22 ペレスフォード学舎にて
「テオドール様、こちらへ」
長椅子に腰かけたグレイスがとても嬉しそうな微笑みを浮かべながら、自分の太腿の辺りを軽く叩く。
「あー……うん」
静々と横になる。グレイスに膝枕をしてもらう形だ。
グレイスは上機嫌に手にした耳かき棒で俺の耳掃除を始めた。俺としては無心にならなければならない場面である。
「痛かったら仰ってくださいね」
「うん。丁度良い感じ」
グレイスは割とスキンシップに飢えていたようで。迷宮に潜って帰ってきてから。つまり解放状態の後になると、反動解消のためなのかこういうイベントがちょっと増えた。
……まだ、関係は無い。
年齢が年齢だし。グレイスもあんまり世間擦れしていないからそういう知識が無さそうだし。
……婚前交渉は駄目だとか無駄に紳士ぶるつもりはないが別にそういう事ではなく。一番の理由としては一線を越えると歯止めが利かなくなる気がして仕方が無いからだ。
将来の事を考えると、今そうなるのはただの醜聞にしかならないからな。ましてや子供なんてできてしまったらもう、せっかくの人生設計も台無しという感じである。
10歳でそんな事に気を回さなきゃならないとか……ううむ。前世の記憶と常識も良し悪しだな……。
自分の身体の成長上の事もあって今のところは大丈夫だが……もう少し成長したらどうなる事やら。……それまでに下地を整えられるよう頑張ろう。
「そういえば、テオドール様が学舎に行くのは明日でしたか」
ペレスフォード学舎から貰ってきた資料の内容を思い出したのか、グレイスが言う。
「ああ、生活魔法の講義?」
「はい」
講義というか講習というか。
生活魔法の講義は通年でやっているのだが、一通りのカリキュラムをローテーションしているから、講義の頭から受けるために1サイクルが終わるまで待っていた感じだ。
そんな訳で、明けて次の日。俺は学舎に来ていた。
現在いるのは大学の講義室を連想させる作りの部屋である。教卓を見下ろすような形で、受講者の座席が階段に放射状に配置されているという……あれと同じような構造だ。こじんまりしていると言うか、そこまで広い部屋ではないけれど。
貴族と言えど従者や使用人の講義への同伴は許されていない。グレイスに学びたい事があるなら学舎に通ってくれれば良いと、そう伝えてはみたが固辞された。
高い学費を支払ってまで学びたい事が見つからないし、生活魔法は便利だけれど、俺から教えてもらって使えるかどうか確かめないと学費が無駄になる、というのが彼女の弁だ。
まあ確かに……ダンピーラは魔力資質が普通の人間と違うから、いくら保有する魔力が高くても普通の魔法が覚えられるか微妙なラインなようではある。学費を払っても生活魔法が使えなかった、では困るから、そうやって慎重に動くのは間違ってはいないと思うが……。
そういうわけで今、グレイスはこの講義室の、隣にある控室で刺繍をして過ごしているはずである。この辺は貴族教育もやっているペレスフォードならではの設備というか。
使用人、従者、護衛の講義への同伴をペレスフォードは認めていないが、貴族の我儘にも一応対応できるようにしているわけだ。まあ……彼女の影には現在、例の影水銀が潜んでいるのでボディーガードも万全であるし。すぐに駆けつけられる距離である。
――視線を巡らせて、居並ぶ受講者の面々を見てみる。貴族なら身なりか、所作、口ぶりといった、雰囲気で大体解るものなのだが……出席者の比率が貴族3、民間5、どっちとも不明なのが2……といった具合だ。要するに頭数辺りの貴族率が高い。
生活魔法はその目的から市井の者が使うと思われがちだが、実際は下級貴族から上級貴族まで万遍なく需要がある。その結果がこの講義の受講者の内訳に繋がってくるわけだ。
遺伝などという科学的な裏づけや概念があるわけではないけれど……魔術師は貴族や豪商といった有力者連中が身内として取り込みたがる背景があり、貴族には割合魔術師の才能がある者が多い。
だから当然、魔法を学ぼうとする貴族の子弟は多くなるという寸法である。その中で生活魔法を学ぼうとする理由としては……まあ、いくつかある。
例えば騎士爵、準男爵のような金銭にあまり余裕がない者達の動機は、至極真っ当だ。
彼らは身を立てる手段や肩書きを得るために学費をどうしても捻出はするのだが……家は人手が足りないという場合も多い。生活の利便性を向上させるために、自ら生活魔法を身に着けようとする事もある。
裕福な貴族家の子弟はまた別の理由だ。後嗣でないために家を出ていく時の事を考えてという者もいるのだろうが、魔力の制御や各種属性への変換方式を感覚的に学ぶ手段として、生活魔法はその目的以上に重宝されているのだ。
俺の場合は生活魔法を覚えると便利だからという……ただそれだけだ。迷宮に潜る時も手荷物を少なくできるしな。
攻撃魔法や迷宮探索に使える魔法ばかり偏重して覚えているから、習得の順番がまるで逆になっているけれど気にしてはいけない。
「大事な魔法の講義だというから来てみれば生活魔法だと!? 何だってこの俺が、今更こんなつまらない魔法を学ばなきゃならんのだ! こんなものは下々の者が覚えるものだろうが!」
「タ、タルコット様の才能は皆よくご存じです! ですがこれはモーリス様の御意向でして!」
「ああ、うるさい! 何かと言えば親父の名前を出しやがって!」
教室の一角が騒々しくなった。……まあ。意義を解っていない貴族の子弟も中にはいるようだけれど。
顔を赤くして怒る貴族の子供を、使用人だか従者だかが必死になって宥めすかしていた。歳の頃14、5ぐらいの貴族だ。
モーリスにタルコット、か。カーディフ伯爵家の者……だったかな?
モーリスは中央の官吏で地方にも領地を持っているが……そちらの経営は家臣に任せているらしい。その息子のタルコットは魔法の才に相当優れるがかなり乱暴者だとか。それを親が放任しているとか。そんな噂を聞いた事がある。他にも色々聞いているが……まあ、どうでも良い話だ。
貴族社会なんてゴシップ何割かでできてるからな。中央と地方ではあっても、噂話なんて庶子の耳でさえいくらでも流れてくるのだ。醜聞は特に。
とりあえず、カーディフ家は親子共々あんまり良い噂を聞かない連中ではある。そんな噂を裏付けるかのように、連中の醜態を他の連中も割合冷ややかな目で見ているのが印象的だ。
はあ……。実家の馬鹿二匹を思い出す立ち居振る舞いだ。同じ伯爵家というのもちょっと何て言うか……色々嫌だ。
他の連中は冷笑しているが、俺には色々思う所があって笑えないというか、全く面白い見世物には見えない。とりあえず、何とか他の魔法の講義を増やすとか何とか、そういう方向で話は纏まったようだ。
アシュレイが教室に入ってきたのはその騒動が落ち着いて、少ししてからだった。中々タイミングが良い。あんな見苦しいもの見なくて済むのなら俺もそうしたかった。
「あ、テオドール様。おはようございます」
「おはようございます。アシュレイ様」
そんなアシュレイは教室を見渡して俺を見つけると、相好を崩して近付いてきて、隣に座る。
「テオドール様は今日が初めての講義でしたか?」
「僕は生活魔法だけしか受ける予定がないですから」
ロゼッタ辺りが格闘師範でもやっているならその講義を受けても良かったけれど。
生憎彼女は回復魔法の講義を専門にやっているわけで、どちらかというとロゼッタにはアシュレイがお世話になる感じだろう。
「そういえば、回復魔法の習得はどうでしたか?」
「テオドール様が下さったメモですね。初級はもうばっちりです。講師のロゼッタ先生にも筋が良いと褒めていただけました」
「それは何よりです」
「いえ、テオドール様のお陰ですから」
と、アシュレイは言うが、あのメモと簡単なレクチャーだけですぐに初級の治癒魔法を使えるようになるとか、やっぱり才能だろう。
治癒魔法の習得に向いてるのは解っていたけど……予想以上に治癒魔法の使い手として優秀だな、アシュレイは。
「生活魔法を覚えて鍛えたら、無詠唱もそのうちできるようになるかな、と思っているんですが」
「ああ。それはあるかも知れませんね」
ロゼッタに気に入られて高弟になって裏魔法とか教えられなきゃいいけどな……。格闘術は無いとしても。
「あ。先生がいらっしゃいました」
アシュレイに言われて前を見ると、初老の講師が教室に入ってくるという場面だった。
さて。生活魔法か。どんな授業になる事やら。