120 イルムヒルトの帰郷
長閑な田舎の農村。
最初に抱いた印象はそんなものだった。青い空。遠くに広がる山々。流れる小川。
クラウディアと共に転移して、迷宮の外に出たのかと思ったほどだ。だが、実際はそうではない。
「これ――壁なんですか?」
アシュレイが、村と外界の境――木の柵の向こうに手を伸ばし――何もないように見える空間を軽く撫でる。今いる場所は村の入口だ。俺達の背後には階段がある。
「それは外壁というか、天幕ね。天幕の内側に外の景色を映しているのよ。この区画は――元々は作物を育てるための区画だわ。最も居住に適している、とも言えるかしら」
クラウディアが、答える。
そう。遠景そのものが、迷宮の区画を仕切る外壁だ。セラフィナが面白そうに天幕に触れて上の方へと登っていく。
……であるなら、ここは間違いなく迷宮内部なのだろう。
遠くに見える山も。頭上に広がる空も――全てモニターに映し出された景色と同じ。
どうやら、大きなドーム状の空間内部に村が作られているらしい。天幕に景色が映し出されて、一見すると外、と言ったところだろうか。
幻術の類と言っても良いのだろうが、迷宮外部でこれと同じ物を再現するのは――この規模で恒常的に維持し続けるのは無理だろう。
「まず、はっきりさせておく事があるわ」
クラウディアは目を細めて、言った。視線の先には、村の奥に目をやって落ち着かない様子のイルムヒルトだ。シーラがそっと寄り添っている。
「イルムヒルト。あなたは自分が迷宮の魔物と同じではないかと思っているのでしょうが、それは違う。あなたは……いえ。この村の住人達は、元はと言えばずっと昔に外からやってきて……そしてあなたはここで生まれ、ある程度の年齢まで育ったという、それだけよ」
「……そう、なんですか?」
「ええ。だから迷宮の魔物がどうであれ……あなた自身の何かが揺らぐことはない。それは理解して。順を追って説明していくから」
イルムヒルトが神妙な面持ちで頷く。
「だから……この区画とその中にいる魔物達は、他とは役割も成り立ちも、違う。襲ってくる事はないから攻撃を仕掛けないで」
そう俺達に告げてくるクラウディアは、真剣な眼差しだった。イルムヒルトに言ったというより、俺達全員に念を押した、というところか。命令というより、懇願しているように見えたけれど。
俺達が頷くと、クラウディアはそれで納得したらしく、先頭に立って村の中へと歩いていく。俺達もクラウディアの後に続いた。
確かに、ここはイルムヒルトが暮らした村なのだろうが、ここに案内するという事は、ある程度迷宮の秘密を開示してしまう、という事でもあるだろう。
村は――見た目を裏切らずに正しく「普通の農村」だった。但し、住人達は全て魔物だ。
雑多な種類の魔物達だが――総じて人間に友好的な態度を取る種族の魔物達ばかりだ。
畑仕事をしていたケンタウロスは俺達の姿を認めて、怪訝そうな面持ちを浮かべた。しかしクラウディアが軽く手を挙げて問題がないという意を示すと、小さく会釈して自分の仕事に戻る。何だろうか。クラウディアの言が正しければ作り物ではないのだろうが……純朴と言うのも、少々違う気がするな。
「あの子らは、ここにいる事を受け入れている者達」
クラウディアは静かに言う。
「受け入れている?」
尋ねると、クラウディアは頷く。
「というより、今更外に出るのが怖いのね。ええっと。まずあの子達と、迷宮の魔物の違いを説明する必要があるかしら」
そう、だな。迷宮の魔物は普通とは異なる。
恐れを知らず向かってくる魔物は――通常の魔物とは思考形態そのものが違っている。ある意味では、外の魔物より凶暴と言えるかも知れない。
「……迷宮の魔物が、普通とは違うのは気付いていると思うけれど。あれは迷宮に従って防衛を行う兵隊。魂の篭らぬ人形というのが一番正しいわ」
「人形……ね」
「不思議かしら?」
「それは、まあ」
あれらが魔物の人形のような物だというのはまあ良いとしても……殆ど無限に生み出されるリソースはいったい何処から来るのか。
「膨大な魔力があれば、肉の器を作る事は不可能ではないわ。ホムンクルス然り、治癒魔法然り、ね」
俺の疑問に、クラウディアは答えてくれた。
なるほど……魔力こそが資源か。では、その魔力はどこから来るのかという話になる。
あまり――クラウディアに根堀り葉掘り聞くべきではないんだろうとは思うが、聞かされた以上は色々と思考を巡らせてしまうのは止めようもない。
考えられる可能性としては――迷宮は天体の動きと連動しているから月や星々の魔力を集めているだとか。或いは本当に女神シュアスかそれに比肩する者やら迷宮のコアのようなものが迷宮の奥に存在していて、それが供給しているか、というところだろうか。
クラウディアが兵隊を作っている、とも考えにくい。迷宮について、自由になる部分も少なそうに見えるし。
歩いているうちに、イルムヒルトは段々と記憶が蘇ってきたのか。次第に早足になってくる。
「お父さん! お母さん!」
村の中から自分の家を見出したらしく、最後には完全に駆け出して一軒の家に飛び込んでいった。俺達も彼女を追って、家の中に入ってみれば――。
そこにはナーガとラミアの夫婦がいて。イルムヒルトを、驚いたような顔で見ていた。ラミアは寝台の上に横たわっていて顔色はあまり良くない。
「イルム……」
「お母さん……ッ」
ふ、と柔らかい笑みを浮かべて、イルムヒルトを迎え入れ、抱きしめる。
イルムヒルトは両親の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らしていた。両親は――優しい笑みを浮かべている。
長い期間を経ての再会――と言うには、両親はやや淡白な反応ではある。かと言って、イルムヒルトに対して嫌悪があるというようには見えない。よく見れば、2人とも目尻に涙を浮かべていた。
先程の村人達の反応にしてもそうだが……喜怒哀楽の振れ幅が、非常に小さいと見るべきか。
「……もう少し、話をしましょうか」
クラウディアは小首を傾げて、言う。
イルムヒルトの両親との再会は――イルムヒルトだけのものだ。俺達が見ていなければならない必要は、ない。彼女に危険がないのなら、それでいいだろう。
イルムヒルトの家の裏手。小川のほとりの、日当たりの良い草の上に移動すると、クラウディアはそこに腰を落ち着けた。俺達も、彼女に倣う。
……迷宮内というのを忘れてしまうぐらいには、長閑だな。
「この村の住人は……人間と争う事を怖がって迷宮に逃げ込んだ魔物達の末裔なの。けれど迷宮の魔物は外部の者を排除するために動く。それは村の住人も例外ではない。村の住人が身に着けている、腕輪は見た?」
……そういえば。全員が同じような腕輪を身に着けていたな。
「あれは、呪具。感情の振れ幅を小さくする代わりに、迷宮にとって異物と認識させなくするためのもの。住人はそれを身に着け受け入れる事で……ここでの生活を可能にしている。けれどね――」
クラウディアは小さく溜息を吐く。
「何事にも、相性というものはあるのよ。イルムヒルトの魔力資質は、あの呪具と相性が悪くて……成長による彼女自身の意識の発達と共に、迷宮側に隠蔽するのが、段々と困難になっていくのが、分かっていた。過去にも事例があったからね」
「それで……破綻する前に人化の術を身に付けさせて迷宮の外に出した、と」
思えば……イルムヒルトは最初から、タームウィルズで暮らすために必要な知識や人化の術を身に付けていたところがある。
最初から見越して外の世界に出るための準備をしていた、か。あまり情報を与えなかったのは、この場所が発覚するのを恐れてなのだろうが。
「イルムヒルトの父親は人化の術が使えない。イルムヒルトの母親は産後の肥立ちが悪くて身体が弱い。……一緒に外に出ても重荷になってしまう事が分かっていたから」
「……月神殿に身よりのない子供を送り出せば、神殿の運営する孤児院で保護される事が分かっていたから、と?」
「……それは――ええ、その通りよ」
返答までは、一瞬間があった。どう答えるべきか迷ったという印象だ。
女神シュアスがいるのなら……神託でもなんでもしてイルムヒルトを保護させるだろうとは思う。だがそうすると……シュアスの意志と迷宮管理側の意志が異なるようにも感じられてしまう。
……何だろう。やはりシュアスは関係無かったりするのだろうか? その割には、クラウディアはイルムヒルトの処遇について悪い事にならないと、ある程度の確信があったような受け答えではあるし。……うーん。
「上の階層から魔物が降りてこないようにするとか。魔物がこの村の中に湧いてこないようにするとか。そういう対処では私の力が尽きてしまったらそこでお終いだから。人化の術を身につけてもらって、外で生きてもらうしかなかった」
「そうすると……俺達がここにいるのは問題が?」
「問題はあるけれど。1日や2日ぐらいなら抑え込めるから。今日はここに滞在していっても大丈夫よ」
クラウディアはイルムヒルトの家を一瞬横目で見て、そんな事を言った。
まあ……久しぶりの親子の再会だもんな。これはクラウディアの厚意というところか。
「そういう事なら、今日はここに泊まっていこうか?」
「それは、良いですね。ご迷惑でなければ」
「イルムヒルトの故郷、もっと見たい」
みんなに異存は無いようであった。
「ではテオ。危険は無さそうですので封印をお願いしてもいいでしょうか?」
グレイスが言う。そうだな。滞在するならグレイスの封印は、しておかなければならないだろう。
彼女の手を取って呪具を発動させたその時。
一瞬クラウディアが目を丸くしたのが解った。何故? グレイスの指輪を見て、か?
驚いているのはこちらも同じだ。これは、母が作ったものなのだから。クラウディアは……反応してしまっては何か言わなければと思ったのか、小さくかぶりを振って、口を開く。
「……ごめんなさい。ここの住人の腕輪と似た術式の指輪だから、少し驚いてしまったわ」
「……似ている。確かに、そうかも知れない」
種族的特性を封じる事で、力を封じる指輪と。喜怒哀楽を抑える事で、迷宮の排除から逃れる腕輪と。
だけど、その術式が似ているというのは、どういうわけなんだ?
……クラウディアは気まずそうに視線を逸らしている。恐らく触れられたくない部分なのかも知れない。例えば……術式の来歴とか。
だったら、彼女に話を聞くべきではないな。味方をしてくれているのは間違いないのだし、事情が分からない以上それを俺に話すと彼女の立場が悪くなるなんて事も、あるかも知れない。……話題を変えるか。
「……ウニを」
「え?」
俺が何を言っているか解らない、というように、クラウディアは聞き返してくる。
「ウニを獲ってきたんだけど。今日の夕食に、一緒に食べない?」
「……別にいいけど。タコが自分の足を食べるような物ね」
クラウディアは、そんな風に苦笑した。
「クラウディア様」
イルムヒルトが両親に付き添われるようにして家から出てくる。泣いて目を赤くしているイルムヒルトを見て、クラウディアは、どこか不安げな表情を浮かべた。
「……イルムヒルト。あなたには、きっと恨まれていると思うけれど」
「いいえ」
イルムヒルトは首を横に振る。
「思い出したんです。私に、人化の術を教えてくださいましたね? リュートを持たせて、呪曲を使えるようにと、演奏を教えてくださいましたよね?」
「……」
クラウディアは、答えない。静かに目を閉じただけだが……多分それが事実なのだろう。
「だから、クラウディア様には、感謝しています」
「……そう」
クラウディアは、静かに頷いた。




