオには、戦況図に見えた。
「母上」
返事はない。
エーヴェルは一枚読み終え、次へ移る。
異様な速度だった。
「・・・何が起きてるんですか?」
沈黙。
やがて、エーヴェルは低く言った。
「人は戦を恐れぬ」
視線は書状のまま。
「恐れるのは、秩序が失われることだ」
「・・・」
「だが、秩序が崩れる時ほど、人は秩序が続くと思い込む」
そこで初めて、彼は顔を上げた。
「東部は、もう中央を待っていない」
「東部だけですか?」
「済めば幸運だ」
エーヴェルは、一通を投げた。
教会封印付き書状。
『巡礼路保全のため、独自護衛兵設置を申請』
レオは息を呑む。
「教会まで・・・」
「寺院は既に始めている。商会もだ」
エーヴェルは静かに続けた。
「皆、国家が弱る前提で備え始めている」
部屋が重かった。
窓の外では、夕鐘が鳴っている。
百年続いた平和の音だった。
だが、レオにはもう違って聞こえた。
「後継問題、ですか」
エーヴェルは。ゆっくり首を振る。
「違う」
そして、積み上がる書状を見た。
「問題なのは、者どもが"次の政庁"へ挨拶を始めたことだ」
静かな声だった。
だがその言葉は、戦場の号令より恐ろしく聞こえた。
護国大公。
かつて異国戦争を覆し、国家を救った英雄へ贈られた称号。
そして今では、平民だけで国家を統べる"政庁"の頂点。
王家ですら、完全には制御できない実務政権。
その地位は遥か昔に初代大公家が王侯貴族と争い、
血を流し、勝ち取ったもの。
そして現在の大公家もまた、先代大公家を打倒してその座へ就いている。
つまりこの国では、秩序は継がれるものではない。
勝ち取るものだ。
その現実を、皆が思い出し始めていた。
その時だった。
執務室の扉が強く叩かれる。
「失礼します!」
伝令官だった。
顔色が悪い。
「東部街道より急報!」
息を切らせながら叫ぶ。
「ルーガにて、寺院武装勢力と領主軍が衝突!」
沈黙。
ほんの数秒。
だがレオには、時代そのものが止まったように感じられた。
エーヴェルだけが、静かに目を閉じる。
「・・・早すぎる」
その呟きは、まるで。
長く続いた平和への、弔鐘のようだった。




