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懐かしの我が級友たち(1)「ピアニスト茉莉」  作者: 石原裕


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第10話 「お前、作曲でも始めて見ないか」

 謙一の話を黙って頷きながら聞いていた茉莉の心に、昇る朝陽にキラッ、キラッと光る小さな波の瀬が見えた、気がした。

謙ちゃんも自分と闘いながら独りで頑張っているんだ・・・

謙一が最後にこう言った言葉が茉莉の胸に染みた。

「お前と俺は十八年もの間、隣同士で育った、何もかも知り合った幼馴染なんだ。俺はお前のことを何が有っても、どんな時でもきっと支えてやるからな。苦しい時や辛い時には何でも言って来いよ、な」

茉莉の胸に温かいものがじわぁ~っと拡がり、その温もりに心が少し溶けるようだった。

 

 茉莉が実家に戻って二ヶ月が過ぎた。

既に桜が散りつつじが散り皐月が散って、眼に染みる新緑も愈々深みが増している季節になっていた。茉莉はこの二ヶ月の間、そんな季節の移り変わりは眼にも心にも留めることなく、じっと自室に閉じ籠ったまま暮らし続けて来た。

 謙一が茉莉を外へ連れ出しにやって来た。

梅雨には少し間があるこの時節の空は、未だ雨の心配は無く、薄雲が所々にふんわりと浮かんでいるだけで良く晴れていた。

二人は週末の人出で賑う繁華街や大通りを避けて、山手の方へダラダラ坂を登って行った。やがて、曲がりくねった山沿いの道の眼下に大きな川が見えて来た。ダムからの豊量な水を湛えた川面には、近くの山々の深い青葉が折からの風に揺らめいていた。

二人は摂り止めも無い話をしながらゆっくりと歩を進めた。

茉莉は両手を空に伸ばしながら、大きく息を吸い込み、そして、ふう~っと吐いた。

突然、謙一が足を止めて茉莉と向き合い、予期しなかったことを言った。

「なあ茉莉、何日までもそうやって毎日打ちひしがれていてもどうにも成りゃしないだろう。俺は音楽のことは良く解らんが、メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽だろう。メロディーは自分自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものではないのか?どうだ、作曲でも始めてみないか?お前は小さい頃から曲を作るのは好きだったんだろう?」

「難聴のわたしが曲を作るの?」

「何を言っているんだよ、全聾でも交響曲を作っている作曲家が居るんだぞ、お前も名前くらいは知っているだろう。お前の右耳はちゃんと聞こえるんだろう、だったら、ピアノの鍵盤を叩いて採譜するくらいは出来るんじゃないのか」

茉莉はハッと我に帰った気がした。

「クラシックやスタンダード、交響曲やジャズのような大層なものでなくても、ポップスでも抒情歌でも歌謡曲でも童謡でも、何でも良いじゃないか、なあ」

そうか、作曲か・・・音楽は耳で聴くだけが全てじゃない、絶対音感が有れば頭と心で音楽を作ることが出来るかもしれない、ピアノを弾いたり他の楽器を奏でたり歌を唄ったりするのはプロとして無理かも知れないけれど、曲作りなら私にも出来るかも知れない、茉莉はそう思うと、一筋の光が眼の前に見えたように思った。

このままジャズピアニストに拘り続けても、この先、どうなるものでもない。いっそ思い切って、もう一度、一から出直してみようか、それも悪くはないかも知れない、駄目だったとしても元々ではないか、何とかなるだろう。

茉莉は少し楽になった、気がした。

悲しみは消えはしないし容易く乗り越えることも出来ないが、曲作りを始めれば時が少しずつ癒してくれるかもしれない、生きるに支障が無い程度に回復してくれればそれで良いんだ、茉莉はそう思って謙一に微笑みかけた。が、その貌は泣き笑いの顔だった。

「俺は、自分の道は自分で切り開く、固くそう思っている。そりゃ躓きよろけることもあるだろうが、その時には、泥水が撥ねたこの瞼に「忍」の字を書いて涙を食い止める心算だ。なあ茉莉、花は咲いて初めて綺麗なんだろう。綺麗な花を咲かせる為に生まれた時から死ぬ日まで、一心に打ち込むのが人というものじゃないのか?」

「・・・・・」

「人間、頼れるのは自分一人だぞ。人は墓場に行く日まで自分の選んだ道を守り通すものだ。夢を捨てるのは命を閉じる時だ。お前には楽曲作りという夢が有るじゃないか」

茉莉には言う言葉が無かった。

茉莉は嬉しかった。謙一の言葉は憐憫や同情から出たものではなかった。心から茉莉の再生を願う真実の言葉だった。

「子供の頃、おふくろによく言われたんだ、人様に後ろ指を差されないような良い道を歩いておくれよって。それが今でも胸に突き刺さっているんだよ。尤も、若い俺たちには世間の風は厳しくて冷たいけどな」

謙一はそう言って、はっはっはっと笑った。

茉莉は黙って謙一を見詰めた。何を言うことも何をすることも出来なかった。

 

 散歩から戻った茉莉は、ふと、応接間に在るピアノの天蓋を開けてみた。ピアノは其処にずうっと在り続けていたが、今日まで茉莉の眼にも心にも留まることはなかった。

茉莉は人差指で鍵盤をポロン、ポロンと叩いてみた。ピアノ教室に通っていた子供の頃の、小さな指の音が聞こえた。それから、徐に、その頃の練習曲を軽くさらってみた。心と頭が独り手に音を紡ぎ出した。茉莉の眼からまた涙が零れ落ちた。子供の頃の懐かしい日々がふつふつと甦って来た。

 それから茉莉は、自室の本棚に立て掛けられた幼い頃の音楽ノートを取り出して、ページを捲ってみた。そこには子供の頃に自分で作った幾つかの曲が五線紙の上に音符を並べていたが、そのどれもが茉莉の頭の中で楽曲として甦り、その頃イメージした情景が心の中に鮮明に浮かんで来た。茉莉はまた眼に涙してあの頃を懐かしんだ。胸の中には温かいものが込み上げていた。

 暫くして、茉莉の生活態度が少し変わり始めた。

晴れた日には物干し竿に洗濯物を吊るしたり、夕方にはそれを取り込んだりする姿が見られるようになったし、台所に母親と並んで立って料理を手作りする茉莉が居たりするようになった。近くのスーパーで肉や魚や野菜等の食材を買ってレジに並ぶ姿も間々見られた。

そうして茉莉は、思うこと、感じること、観るもの、聴くもの、それらを率直に頭と心で音にして五線紙の上に載せて行くようになった。

 茉莉は音大に通った三年間で、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法等々の曲作りや演奏法の基礎をほぼ習得し終えていたので、専ら習作とその編曲に打ち込んだ。

茉莉は先ず曲のメロディーを創り、そのメロディーに合うコードを書き出してピアノで弾いてみた。それから、楽曲のイメージを最大限に生かす為に、どのような楽器を使用しどのようにハーモニーやリズムを整えるか、楽器の効果を曲のどの場面で生かすべきか等、楽曲の性格を決める作業を、絶対音感を頼りに繰り返し何度も行った。

 膨大な量の譜面が出来て行った。そして、編曲のやり方一つで楽曲の持つイメージはがらりと変わった。編曲がその曲のイメージを決定付けると言っても過言ではないように思われた。同じ曲が編曲によって、ロック風やポップス風、フォーク風になり、時には歌謡曲風や演歌風にさえ成り得た。茉莉は、編曲ではどのような楽器を用い、どのように演奏させるかが重要になる、と理解した。更に、楽曲には、音楽の組立、モティーフ、フレーズ、フィギュア、リズムという五つの構成要素があるが、統一したスタイルを持たせる為にはリズムの選択も非常に重要であった。

 茉莉は来る日も来る日も曲創りとその編曲に勤しんだ。そうすることで茉莉の心は少しずつ解き放たれて行くようだった。


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