脳内物質
翌日も日の出と共に札幌市民達は、避難所への輸送地点へ徒歩で向かっていた。
目に見えぬほどの細かな雨だったが、足もとの舗道は少しずつ雨の灰色に変りつつあった。
前日の自衛官殺害の影響で、商業施設の駐車場に入る手前で身分証明書の確認を行い、持っていない人は、簡単ではあるが身体検査が必要となった。
数十人の自衛官によりチェックを行っているが、押し寄せる数十万人の市民を裁ききれる訳もなく、あっと言う間に国道が市民で溢れかえった。
その直ぐそばで、ベルゼブブ族は、ビルの半地下で擬態する動物のように息を殺し、匂いを消し、色を変え、闇に身を沈め、不気味な笑みを浮かべ見ていた
「クックック・・・族長、そろそろ市民に苛立ちを与えても良いと思いますが」
「そうじゃな、クックック・・・ゆっくりと頼む、自衛官の方は何か起きるまで無用じゃ」
「クックック・・・かしこまりました族長」
ベルゼブブ族は、事前にハエ等を使い市民や自衛官の脳内に、寄生虫を忍ばせる事に成功していた。
衛生環境の良い日本では非常に難しかったが、数十人に一人には成功していた。
その寄生虫は、無害で人間の体内で繁殖は出来ず、数カ月程度で死滅するが、脳内物質を放出する事により、ある程度の感情のコントロールが行える。
『心は闇に・・・世界は闇に始まり・・・闇に終わる。心に芽生えた小さな闇が、やがて心のすべてを飲み込む、あらゆる心は・・・闇へ帰るのじゃ~』
ビルの中で、市民に向かって両手を上げ呪文を唱え始めると、雨の中大人しく並んでいた市民達から、不満の声が徐々に出始め、自衛官達も対応に困り始めていた。
路上のあちこちで不満の声が上がり、お互いによその話し声に負けないようにと大声を出し合っているので、それらが混ざり合い、辺りは騒然とした。
「そろそろじゃな、クックック・・・自衛官に恐怖と不安と妄想を与えよ」
「かしこまりました族長」
『恐怖に怯える心・・・心・・・怒りに燃える心・・・心・・・妬みに焦がれる心・・・心・・・悲しみに打ち震える心・・・心・・・心・・・心・・・心を闇に染めるのだ~』
押し寄せる市民を自衛官が抑え込む形になり、市民が怒号を上げ始めた時、上空から数人のハルピュイア族が老人を抱え、行列の市民を追い越して行く
「ご老人は先に行っていいザンスか?」
「皆さんすまんの~わしらより子供たちが先でもええんじゃよ」
「どうぞどうぞ、お婆さん達先にいってください」
市民達も口々に、老人や体の不自由な人は優先してくれと言い始め、苛立ちから少し我に返り冷静さを保ち始めた。
「うあああああああああああああ! 来るな化けものおおおおおおおおお!」
一人の自衛官が奇声を上げ、小銃をハルピュイア族に向け引き金を弾いた。
上空のハルピュイア族が撃たれ、抱えられていた老人と共に地面に叩きつけられた。
・・・一瞬の静寂の後
「ははははは、化け物がざまーみろ!!ははははは」
発砲した若い自衛官が、大声で笑いながら言い放った
「お前何て事しやがるんだ!」
すぐさま、4,5人の自衛官に取り押さえられる。
これに市民からは、絶叫と自衛官への怒号が沸き上がる
「お年寄りを運んでくれる天使に、なんて事するんだ!」
「戦闘は中止したんじゃないのか!」
「自衛隊がいるから戦闘になるんだ!」
「自衛隊はカ・エ・レ」
「「「カ・エ・レ! カ・エ・レ! カ・エ・レ! 」」」
「「「カ・エ・レ! カ・エ・レ! カ・エ・レ! 」」」
「「「カ・エ・レ! カ・エ・レ! カ・エ・レ! 」」」
「「「カ・エ・レ! カ・エ・レ! カ・エ・レ! 」」」
辺りは騒然とした空気に包まれた。
そんな市民との揉み合いの中、脂汗を流し、足を小刻みに振るわせている別の自衛官の様子が明らかにおかしい。
その自衛官は、言いようのない憤懣と憎悪が頭の中に渦巻いていた
ドドドドドドドドドドット! ドドドドドドドドドドット!
「お前ら! 大人しく並んでろ!!」
ドドドドドドドドドドット! ドドドドドドドドドドット!
押し寄せる市民を追い払うように、機関銃を市民の足元に乱射したのだ・・・
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セシリア=リリスとヨエル=エルフは、カラスの視覚を映し出す水晶の前で一部始終を見ていた。
ヨエルは、辺りの光をすべて拒絶でもするようなこわばった表情で
「陛下、これは陛下のご指示によるものですか?」
「ベルゼブブ族には、自由な行動を許しました。」
「陛下、あまりにも卑劣な行為ではありませんか! ベルゼブブ族は人の心を弄んで楽しんでおるのではないか!」
「妾達は手段を選べる立場ではありません。それにリリス族も魅了のオーラを身に纏っておりますので同じです・・・」
「陛下、それとこれとは違います!」
「はい、市民に犠牲が出る事は想定外でした・・・この進んだ世界で、こんなに避難に手間取っているのも意外です」
「陛下、我々は、戦闘車両と通常の車両の区別は付きます。自動車の利用も許して良いのではないでしょうか?」
「そうですね。しかし、市民達の事も大事ですが、我が国の臣民達や戦士達の命が第一です。考えさせて下さい・・・」
セシリアは、ひどい苦悩に顔を覆う深いしわが硬直していた。