21 遠い記憶
「……そういうわけで。ベリーネはそんな風に考えてるんだろう」
「そうだったのですか。皆、色々と考えるものなんですね」
家に戻ったところで腰を落ち着け、グレイスに事情を説明すると彼女は感心したように頷いた。
いや、ああやって色々考えるのはベリーネだけで十分だ。
ベリーネが持ってきた話はしっかりと、俺が考えないといけない事だ。別個の縁談としてしっかりと見る必要があるというのは俺の方だけで。もし進むなら全力を尽くすし。そうでないならきっぱりと退く。
ただ、ここからの話をするに辺り、その話がどうなるにしてもグレイスに伝えておかないといけないだろうとは思うけれど。
「だからそれを前提条件としたうえで、グレイスに聞かなきゃならない事がある」
「は、はい」
真剣な面持ちでグレイスを見据えると、彼女も居住まいを正す。
グレイスが今、俺の隣にいてくれるのは……そもそもが、母さんに助けられた恩義があるからだ。
そこは勘違いしてはいけないだろう。
俺自身は今までグレイスの世話になってばかりで、何も返せてないのだし。
だから、家を出る時にどうするかは彼女の意志に委ねた。
俺が――タームウィルズに居場所を作れば、それは彼女の居場所にもなるだろう。
けれどグレイスの足場を固めるには、まだそれだけでは足りていないんだ。吸血鬼との混血である故に、彼女の立場はかなり不安定なものだから。
じゃあどうすればいいのか。
答えは単純だ。俺が立場を確固たるものにしたうえで、彼女が頷いてくれさえすれば、だけれど。
それを聞くのは……断られたらと思うと、怖いけれど。それでも。
俺がいなくなった後で、呪具を委ねてもいいと思える相手がいるとしたら、それは彼女自身が選んだ相手だけだから。……或いは、その家族や子孫、か。それならば。
彼女が頷いてくれるなら。俺にだって隣に立って良い余地がある。
「グレイスは俺に仕えるって言ってくれたけど。母さんへの恩を理由に甘えているのは嫌なんだ。ここにいる理由が恩義や仕事だからなら、それでもいい。でもグレイス自身の人生は、それとは明確に分けてくれて良いんだよ」
一旦言葉を区切り、大きく息を吸って瞑目する。そして目を開き、真っ直ぐ彼女を見て口にする。
「だけどグレイスが一緒に歩く相手も俺で良いって言ってくれるなら。俺はずっと隣に居てほしいって思ってる」
「……それ、は」
グレイスは驚いたような表情をしているけれど。誤解がないようにちゃんと言っておこう。
「俺と結婚してほしい。まだ先の話になるだろうけど」
まだ先の話で――俺がもっと自分の足場を固めなければ、グレイスの将来にとって意味の無い話になってしまうだろうけれど。
「……お話は、解りました」
グレイスは目を閉じて答える。
祈るような気持ちで、彼女の答えを待つ。
他の――誰にどう思われても良いけれど。グレイスに拒絶されるのは――。
「私からも……答えを返す前にテオドール様にどうしてもお伝えしておきたい事があります」
彼女もどこか緊張した面持ちで、大きく深呼吸をした。
「リサ様への恩だけで、私はここにいるわけじゃないんです」
グレイスは、口にする。
母さんと、俺とグレイスが。初めて会った日の事を。
「私は――両親を亡くして、行く当てもなく彷徨っていました。混血の子に寄る辺なんてどこにもなくて。人の世に混ざろうとすれば石と杭で追われるのです。誰も、私に手など差し伸べてなどくれなかった。でもまあ、それは仕方が無い事だと思います。私の手は――簡単に人を殺してしまえるし」
それは呪具が無かった頃の話、か。
「ずっとお腹が空いていて。でも人を食べ物として見てしまうのも嫌で。だから私は何もかもが怖くて、リサ様に拾っていただくまで森に隠れ住んでいました。吸血衝動はありましたが、半分は人ですから。普通の食べ物だけでも生きていけるのです。とても……苦しかったですけど」
「……うん」
それは教えてもらった事がある。
食欲を満たせても「半分」だけなんだそうな。今は呪具で特性ごと抑えてしまっているからそんな事もないそうだけれど。
「リサ様と初めてお会いした日の事――テオドール様は覚えていらっしゃらないと思いますが。最初に私に気が付いたのは、リサ様よりテオドール様の方が先なのです。リサ様に抱えられた小さなテオドール様は、茂みの中にいた私と目が合った時に……微笑んでくださった。そんな事、私の母以外では生まれて初めてで。それが、とても嬉しくて……悲しくて。気が付いたら私は胸がいっぱいになって、泣いていました」
「それは……」
ダンピーラだから人に受け入れられなかった。それは解る。
でも赤ん坊だか幼児だった俺が、顔を合わせて笑ったから。
そんなのは……偶々じゃないだろうか?
俺の言いたい事は解ると、グレイスは微笑んで首を小さく横に振った。
「それがあったから、リサ様も私に気付いて……この指輪を下さった。私に居場所を下さった。だから私のこの手は、子供をあやしても傷つけたりしなくて済むのです。テオドール様は、私がどんな姿を見せても一度も怖がった事がありません。忌み嫌ったり……した事がありません。それでどれだけ私が救われてきたか、解りますか?」
グレイスは己の胸に手を当て、言う。
「テオドール様が私に隣に居てほしいと伝えてくださったから……私も言います。私は昔から今でも――ずっとずっと浅ましいままです。吸血衝動の反動が空腹になって表れると、私は伝えましたね。今は吸血衝動の反動があっても空腹にはなりません。その違いは、どこにあると思いますか? 衝動が、何に由来しているか解りますか?」
何に由来する、か。
……ああ。そういう事か。吸血鬼が吸血を行う目的の一つは食事だ。腹が減ったから獲物を求める。単純な話だ。
だけれど、もう一つの意味がそこにはある。つまり……仲間を増やすという事。
グレイスが俺の側にいれば、満たされて衝動が落ち着くという事は。何に由来する衝動が、何に反動として転換されているのかなんて、単純に考えれば明白じゃないか。
……いや、やっぱり種明かしをしてもらえれば、か。自分で思いついたとしても自意識過剰の自惚れだと、一笑に付しただろうし。
「落ち着かない気持ちだなんて、誤魔化しですよね。私もテオドール様に着替えや入浴を手伝わなくていいと言われてから、ずっと考えていたから、それが何なのかは、少しずつ解ってきてはいたんですよ」
……グレイスだって小さい頃のままじゃない。成長に伴って俺への感情の変化や知識の増加だってあっただろう。
自分の感情を何と表現するのが正しいのか。俺を抱きしめていると自分の反動が解消される。その理由も、言い表すべき正しい言葉も。次第に理解したのだろうけれど。
「小さな頃のようにテオドール様の不安を取り除けるなら……それでもいいんじゃないかって、私の方こそ優しさに甘えていたんです。きちんと伝えたら、テオドール様が私を遠ざけてしまうんじゃないかって……怖かった」
グレイスは辛そうに目を閉じる。
呪具があるから主へ危害を加える事は叶わないけれど。
それを感じてしまう気持ちがあるという事実は動かないから、か。
「だから今の話をしたうえで、お聞きします。こんな浅ましい私なんかで、良いのですか?」
恐る恐るといった様子でグレイスに聞かれるが、俺の答えは決まっている。
「さっき伝えた通りだ。それで問題があるなんて、思わない」
「テオドール……様」
「そんな気持ちに由来する吸血衝動なら、向けられたって嬉しいだけに決まってるだろ?」
言っていて顔が熱くなってくるのが解る。……格好がつかないな、全く。
他人を好きになる事を、止めるなんて無理なんだし。
気持ちを伝えて拒絶されたら怖いというのは、さっきグレイスに話を切り出す前に俺が感じた恐怖、そのままだろう。そういう気持ちはグレイスの方が、もっと強いだろうし。
「いいんです、か。こんな。私なんかで。きっと、絶対迷惑をかけます」
呆然とした面持ちで問うてくる。
「グレイスがいいんだ。俺だって多分、グレイスに迷惑や心配をかける事になるだろうし」
「そっ、そんな事。……あ、ああ。さっきのベリーネ様のお話ですか?」
「ん……まあ、それもあるだろうけど」
グレイスは微笑んで首を横に振った。
「誰でもというのは確かに……ちょっと困りますが。それがアシュレイ様なら私は納得できますし、少し嬉しくもありますね。あの方の事は、私も応援したいと思っていますから」
「……そうなの?」
「はい。アシュレイ様は、多分テオドール様に――」
グレイスは言いさして、首を小さく横に振った。
「……止めておきます。きっとそれをテオドール様に伝えたいのはアシュレイ様で、私が言うべき事じゃないと思いますので」
……なんだろう。ちょっと気になるな。グレイスを見てもどこか悪戯っぽく目を細められただけだった。
二人はシルンの屋敷でも色々話していたから……何か、俺の知らないやり取りがあったのかも知れない。仲が妙に良好なのも、その辺が理由か。
「テオドール様?」
「ん」
「名前を――昔みたいに呼んでもいいですか? せめて、今だけでも」
「……いいよ」
そんな事。グレイスが望むならいつだって構わない。
笑みを向けると、グレイスも嬉しそうに微笑んで言った。
「――ありがとう、テオ」