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懐かしの我が級友たち(1)「ピアニスト茉莉」  作者: 石原裕


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9/11

第9話 謙一の作品は「奨励賞」を貰った

 先ずは「面訂」という作業である。トクサで印面を平らにする、肉眼ではなかなか確認出来ない程の印面のがたつきをトクサで擦って平に修正する。力を入れ過ぎるときちっとした平面が出ずに歪んでしまって、後の彫刻作業に支障をきたす。経験を積み、勘を掴めばきちんとした水平が出るようになるが、未熟な謙一は何度も何度もやり直さなければならなかった。

「なあ、高田。ぼちぼちと、な。慌てるんじゃないぞ、じっくりと自分で納得の行く仕事をするんだぞ」

先輩職人がそう言って励ましてくれた。

 何とか自分で納得の行く水平が出せた謙一は次に「朱打ち」の作業を始めた。粗彫りを行う際に筆書きした文字や図柄の線が判り易いように、朱色の墨を印面に均一に塗る作業である。「字入れ」は墨で行うので、この朱色の墨が残った部分を粗彫りで彫って行く訳であるが、印面に均一に墨を打つのはなかなか難しく、(有)龍鳳印刻堂へ入った頃にはよく師匠に叱られたものだった。

 「朱打ち」が終わると次は「字割り」である。これは、分指しと言う定規のような道具を使って印面に線を引き、文字や絵柄を入れる比率のバランスを決める工程である。全体の印象を左右する重要な作業であった。謙一は文字の密度や全体のバランスを見ながら、最も美しい仕上がりになるように練り上げていった。

 文字と絵柄の配置を決めた後は、愈々、「印稿」というデザインを書き入れる作業である。小筆を使って印面に直接文字と絵柄を書いて行く作業であるが、印鑑なので当然ながら左右反転で描かなければならない。この「字入れ」と言う作業の出来が美しくないと、幾ら綺麗に彫ってもなかなか満足出来る手彫り印鑑には成らない。朱墨で何度も修正を重ねながら、謙一は納得行くまでデザインを練り直した。

 「字入れ」が完成すると次は「粗彫り」に入るが、謙一は此処までの作業に略一週間近くも掛かってしまった。初めて独りでする仕事は、未熟な技能しか身についていない謙一には殆どが始めてに等しかった。彼は慣れない手つきで懸命に作業を続けた。

 翌日から謙一は「粗彫り」の作業に取り掛かった。

墨で手書きした文字と絵柄以外の、朱墨が残った部分を彫る作業である。謙一は文字や絵柄を傷つけないように細心の注意を払いながら、印刀で丁寧に慎重に彫って行った。龍鳳のような一等彫刻師は、それが真骨頂の如く、流麗な刀捌きを冴え渡らせるが、慣れない未熟な謙一は丸一日も費やしてやっと彫り終わる有様だった。

 漸く粗彫りが終わった後、謙一はもう一度トクサで印面を擦って、一度打った墨を全て落とした。「字入れ」作業の際に何度も墨で修正を重ねたので、印面には墨による凹凸が出来ていたからである。

 面擦りで凹凸を綺麗に修正した謙一は、再度、印面に墨を打った。仕上げ彫りの際に、粗彫りで彫った文字と絵柄の輪郭を確認し易くする為である。これは仕上げ彫りの完成度を高めるのに欠かすことの出来ない作業であった。

 さて、愈々、仕上げ刀で文字と絵柄と枠を仕上げる大事な作業である。文字と絵柄に生き生きとした躍動感を生み出し、印刻師が全身全霊で印鑑に生命を吹き込む最も大切な作業である。謙一は僅かコンマ数ミリの微調整を二日の間、続けた。

後ろから覗き込んだ先輩が言った。

「文字と絵柄だけに集中するんじゃなく、枠にも気を配れよ。枠を欠け難くする為に土手を少し厚く仕上げるんだぞ。そうすれば耐久性が高まるからな」

 一心不乱に仕上げて漸く納得した謙一は、イメージ通りに仕上がっているかどうかを確認する為に、紙に試し押しをして見た。一応、これで良し、と思って押してみたが、未だ未だ修正を要するポイントが幾つか見つかった。この修正は困難を極めた。根気の要る、精根尽きる気の遠くなるような微調整が又、一日続いた。試し押しを重ねながら、イメージ通りになるまで、何度も仕上げ刀を握って、謙一は自分で納得の出来る完成を目指した。

 漸く最終調整を終えて、これが完成品だ、と思えるものが出来上がった時、謙一の心に、やったあ、という達成感とこれまでに味わったことの無い幸福感が沸々と湧き上がって来た。

印鑑を手に取り、試し押しを見た龍鳳が、う~ん、と唸った。

「良い出来栄えだ、高田君。君が心血を注いだこの半月間の全てが凝縮されている。草書体の文字は動きのある豊穣な線になっているし、昇竜は今にも飛び出さんばかりの迫力ある息吹に満ちている。誰が見ても素晴しいと思うんじゃないか」

龍鳳の賞賛を聞いて謙一は心の底から嬉しかった。初めて先生から褒められた!

それからホッとした気持が込み上げて来た、ああ、やっと一つやり遂げたぁ、と。

「印鑑の印影には彫った人間の人柄や価値観が出るものだからな」

それから龍鳳は思いも寄らぬことを謙一に言った。

「なあ高田君。この印章をこの秋に行われる技術競技会に出品しようじゃないか。全日本印章連盟が主催する全国規模の競技会だ、是非、出品しようや、な」

「然し、先生、その依頼人の方には直ぐに渡さなくても良いんですか?」

「先方には競技会が終わってから進呈しても遅くはないだろう」

謙一は素直に龍鳳に従った。

「解かりました、宜しくお願いします」

 謙一は出品に合わせて印箱を誂えた。中も外も漆黒に塗った四角い箱に、すっぽりと被さる蓋の天面には緑青の竹を描いて紅く色づいた葉っぱを散らした。シックな中にも雅と華やぎが匂い立つ格好の印箱が出来上がった。

 競技会の審査で謙一の作品は「奨励賞」を貰った。選外ではあったが、若手の作で、将来を期待出来るものに授与される賞であった。謙一は心底、喜んだ。老婦人に進呈するのにこの上ない華を添えることが出来た、と思った。

龍鳳の出品作は厚生労働大臣賞に輝いた。彼の彫った開運吉相体の印章は独創性と特異性に富んだ見事なものだった。流石に一等印刻師龍鳳の作品だった。

 だが、当初、夜に大学へ通って居残り仕事が出来なかった謙一は、腕を磨く時間の遣り繰りに四苦八苦した。休みの日に独り工房に籠もって自学自習するしか無かった。

幸先の良いスタートを切って、その行き先に仄灯りが見えたと思ったのも束の間で、その後、謙一の腕は伸び悩んだ。龍鳳や先輩の指導は一段と厳しさを増して行った。二級印刻師の資格を得るなど遠い夢の如くに思われた。

 或る日、大学の親しい友人が何気無く言った一言が謙一の胸に重く響いた。

「人間、知っていることと解っていることとそれらが出来ることとは全く違うんだよな」

そうだ、知っていても出来ないことは山ほど有る、寧ろ出来ないことの方が多いだろう、謙一はそう考えてもう一度基礎の技を固めることにした。どんなに素晴しいアイディアやデザインが有っても腕が未熟では彫り上げることは出来はしない。

 謙一は又、こつこつと自分の腕を磨くことに精を出した。見よう見真似で彫刻刀を握り、どうしても解らないところは先輩職人に教えを乞うて、宛がわれた仕事の中で自分なりの工夫を凝らした。毎日、高い天窓から明るく陽光が差し込む工房で、先輩達と一緒に背中を曲げて印章を彫った。


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