第二話 森の中で、魔物に出会う
鳥の鳴き声で目を覚ました。
枝葉の隙間から差し込む光が、薄暗い森を照らしている。
体を起こすと、重ねた葉がかすかな音を立てた。
「朝か……」
一晩寝ても、目の前の景色は変わっていない。
異世界へ来たことが夢だった、という都合のいい展開にはならなかったらしい。
寝床へかけていた《保温》は、まだ効果が残っていた。夜の森がどれほど冷えたのかは分からないが、寒さで目を覚ますことはなかった。
虫に刺された跡もない。
「生活魔法には助けられたな」
効果が強すぎることを除けば、だが。
立ち上がって体を伸ばす。
硬い地面で寝たわりには、体の痛みもほとんどなかった。《疲労軽減》か《快眠》を使えば、もっと楽に眠れたのかもしれない。
寝床に使った葉や枝を片づけ、少し離れた場所で顔を洗う。
今度の《給水》は、両手へ収まる量だけを問題なく出せた。
昨日採っておいたミル果を《収納》から取り出す。
取り出したい物をはっきりと思い浮かべると、ミル果が一つだけ手の中へ現れた。昨日よりも、魔法の扱いに慣れてきたらしい。
葉の器へ水とミル果を入れ、《加熱》する。
温度と範囲を指定すれば、湯気を立てる程度に温めることも難しくなかった。
簡単な朝食を済ませ、寝床に使った場所を見回す。
火は使っていない。ごみも残していない。
「それじゃ、行くか」
《地形把握》で進む方角を確かめ、西へ歩き始めた。
目指すのは、辺境都市フェルナへ続く街道だ。
頭の中には森の地形が残っている。街道まで迷う心配はないが、距離はそれなりにあった。
木々の間を抜け、茂みを避けながら進む。
革靴では歩きにくい道だった。湿った土へ靴底が沈み、地面から突き出した根に何度も足を取られそうになる。
「こういうときに使う魔法もあったな」
身体補助の生活魔法へ意識を向ける。
その中から《軽快》を選び、自分の体だけを対象にした。
「軽快」
足元がわずかに軽くなる。
急に速くなったわけではない。だが、足を上げる動作が楽になり、地面の凹凸にも自然と対応できるようになった。
続けて《健脚》を使うと、長く歩いても足へ疲れがたまりにくくなった。
「これなら、かなり歩けそうだな」
生活魔法Lv99の力を考えれば、もっと速く移動することもできるのだろう。
ただ、体そのものは鍛えていない。無理に速度を上げれば、木へぶつかったり、足を痛めたりするかもしれない。
少し歩きやすくなる程度に抑えて進む。
しばらくすると、木々の間に開けた場所が見えてきた。
地面には黒く変色した石が円形に並び、その近くには朽ちかけた丸太が転がっている。
「誰かが野営した跡か」
火を使った痕跡は古い。周囲に人の気配はなかった。
念のため《鑑定》を使う。
『放棄された野営跡』
『最後に使用されてから、およそ二年が経過しています』
『周辺に人間の反応はありません』
二年前なら、持ち主が戻ってくる可能性は低そうだ。
野営跡の近くを調べると、朽ちた布の下から一本のナイフが見つかった。
鞘は傷んでいたが、刃そのものには大きな欠けがない。
『鉄製の作業用ナイフ』
『採取、調理、解体などに使用される一般的な道具』
『刃に軽度の錆があります』
『手入れを行えば使用可能です』
「ナイフか。道具が一つもないよりはいいな」
誰かの忘れ物を持っていくことには抵抗がある。
だが、二年間も放置されていた物なら、拾っても問題はないだろう。街へ着いてから、こうした物の扱いについて聞いてみた方がいいかもしれない。
ナイフへ《洗浄》を使い、泥と錆だけを取り除く。《修繕》で傷んだ鞘を直すと、十分使えそうな状態になった。
刃物を持っているだけで、少し安心する。
もっとも、ナイフで魔物と戦えるとは思えなかった。
腰帯もないため、鞘に収めたナイフを《収納》へ入れる。
野営跡を離れ、再び西へ進む。
昼が近づくにつれて、森の中が明るくなってきた。
《地形把握》によれば、街道までの距離は朝よりも確実に縮まっている。このまま進めば、日が暮れる前には到着できそうだった。
そのとき、右手の茂みが揺れた。
足を止める。
「……風か?」
木々の葉はほとんど動いていない。
茂みの奥へ《鑑定》を使う。
『角兎』
『セルカの森に生息する小型の魔物』
『額の角を用いて敵へ突進する』
『危険度:低』
茂みの間から、灰色の獣が姿を現した。
見た目は大きな兎に近い。だが、その額からは短く鋭い角が伸びている。
角兎はこちらを見上げ、後ろ足で地面を掻いた。
「危険度が低くても、襲ってくるなら十分危ないな」
ゆっくりと後ろへ下がる。
逃げれば追ってくるだろうか。
ナイフを取り出すことも考えたが、刃物を使った戦いなど経験したことがない。構え方すら分からなかった。
まずは身を守る方が先だ。
生活魔法の一覧から、保護に使えそうなものを選ぶ。
「防刃。防打」
二つの魔法を自分へかける。
《防刃》は刃物や鋭い物による傷を防ぎ、《防打》は打撃や衝撃を和らげる魔法らしい。
普通なら、料理中に指を切ったり、作業中に体をぶつけたりするのを防ぐ程度の効果なのだろう。
だが、僕が使えばどこまで守れるのか分からない。
角兎が地面を蹴った。
「速っ――」
灰色の体が一気に距離を詰める。
避けようとしたが、反応が間に合わなかった。
角兎の角が腹へ突き刺さる。
そう思った瞬間、体に鈍い衝撃が伝わった。
「ぐっ!」
一歩後ろへよろめく。
痛みを覚悟したが、腹には角が刺さっていなかった。スーツの上着に小さなへこみができただけで、布さえ破れていない。
角兎の方も、何かに弾かれたように地面へ転がった。
「効いてる……のか?」
腹へ手を当てる。
傷はない。強く押してみても痛みはなかった。
《防刃》が角を防ぎ、《防打》が突進の衝撃を抑えてくれたらしい。
安心する間もなく、角兎が起き上がる。
もう一度、こちらへ角を向けた。
「まだ来るのか」
次も無事に防げる保証はない。
近くに落ちていた太い枝を拾い、両手で握る。武器として頼りになる太さではないが、素手よりはましだった。
少しだけ力を補う魔法があったはずだ。
「力添え」
本来は、重い荷物を持ち上げるときなどに使う生活魔法だ。
枝を振るうのに必要な分だけ。
そう意識した直後、角兎が再び地面を蹴った。
「来るな!」
夢中で枝を振り下ろす。
軽い手応えがあった。
次の瞬間、角兎の体が地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
握っていた枝も、衝撃に耐えられず半ばから折れている。
「……え?」
辺りが静かになる。
角兎は倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。
恐る恐る《鑑定》を使う。
『角兎の死骸』
『外部からの強い衝撃によって死亡』
『肉、毛皮、角は素材として利用可能』
「少し力を補うだけのつもりだったんだけどな……」
折れた枝へ目を落とす。
普通は、物を持つときに少しだけ力を増す魔法なのだろう。
それが生活魔法Lv99になると、小型の魔物を一撃で倒せるほどの力になるらしい。
水を出したときとは違い、細かく抑えたつもりだった。
それでも、戦いの最中に正確な加減をするのは難しい。焦りや恐怖で、必要以上の力を込めてしまった可能性もある。
「人に向けて使うのは、絶対にやめよう」
角兎のそばへしゃがみ込む。
襲われたとはいえ、自分の手で生き物を殺した。
胸の奥に、重いものが残る。
ただ、このまま死骸を放置するのもよくない。肉や素材が使えるのなら、無駄にしない方がいいだろう。
ナイフを取り出したところで、別の生活魔法が頭に浮かんだ。
「《解体》なんてものもあるのか」
生活や仕事のために、獲物や食材を処理する魔法らしい。
角兎を対象にし、食用の肉、毛皮、角、利用できない部分へ分けるよう意識する。
「解体」
淡い光が死骸を包む。
光が消えると、角兎の体はきれいに分けられていた。血や内臓が周囲へ飛び散ることもなく、肉と素材だけが整然と並んでいる。
『角兎の肉』
『食用可能』
『十分に加熱してください』
『角兎の毛皮』
『小物や防寒具の材料として利用可能』
『角兎の角』
『武器や道具の素材として利用可能』
「便利だけど……これも人前で使ったら目立ちそうだな」
肉へ《洗浄》と《保存》を使い、毛皮や角と分けて《収納》へ収める。利用できない部分は地面へ穴を掘り、埋めておいた。
作業を終えたところで、頭の中へ不意に情報が浮かんだ。
『個人レベルが上昇しました』
『個人レベル:2』
『能力値ポイントを3獲得しました』
『スキルポイントを1獲得しました』
「レベルが上がったのか」
魔物を倒したからだろうか。
それとも、初めて危険を乗り越え、生活魔法の新しい使い方を知ったからなのか。
今すぐ割り振る必要はないようなので、ポイントは保留することにした。この世界のことも、自分に何が必要なのかも、まだ分かっていない。
再び歩き始める前に、《防刃》と《防打》の状態を確かめる。
効果はまだ残っていた。
角兎の攻撃を受けても無傷だったことを考えれば、かなり強力な守りになる。
それでも、次に出会う魔物が同じ程度の強さとは限らない。
「できれば、もう戦いたくないな」
ナイフは道具として使う。
魔物と戦うための武器にするつもりはなかった。
戦わずに済むなら、それが一番いい。
《地形把握》で周囲を確認し、魔物らしい反応がない道を選ぶ。
西へ進むにつれて、木々の間隔が少しずつ広くなっていった。
その先には、森を南北に貫く街道がある。
そこへ出れば、辺境都市フェルナへ向かう人と出会えるかもしれない。
腰にナイフはない。
代わりに、生活魔法で守られたスーツ姿のまま、僕は森の中を歩き続けた。




