第46話 幕間 ロウリーユ家の化け物。
マルコ・フォン・ロウリーユ。
侯爵家傘下の、少領ながらもそれなりに豊かな、ロウリーユ男爵家に生まれた三男。
そんな彼には二人の兄がいた。
長男は面白みにこそ欠けるが、真面目で公正な熱血漢。
次男は冷静沈着で、礼儀も知恵も兼ね備えた参謀タイプ。
若くしてその才能を発揮する彼らは両親の期待をその身に背負い、将来を嘱望され、またそれに答えていた。
そんな、男爵家の跡取りとしては優秀すぎる兄たちに続いて生まれたマルコ。
「三人目にはいったいどのような資質があるのだろう?」
彼もまた当然のように期待されることとなるのだが……兄という成功例と比較され続け、大きすぎる期待を背負わされた三男はその重圧に押しつぶされてしまう。
三年、五年、十年と歳を重ねても、彼は一向に伸びなかった。
勉学には成果がなく、剣術は形だけ、礼儀作法すら身につかない。
彼にしても無能な人間というわけではなかった。
むしろ凡百な大勢と比べれば才能はあったと言える。
しかし、本人にやる気がないのだからどうしようもない。
当然何をやっても長続きせず、すぐに投げ出してしまう。
にもかかわらず、自尊心だけは誰よりも高く、教える者の助言すら聞くこともない。
『兄たちは他人にうまく見せてるだけだ!
俺は本番でこそ真価を発揮する!』
『そもそも、選ばれし者に地道な努力など必要あるものか!
凡人には俺の価値が分からんのだ!』
それは、できない自分を守るための言い訳。
しかし、それを繰り返すうち、マルコは本気でそう思い込むようになっていった。
そして十二歳のある日。彼のこの先を決定づける出来事が起こる。
いや、起こってしまった。
昼食の席で、使用人の少女が誤ってスープをこぼし、彼の服を汚してしまったのである。
当然、彼女はすぐに深々と謝罪した。
震える声で、心からの謝罪だった。
……だが、その日のマルコはそれを許さなかった。
椅子を蹴って立ち上がり、少女の頬を思い切り打ちつける。
途端に彼の全身に駆け抜けた電流のような『何か』。
倒れこむ彼女の姿を見下ろしながら、マルコの口が自然と開いた。
「なんだ……これは……?」
怒りとは違う。
冷たく、底知れない喜びが。
それが胸の奥から湧き上がってくるのだ。
「ああ……なるほど……」
ふるえるほどの快感だった。
自分が、自分の空っぽだった器が『誰かの恐怖で』満たされていく。
「ははっ、ははははっ……! そうだよ、俺は特別なんだよ!
他人を支配するために生まれた! 特別な力を持った存在なんだよ!」
震える少女を容赦なく蹴りをあげるマルコ。
蹴って、蹴って、蹴って……。その度に自身の全能感に酔いしれる。
倒れた少女を庇おうと、唖然と口を開いていた使用人たちが駆け寄ってくるまで彼の暴力は止まらなかった。
……それ以来、マルコは変わってしまった。
十五歳になる頃には、使用人への暴力は日常の一部となり、屋敷の中は彼の気分一つで緊張が張りつめる地獄と化していた。
家族も最初は戸惑い叱責や矯正を試みたが、やがて彼を見限り、見て見ぬふりをするようになるのにそう時間はかからなかった。
『体調がすぐれないので、町外れに小さな家をもらえないか?』
十八歳のマルコがそう言い出したとき、家族は誰も止めなかった。
むしろ厄介払いができると喜び、金まで出して送り出したほどだ。
やがて彼は悪所に出入りするようになり、破落戸のような連中に金を握らせては、町から子どもを連れてこさせた。
「躾け」と称して、幼い子どもたちを自儘に殴りつけ、その薄汚い欲望をぶつける。
だがそんな、町の人間にとって悪夢のような時間も、彼が二十六のときに終わりを迎える。
子を攫われた者たちの我慢がとうとう爆発。
町では暴動が起こり、破落戸共が殴り殺され、その元凶であったマルコの名前が出てしまう。
家の前まで迫る暴徒と化した者たちになぶり殺される――彼はそんな自分の未来を思い描き、そしてそれに恐怖するどころか大きな笑い声を上げた。
これまで好き勝手に生きてやったのだ、そんな結末が訪れることになんの不思議もない。
……しかし、現実はそうはならなかった。
三男とは言え、我が子が、弟が、そのような事件を起こしたなどと世間に広まってしまえば、ロウリーユ家ごと取り潰されてしまう。
彼の父と兄は彼を処罰することではなく、暴動を起こした被害者たちを鎮圧――口封じするという最悪の手段に出たのだ。
もちろんマルコもそのまま自由に捨て置かれたということはなく、表向きは『療養のため』という名目で、窓もない奥座敷で軟禁生活を強いられることとなった。
――それから十五年。
いつも誰かに監視されている生活。
そのくせ自分に話しかけてくる者は誰もいない。
『おもちゃ』が無くなってしまったこと以外はそれほど不便とも言えない部屋の中、ただ生きているだけの存在となっていた。
だが、それでも彼は壊れなかった。
いや、もしかして壊れたままそれに気づかずに生き続けていたのかもしれない。
一人きりの、自分の他には誰もいない部屋。
そこで彼は、一人声を響かせ続けた。
そんな彼に、突如として声がかかったのは、四十一歳の春のことだった。
長らく顔も見せていなかった兄が部屋を訪れたかと思えば、
「侯爵家よりお前宛の書状だ。
もちろん先に読ませてもらったが……私では書いてあることの意味がまったく理解できん。
本来ならそのままこちらで処分するようなものだが、あのような人間が跡を継いだ侯爵家でも寄り親であることに変わりはない」
などと、良くわからないことを言い出す。
……俺に侯爵家から書状?
兄の話しぶりでは代替わりしたようだが……あのような人間?
要領を得ない無能の話をいつまでも聞いていても仕方がないので、表面上はしおらしく、内心ではその喉笛を噛み切ってやろうかと思いながら使用人から手渡された書状を読み上げる。
「……はぁ? 何ですかこれは?
侯爵家の娘を嫁にくれる? 男爵家の三男である私に?」
このまま死ぬまで飼い殺し、むしろいつ処刑されてもおかしくない自分に、突然届いた縁談の手紙。
それも、侯爵令嬢の婿などという男爵家の人間にはあり得ない話だ。
……確かに直情的な上の兄ではその意味はわからないだろう。
だが、『兄より劣る』と言われ続けた彼であるが、決して無能ではなかった。
代替わりしたという侯爵家。
(こいつの口ぶりからすれば当代はあまり好ましい人間ではないみたいだが。
というか、この書状に書かれてる『アルトニアス』とはいったい誰だ?
たしか侯爵家の猶子は『コルネリアス』……ああ! なるほどな!)
何かに思い当たったのか、目を細め口元で嗤うマルコ。
(チッ、クズがうまいことやりやがって。俺だってチャンスさえあれば……)
侯爵家の跡を継いだのは長男ではないのだろう。
そして、マルコに宛がわれるという『娘』は、その長男の娘なのだろう。
それもおそらく、彼の性癖、そして過去に起こしたことを知ったうえで。
(なるほど、男爵家の三男ごときを婿に据えておけば将来的に自分たちの対抗馬になることもないだろうということか。
それだけではなく、俺にその娘を好きにしろと。
あわよくば俺がそいつを殺すのを期待している……)
もっとも、マルコが娘を殺したりすれば当然彼自身も処理されてしまうだろうが。
(チッ、侯爵家だかなんだか知らないが……
お前だって家督を簒奪しただけの予備でしかないくせに、人を捨て駒扱いしやがって!!)
自分と似たような境遇のクズが運良く行動を起こすことに成功しただけ。
……もっとも、行動を起こしたのはアルトニアスの母親であり、彼にはそのような野心も欲望も無かったのだが。
「……まあ、どうでもいいさ」
久しぶりに女が抱ける!
それも相手は侯爵家のお姫様ときたもんだ!
「くっ、くふっ、ははははっ!!」
相手にどんな思惑があろうが、このままこんなクソみたいな場所に押し込められ続けるよりはずっといい。
どうせ使い捨てられるのが分かっているのだから、お望み通り最後に好き勝手に暴れてやろう。
十五年間、誰にも見せられなかったこの歪みをすべて曝け出して――