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第一話 異世界で湯を沸かす

 目を開けると、知らない森の中にいた。


 頭上では、幾重にも重なった枝葉の隙間から陽光が差し込んでいる。湿った土と草の匂いが濃く、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきた。


「……どこだ、ここ」


 上半身を起こし、周囲を見回す。


 見覚えのあるものは何もない。


 身につけているのは、出勤するときに着ていたスーツだ。革靴も履いたままで、ポケットには財布とスマートフォンが入っている。


 スマートフォンの画面を点ける。時刻は表示されたが、電波は届いていなかった。地図も現在地を読み込まない。


 確か、いつものように会社から帰る途中だった。


 駅へ向かって歩いていたところまでは覚えている。事故に遭った記憶も、意識を失った覚えもない。


 それなのに、今は森の中にいる。


「夢……ではないよな」


 地面へ手を触れる。


 湿った土の冷たさも、指先に絡む草の感触もはっきりしていた。


 立ち上がろうとしたとき、不意に頭の中へ何かが浮かんだ。


『ステータスを表示しますか?』


 声ではない。


 文字を読んだときのように、意味が直接伝わってくる。


 しばらく迷ったあと、表示するよう念じてみた。


『真壁修司』

『年齢:三十六歳』

『個人レベル:1』

『生活魔法:Lv99』

『加護:秘神の加護』


「ステータス……」


 異世界へ転移した。


 そんな考えが浮かぶ。


 現実として受け入れるには突飛すぎるが、目の前の状況を説明できる別の理由も思いつかなかった。


 生活魔法へ意識を向ける。


 頭の中に、使用できる魔法が次々と浮かんだ。


 《給水》《点火》《過熱》《冷却》《保温》《洗浄》《乾燥》《消臭》《保存》。


 さらに、《整形》《修繕》《収納》《鑑定》《地形把握》《助言求め》《巧手》などもある。


「ずいぶん多いな」


 生活魔法という名前から、水を出したり火を点けたりする程度のものを想像していた。しかし、並んでいる魔法は炊事や掃除だけでなく、移動や野営にも役立ちそうなものばかりだった。


 まずは現在地を知りたい。


 周囲の木々へ意識を向ける。


「鑑定」


 視界の中に情報が浮かんだ。


『セルカ樹』

『セルカの森に広く分布する樹木』

『材質は硬く、建材や薪として利用可能』


「本当に使えたな」


 近くの茂みには、赤い実がなっている。


 試しに、そちらも調べてみる。


『ニガアカの実』

『強い苦味を持つ有毒植物』

『摂取した場合、腹痛・嘔吐・発熱を引き起こす可能性があります』


 伸ばしかけていた手を引っ込めた。


「見た目で判断するのは危ないか」


 もう少し広い対象を意識し、森そのものへ《鑑定》を使う。


『セルカの森』

『レスティア王国西部に広がる森林』

『小型から中型の魔物が生息』

『西方に辺境都市フェルナへ続く街道があります』


 少なくとも、人が暮らす場所は存在するらしい。


 問題は、街道までの距離と方角だった。


「地形把握」


 魔法を発動した瞬間、頭の中へ広大な地形が流れ込んできた。


 周囲の木々、地面の起伏、小川、獣道。遠く離れた場所まで、上空から見下ろしているかのように把握できる。


 あまりにも多くの情報が一度に入ってきたため、反射的に頭を押さえた。


「ちょっと待て。どこまで見えてるんだ、これ」


 森の西側には、南北に延びる一本の街道がある。


 そこへ至るまでの木々の並びや、途中にある小川まで分かった。一度も歩いたことのない場所なのに、昔から知っている道のように思い浮かべられる。


 しばらくしても、頭痛や気分の悪さはなかった。


 情報量に驚いただけで、使うこと自体に負担はないらしい。


「便利だけど……これも普通の範囲じゃなさそうだな」


 試しに少し歩いてみる。


 現在地を示す感覚が移動し、それに合わせて周囲の地形も更新された。一度把握した場所も消えず、鮮明なまま残っている。


 この魔法があれば、森で迷う心配はなさそうだった。


 西へ向かえば、いずれ街道に出られる。


 すぐに歩き始めようとしたところで、喉の渇きに気づいた。


 朝から何も飲んでいない。


 水筒は持っておらず、近くにある小川までも少し距離がある。


「給水があったな」


 名前のとおりなら、水を出すだけの魔法だろう。


 両手ですくって飲める程度の量を考え、片手を前へ出す。


「給水」


 次の瞬間、目の前に巨大な水の塊が現れた。


「……え?」


 直径は、自分の身長よりも大きい。


 理解が追いつくより先に、空中に浮かんでいた水球が形を崩した。


「待て待て待て!」


 両手を突き出すが、水が止まるはずもない。


 大量の水が地面へ落ち、激しい音とともに周囲へ広がった。


「うわっ!」


 慌てて後ろへ逃げる。だが、革靴では濡れた土をうまく蹴れない。


 足を滑らせ、尻もちをついた直後、水が足元へ押し寄せた。


 落ち葉や細い枝が一緒に流れていく。スーツの裾だけでなく、尻や背中まで泥水に濡れた。


 水が収まるのを待ってから、ゆっくりと立ち上がる。


 目の前には大きな水溜まりができていた。


「コップ一杯くらいだっただろ……」


 周囲を見回す。


 幸い、倒れた木はない。動物や人が巻き込まれた様子もなかった。


 それを確認して、ようやく息を吐く。


「生活魔法って、もっと地味なものじゃないのか?」


 もう一度同じことが起きたら困る。


 自分自身へ《鑑定》を使う。


『生活魔法Lv99』

『生活魔法の効果・範囲・持続時間が大幅に上昇』

『精密制御が可能です』


「大幅に上昇……」


 数字だけを見たときは、すごいものなのだろうとしか考えていなかった。


 しかし、今の水量を見れば意味は分かる。


 普通に使ったつもりでも、Lv99の力で発動してしまうらしい。


 喉は渇いていたが、もう一度《給水》を使うことをためらった。


 水だから濡れただけで済んだ。


 これが《点火》や《過熱》だったら、どうなっていたか分からない。


 森の中で巨大な火を出せば、火事になりかねない。


「危ない魔法は後回しだな」


 ひとまず《点火》を試すのはやめる。


 それでも、水がなければ困る。


 今度は量だけでなく、出す場所や勢いまで細かく思い描いた。


 両手の中へ、手のひらから溢れない量だけを、静かに出す。


 少しでもおかしな気配があれば、すぐに離れられるよう腰を引く。


「……給水」


 両手の中に少量の水が現れた。


「うおっ」


 巨大な水球を警戒していたため、驚いて手を引いてしまう。せっかく出した水の半分ほどが指の間からこぼれた。


 慌てて周囲を見る。


 今度は何も起きていない。


「大丈夫……だよな?」


 しばらく待ってみる。


 水が増え続けることも、突然弾けることもなかった。


 残った水を飲む。


 冷たく、癖のない水だった。


 ひとまず、必要な結果を細かく決めれば抑えられるらしい。


 ただ、毎回うまくいく保証はない。


「容器があった方がいいな」


 周囲を見回すと、地面に大きな葉が落ちていた。


 先ほどの失敗を思い出し、すぐには魔法を使わない。


 《洗浄》まで広い範囲に発動したら、地面の土や落ち葉まで吹き飛ばすかもしれない。


 葉を一枚だけ拾い上げ、表面の泥と虫だけを取り除くよう意識する。


「洗浄」


 淡い光が葉を包み、汚れが跡形もなく消えた。


 葉の色まで変わっていないことを確認し、胸をなで下ろす。


「これは大丈夫か」


 次に《整形》を使い、深さのある器を思い描いた。


 葉がゆっくりと曲がり、縁同士が重なる。


 動き出した瞬間は身構えたが、巨大化したり、周囲の木々まで変形したりすることはなかった。


 重なった部分を《修繕》でつなぐと、簡単な器になる。


「生活魔法って、こういう使い方もできるのか」


 葉の器へ《給水》を使う。


 器の八分目まで。勢いは弱く。水が縁を越えたら止める。


 そこまで具体的に決めてから発動すると、水は溢れることなく器へ収まった。


 続いて《過熱》を試そうとして、手が止まる。


 水球のように、今度は一瞬で高温になったら危険だった。


 沸騰させず、人肌より少し温かい程度。


 葉は加熱せず、中にある水だけをゆっくり温める。


「過熱」


 発動した直後、水面から白い湯気が勢いよく立ち上った。


「熱っ!」


 驚いて器から手を離す。


 葉の器が地面へ落ち、中の湯がこぼれた。触れていた指先には痛みが残っているが、火傷はしていない。


 湯気の量が減ってから《鑑定》する。


『加熱された水』

『温度:七十二度』

『飲用可能』

『火傷に注意してください』


「少し温かい程度にしたはずなんだけどな……」


 巨大な水球ほどではないが、思い描いた温度よりはるかに高い。


 出力を抑えたつもりでも、まだ力加減が分かっていなかった。


 もう一度《給水》で水を足し、今度は《冷却》で温度を下げる。


 冷やしすぎて氷になる可能性を考え、少しずつ使った。


 何度も《鑑定》で温度を確かめ、ようやく飲める程度の湯になる。


「湯を飲むだけで、ずいぶん苦労したな」


 慎重に口をつける。


 温かいものが喉を通ると、張り詰めていた気持ちが少しだけほぐれた。


 森の中で目を覚まし、異世界にいる可能性を知った。


 その直後にしていることが、生活魔法の暴発に慌てながら葉の器で湯を飲むことだとは思わなかった。


 それでも、水は作れる。


 使い方には注意が必要だが、生活に必要なことは魔法で補えそうだった。


 空腹を覚え、周囲の植物へ順番に《鑑定》を使う。


 毒草。食べられない木の実。薬の材料になる草。


 しばらく探したところで、背の低い木に黄色い実がなっているのを見つけた。


『ミル果』

『セルカの森に自生する果実』

『強い酸味を持つが食用可能』

『加熱すると酸味が和らぎ、甘味が増します』


 熟していそうな実を一つ採り、《洗浄》を使う。


 皮ごとかじってみると、強烈な酸味が口の中に広がった。


「これは、そのまま食べるものじゃないな」


 葉の器へ水とミル果を入れる。


 先ほどの失敗があるので、《過熱》は何度かに分けて使った。


 しばらく温めると黄色い皮が柔らかくなり、甘い香りが漂い始める。


 冷ましてから手で割る。熱の通った果肉は柔らかく、先ほどより酸味も弱くなっていた。


「十分食べられる」


 残りの実もいくつか採り、《保存》を使ってから《収納》へ入れる。


 果実が目の前から消え、どこか別の空間へ収められたことが感覚で分かった。


 試しに周囲の枯れ枝も集め、まとめて収納する。


 十本ほどの枝が一度に消えた。


「一つだけ出せるのか?」


 最初に入れた枝を一本だけ思い浮かべ、取り出すように念じる。


 目の前に、収納していた枯れ枝がすべて現れた。


「うわっ!」


 突然現れた枝を避ける。


 何本かが足元へ落ち、一本が革靴へ当たった。


「またか……」


 今度は量の問題ではない。


 一本だけを指定したつもりだったが、収納した枝をうまく区別できていなかったらしい。


 具体的に思い描けば、どんな魔法でもすぐに扱えるわけではなかった。


 収納した物を個別に取り出す方法は、あとで改めて試した方がよさそうだ。


 日が傾き始める前に、今夜休める場所を探す。


 《地形把握》で周囲を確認すると、少し離れた場所に木々の間隔が広く、地面の平らな場所があった。


 西の街道へ向かう途中でもある。


 そこまで移動し、落ち葉や枝を集める。


 地面の石や太い根は《整形》で均し、落ち葉は《洗浄》と《乾燥》で汚れと湿気を取り除いた。


 魔法を使うたび、対象と範囲を声に出さず確認する。


 この落ち葉だけ。


 水分を完全に消すのではなく、寝床に使える程度に乾かす。


 周囲の木や地面には影響させない。


 慎重に指定すれば、今度は思ったとおりの結果になった。


 葉を重ね、その上へ枝を組む。


 虫が入り込まないよう周囲へ《防虫》を使い、夜露を避けるために《雨除け》も発動した。最後に、冷えない程度の《保温》を自分と寝床へかける。


 発動してから、急に全身が熱くならないか警戒したが、服の内側を春の日差しのような温かさが包んだ。


「これは普通に使えたな」


 思わず安堵の息が漏れる。


 スーツ姿で森の中に横になるという状況は変わらない。それでも、何もせず地面へ寝るよりはずっとましだった。


 日が沈み、森の中が暗くなっていく。


 遠くから獣らしき鳴き声が聞こえた。


 この森には魔物がいる。


 できることなら、出会いたくはない。


 だが、生活魔法があれば、水や食料、寝る場所には困らずに済みそうだった。


 問題は、その生活魔法が強すぎることだ。


 水を飲もうとしただけで、辺りを水浸しにした。


 湯を作ろうとすれば、火傷しかねない温度になった。


 今のところ大きな被害は出ていないが、《点火》のような魔法を同じ感覚で使えば、笑って済ませられないことになるかもしれない。


「街に着くまでに、少しは慣れておかないとな」


 人のいる場所で巨大な水球を出せば、間違いなく騒ぎになる。


 生活魔法Lv99のことも、簡単には話さない方がいいだろう。


 必要な効果を、必要な範囲へ、必要なだけ使う。


 その感覚を身につけなければならない。


「明日は西の街道を目指そう」


 頭の中に残っている地形を確かめる。


 現在地も、進む方角も分かっている。


 不安が消えたわけではない。


 それでも、何をすればいいのか分からなかったときよりは落ち着いていた。


 《保温》に包まれた寝床へ体を横たえる。


 葉と土の匂いを感じながら目を閉じる。


 こうして僕は、強すぎる生活魔法に振り回されながら、異世界で最初の夜を迎えた。

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