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驚いたことに、と言うべきか、それともある程度は予想されていたことだった、と言うべきか、立花は昨日、町へは戻らず、こぶじゃくしの村で一夜を明かした。
翌日、いつも通り村を訪ねた私と篠目を見て、彼は開口一番に「メシ!」と要求してきた。
「それで、夕べは一睡もせずに検体を調べていたのか?」
天幕の中に雑然と並べられた器具や検体に目を向けながら聞くと、立花は麦飯の弁当を掻き込みながら適当な返事をした。
彼の食べっぷりを見ていると、立花のために弁当を用意して欲しいと頼んだ時のマツさんのあの嫌そうな顔を忘れられる気がした。
「全く! お前らは頼りない! ふがいない! 分かってるのか? これは一大事なんだぞっ? こんな重要な症例が目の前にあるというのに、日が暮れるからという理由で帰るヤツがどこにいるか! 全く! 見損なったぞ!」
彼が喋るたびに、口の端から飯がポロッと零れ落ちる。
私は、これが外国だったならどうなるか、などと言って捲くし立てる立花を適当にいなし、仕事の話を促した。
「どうしたもこうしたもない。まずは結果から教えてやろうじゃないか。患者の便の中に、寄生虫の卵らしきものは無い! それらしきものがあったのは、尿の方だ」
私と篠目が顔を見合わせると、立花は既に食べ終わった弁当の空き箱を隅に押しやり、木箱の中に整然と並べられた検体を持ち出してきた。
それにしても、これだけ人間の排泄物に囲まれた状況で飯を食える立花の神経の太さには感服させられる。
「まあ、見ての通りだ。これは今朝一番に採取してきた尿なんだが、肉眼で見ても白く濁っているのが分かるだろう? これを微塵鏡で見てみるとな、こんな感じだ」
言いながら、彼は微塵鏡で見えた像を正確に書き取ったものを見せてきた。
紙を受け取った私は、篠目と共にしげしげと眺めた。ビー玉のような球体が、一平方センチあたりに何百とひしめいている。
もちろん、これは正常な尿の見え方ではない。
「微塵鏡で見えるほどだから、そこまで小さいものではない。そして、何かがいるのは患者の腸内ではなく腎臓か、もしくは膀胱ということになる。こればっかりはまだまだ見当がつかん。それこそ、腑分けでもしてみない限りはな」
立花は、おもむろに煙管を取り出し、火をつけ、それを吸いながら天幕の模様を隅から観察し始めた。
「計算してみれば、それこそ天文学的な数字になる。しかし、朝一番の尿にだけそれだけの数の卵が排出され、あとは何も出ないか、あるいは出たとしても少量なのか、それとも一日を通してそれだけの数が出ているのか。それは今日、調べようと思っている」
私たちが何も言えずにいると、立花は寄生虫卵の様子を記録した紙をさっと取り上げ、別の記録用紙を差し出してきた。
そこには、昨日の昼間、私たちがあちこちを回って採取してきたサンプルの所見が一覧表に纏められていた。
もちろん、そこには例の黒い水も並んでいた。
「さすがに、微塵鏡で見える範囲にも限りがある。もっと詳しい調査をするためには、大学の研究室に持ち込まねばなるまい。結論を言うと、こぶじゃくしの卵が混入している可能性があるのは、村人が共同で使っている井戸、沼、それから沢の水ということになる」
「つまり、この村の水は、すべて汚染されているということか?」
立花は頷いた。私は思わず腰に下げた竹筒に手をやっていた。ずらりと並べられていた検体にいちいち舐めるような視線を向けた後、立花は荷物をあさって付近一帯の地図を引っ張り出してきた。
「この村を通っている沢は、はるか下流まで山を突っ切って、それから街道沿いを流れて、その後で大きな川に合流する。つまり、農村も町も通らない」
立花の指先が、地図の上を滑っていくのを、私はじっと眺めていた。地図くらいは私も読める。彼が何を言いたいのかは分かった。
「それが、こぶじゃくしの症例がこの村にだけ現れて、下の町には出ない理由として説明できる。ついでに、海沿いの町に似たような症例が全くないことを考慮すれば、おそらくこぶじゃくしの卵は海水では死滅するんだろう。いくら寄生虫と言っても死んでしまえば何もできないからな。たとえ卵を食った魚を人間が食ったとしても、何ら症状は出ないというわけだ」
静かな口調で語る立花を、篠目が感心したように見やっていた。
「続いて、問題はお前が見つけてきたこの黒い水だ」
言いながら、立花は微塵鏡を覗き、傍に置いてある記録用紙に何か書きつけ、弾かれるように後ろを向いて検体を整理し、続いて今度は学術書の山をあさり始めた。
そんな立花の様子を、篠目は、何か奇怪な生き物か何かのように眺めていた。
「現時点ではまだ何とも言えないが、可能性があるとすれば、産業廃棄物」
このとき、あまりにもあっさりと立花は断言した。私はつい反射的に後ろを振り返っていた。
もちろん、ここから沿岸沿いの工場郡など見えるわけはないのだが、そうせずにはいられなかったのだ。
自分の馬鹿げた行動に気まずい思いをしながら、元通り天幕の中に顔を戻す。
立花は自分のことに忙しいらしく、私の行動など、まるで気にも留めていない様子だった。
「さすがに、こんなところでは水の成分までは分からない。結論を出すのは控える」
私は頷いた。
そう言えば、いつだったか、沼に浮いている油を見た記憶があった。
もしも本当に産業廃棄物がここにあるのだとしたら、当然のことながら沿岸部の工場群が関係していることは間違いない。
だとしたら、相手が相手であるだけに、事は慎重を要するし、余計なことを騒げばいろいろと面倒なことになる。
私は黒い水を見つけた時に感じた不吉な予感が、現実になりつつあると感じた。
私は小さく唸った。
もし、これから見つかるかもしれないモノがこぶじゃくしと一切、関係ないのであれば、私は「そのこと」については口を噤んでいようと決意していた。
四民平等の世となって四十年以上が経過するが、それはあくまで身分制度が無くなっただけという意味である。
しょせん、欧米の資本主義を自分たちなりに振りかざし、ひたすら金を求める強欲な者には適わない。
彼らは、その豊富な資金力で、政治まで動かす力がある。
私や立花のような者が、こぶじゃくしの村人と共に騒いだところで相手にされないどころか、下手をすれば……。
「ところで、立花先生は、たった一晩で、これだけのことをすべて調べられたのですか? おひとりで……」
篠目が、遠慮がちに立花に聞いていた。
普段、強引に注意を引き戻されなければ話しかけられていることにさえ気付かない立花だが、篠目の……歳若い女性の……言葉ならば、すぐに鼓膜の振動を感知できるらしい。
立花はすぐに顔を上げた。
「カイに手伝ってもらった」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中の歯車がカチリと合わさったような感覚を覚えた。
私は別に何もしていないのだが、どうやらうまい具合に事が進みそうな雰囲気を察して、何ともいえない達成感のようなものを感じた。
産業廃棄物、という恐ろしい考えは、その時うまい具合に頭の中から消え失せていた。
「村長んところの次男坊、彼は役に立つ。ちょっと教えてやったらすぐ覚えてくれた。おかげで、検体の確認はほとんど彼がやった」
「彼は、今どこに?」
立花の講義が始まる前に、私は素早く聞いた。
今まさに次の言葉を吐き出そうとしていたらしい立花は、一瞬ピタリと固まった後、三秒間考えて、村長宅の方を指で示した。
「お前たちがここへ来る一刻ほど前に帰った」
「そうか。優秀な助手のようだな」
私が言うと、立花は打てば響くように「まったく、その通りだ」と答えた。
私はただ頷き、立花に話の続きを促した。
彼の口から次に出てくる言葉が、猫でもでも花崗岩でもおかしくはなかったのだが、その時は何でも聞いてやるという気分だった。だが立花は、
「さて、調べられることを調べて、結果だけ聞きに来たお前らに、お望みどおり、結果を報告したところで、私は帰らせてもらうことにしよう」
と、さっさと帰り支度を始めてしまった。
「検体は処分しておくように。ああ、それから、カイが起きてきたら、検体の所見を纏めたものをカルテに整理しておくように伝えといてくれ。ついでに、尿検査のことは覚えているな? 村人全員の一日の尿を調べるのは無理だろうから、最もこぶじゃくしの症状が重いヤスさんに的を絞らせてもらおう。ここに呼んで、一日の尿をすべて調べるんだ。ああ、心配するな。微塵鏡の使い方と、こぶじゃくしの卵の見つけ方は、カイが知ってる。検査はあいつに頼めばいい」
帰ると言って、ただ大人しく帰らないのが立花らしいところだと思った。
相変わらず勝手な言い分だと思ったものの、立花が夜を徹して検査に励んでいる間、私は夢の中にいたのだ。
野暮用を頼まれてやらないわけにはいかなかった。
篠目も、昨日とは違って全く不満げな顔はしていない。我々は快く引き受けることにした。
「夕方になる前に顔を出す」
立花は最後に天幕の中を一周してすべての物に視線を走らせると、ようやく草鞋を履き始めた。
しかし、馬に向かおうとしたところで、こちらをクルリと振り返る。篠目が緊張したのが分かった。おそらく、私も同じ反応を示していたはずだ。
立花は、私たちの反応には目もくれず、馬に荷を乗せ始めた。
「マツさんに伝えておいてくれ。できれば麦飯の中に塩漬けの昆布と梅干を入れておいてくれと。昆布は砂糖と醤油で煮詰めたものを。砂糖は多めに、醤油は薄口を。間違っても塩昆布はダメだ。それから梅干なんだが、カツオは苦手だから紫蘇で漬け込んだものを頼む。ただし、塩は控えめにしたものがいい。大粒のものよりかは、小粒のものを三つほど。これは単なる縁起担ぎなんだが、昆布は左で梅干が右だ」
私は思わず顔を歪めていた。
「これからマツさんのいる診療所に帰るのはお前なんだから、お前が言えばいいではないか。なぜ私が言わなければならないんだ?」
自分では正論だとしか思えないことを言ったのだが、立花は途端に困ったような情けないような顔になった。
その時、私がどういう顔をしていたのかは分からないが、篠目は苦笑いを浮かべていた。私は何も言わずに立花を見返した。
すると彼は、やがて諦めたらしく、黙って馬に跨った。
立花が帰って行った後、私は「どうしても顔のこぶじゃくしを取ってほしい」と訴えてきた女性相手に施術を行うことになった。
患者の年齢は数えの二十一。両頬には、かなり広範囲にわたるこぶじゃくしの病巣が認められた。
同年代のカイとユウ兄弟には、まだ顔に病巣は現れていない。皮肉なものだが、やはりこぶじゃくしは女性の方が進行が早いと私は患者を診ながら考えた。
おそらくは、女性は男性に比べて筋肉が少ないからだ。
脂肪層の方が筋肉より柔らかい分、虫も移動が容易なのではないか。私はこぶじゃくし寄生に関する男女差においては、そんな推論を抱いていた。
「顔に、けっこうな傷が残ることになるが、それでもいいのかい?」
私が聞くと、彼女は切羽詰った表情で頷いた。彼女の言い分としては、
「こぶじゃくしより、傷の方がマシ」
ということだった。
私には治療を拒否する理由はないのだが、顔への施術、それも若年層の女性となると、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
今ごろ何をしているのやら知れないが、確かな愛情を感じる自分の娘と、彼女は同年代なのだ。娘がどれほど見た目に気を使っているか、曲がりなりにも知っている身として、若い女の顔に自ら傷を付けるような真似をしたくはない。
何より「けっこうな傷が残る」と言った私の言葉を、彼女がどの程度まで理解しているのか、自信がなかった。
皮膚の奥、脂肪層を超えて、筋肉の更に奥まで入り込んでいるこぶじゃくしまで摘出すれば、少なくともひと月の間はこぶじゃくしが現れないということは実証されている。
村人たちの話を聞く限りでは、表面層にいるこぶじゃくしを取っても、ほんの二、三日もしないうちに再びこぶじゃくしに覆われるということなので、ひと月とは言え、彼らには大きな進歩として感じられたらしい。
事実、一番最初に私が摘出手術を行ったカイの右腕には、こぶじゃくしは未だ現れていなかった。
しかし、こぶじゃくしが現れない代わりに、そこには猛獣に噛み千切られたかのような傷が残った。
頬ともなれば、こぶじゃくしの層はおそらく口内にまで及んでいるだろうから、摘出した後は、それこそ頬がゲッソリとこけたような状態になるだろう。
食事にさえ不便するかもしれない。女性の顔に一生涯消えない、巨大な傷を残すことに、私は抵抗があった。
だからと言って、こぶじゃくしに寄生されたままの現状が良いかと聞かれれば、当然そんなことはない。
女性の頬の中で、こぶじゃくしは相変わらず自由気ままに蠢いている。
一匹が動けば、その蠢きが周囲に伝染していくため、傍から見ていると、黒く変色した頬そのものが、ブルブルっと、まるまる太った芋虫や毛虫が体を震わせるように動いているように見えるのだ。
近付いてみれば、オタマジャクシによく似た奇妙な虫が、頬の中に何百匹と潜んでいるのが分かる。
正直、何度こぶじゃくしを目の当たりにしても、私はその生き物に慣れるということができなかった。
未だに、こぶじゃくし村を後にする際、自分の腕を無意識にさすっている。こぶじゃくしが最初に現れるのは腰の裏だというのに、私はなぜか腕を触ってしまうのだった。
私は、検体……誰のとも知れない便や尿が入っている木箱を抱えて歩いていく篠目を横目で見ながら、顔に施術する危険性、あるいは後遺症について注意深く患者に説明した。
彼女の顔にどうしようもない怖気を感じていることは、医者としての誇りにかけて気付かれないように表情を取り繕った。
「ええから。先生、ええから。この虫、取ってください」
私の説明が半分も進まないうちに、女性は目頭を押さえてしまった。彼女の苦痛がどれほどのものか、私はその苦痛の縁を垣間見ることができたような気がした。
これから先、彼女は新たな傷と戦うことになるだろうが、覚悟の上だと承知した。
そして施術がすべて終わったとき、ハナという名の患者は弾かれたように沼へ向かって駆け出して行った。
そこに映った自分の姿を見て、ハナは声を上げて泣き始めた。私はその後姿を、何とも言えない気持ちで眺めていた。
彼女の涙が、こぶじゃくしを摘出できたことによる安堵の涙……長年の苦痛から開放された喜びの涙なのか、それとも頬の大部分を失ってしまったことによる喪失……新たな苦痛を与えられた悲しみの涙なのか、まるで見当もつかなかったからだ。
そして、本音を許されるのであれば、私は彼女の本心を知ることを恐れていた。
私は、淡々と次の患者に向かった。
カイが起き出して来たのは、すっかり昼を回った時刻のことだった。私の思い過ごしかもしれないが、今日の彼はいつになく満ち足りた顔をしていた。
立花が残していった指示を伝えると、更にその表情が際立ったように思えた。
女性の傷について考えていたせいか、私はつい仕事に没頭しているカイの右腕に視線を向けてしまっていた。
どちらかと言わずとも体格のいい彼の体の中で、そこだけが削り取られたように凹んでいる。
ふと、彼らが体格がいいのは……あるいは、女性たちがふくよかであるのは、こぶじゃくしが皮膚の内側に大量にいるせいなのではないかと思った。
仮に、彼らの体からこぶじゃくしをすべて摘出すれば、彼らの体は一回りか、あるいは二回りは縮んでしまうのではないだろうか。
そう思うと、胸の中を冷たい風のようなものがすっと通り過ぎていったような思いに捉われた。
男は、何かしら目標を持って生きねばならん、と幕末を生きた私の父は言っていた。
他人が何を言うかは別にして、命をかけられる目標を持って日々を生きている者は、何があっても腐らないと。
動乱の時代を知っている父にしてみれば、明治の太平の世に生きる若者たちが大層、軟弱に映ったらしい。
私はそんな父の言葉を、年老いたものたちが若者たちを見て必ず言う小言のひとつのようにしか考えていなかった。
しかし、今になって、父の言葉の意味が分かったような気がした。
目標を与えられたカイは、実に生き生きしている。生まれつき頭がいい彼のような若者にとっては、単調に単調を重ねたような村の生活は退屈すぎて苦痛でさえあったのかもしれない。
なんだかんだと寄って来る子供たちを適当にあしらいながら、立花の指示を的確にこなしているカイを見て、私はそんなことを考えていた。
彼にとっては、自分の体が縮んでも大した問題ではないのだろう。そう思うと、なぜか私の方が安堵したのだった。