猫による赤ちゃん目線、という与太話
猫は我々のことを赤ん坊だと捉えているらしい。友人から半信半疑で聴いたとき、かの種のことを滑稽に思えてしまった。だが考え直せば、人間こそ同じスタンスをとっているのだと、我が身を省みる結果となった。
恥ずかしながら(このような前置きを用いること自体、価値観の押しつけになり得るだろうが)、私の休日の大半は、他愛ない猫の動画を眺めるだけの時間に費やされている。その中で猫の主人とやらは、赤ん坊を相手にするかのようなふやけた声色で、猫じゃらしを振り回したり、腹部を弄んだりしている。
ある動画を例に挙げれば、その黒猫はすらりとした躯体であった。撮影者である中年の婦人は、彼女の夫の膝に乗る愛猫を、ひたすらに撫で回していた。頭から背にかけての流線を、ハープを弾くような手触りで。それでいて興奮を抑えきれぬように甲高く、「ポメ」という名を呼んでいた。カメラのレンズは、結局動画が終わるまで、暗闇に似た毛並みから離れなかった。隣にも愛する家族がいただろうに、猫の磁力へ惹かれるよう、そちらへはぴくりとも手は伸びなかった。
ところでその猫は九歳であった。人間ならばとっくに乳児期を越し、子供によっては可愛げの無さが芽生え出す頃だろう。さらに、人間の年齢に換算してしまえば、五十歳前後だそうだ。一つ質問を作ってみよう、中年の猫、中年の夫。どちらを撫でる映像が見たいのかと尋ねられれば、私は当然前者を選ぶし、撮影者が投稿したのも前者だった。(そもそも後者を撮影したのか定かではない、少なくとも私はしない。)
では二回戦として、中年の猫、赤ん坊。どちらを撫でる映像が見たいのかと尋ねられれば、先の質問に比べ、逡巡する時間が生ずると思う。なぜか。提示された二者の間で、何かしらの要素が競合しているのだろうか? (おおかた想像がつくかもしれないが……。)
思い返せば、パンダが我々を惹きつけるのは、顔のパーツが中心に寄っていて、幼い印象を与えるからだという説がある。真偽はともかく、確かに「幼さ」をまとった存在には、どれも同じベクトルで胸が緩む。これは見た目だけじゃあない。赤ちゃんもそうだし、ふてぶてしい年齢のはずの猫でも、たまには子どもじみた無防備さを見せる。その瞬間、人間の脳は年齢ではなく、形や仕草が発する「幼さ」の方を優先してしまうのだろう。
だからこそ、中年の猫と赤ん坊で迷うのかもしれない。種は違えど、どちらも我々の中の「守護らなきゃ……」をくすぐる何かを持っている。その似通いが、判断をふっと鈍らせるのだと思う。
始めの話題に戻ると、そう、猫が人間を赤ん坊と見なしているという話だ。友人曰く、信憑性はないのだが、その理由として「言語が通じないから」ということが第一に挙げられるらしい。……そりゃそうだ。
まあ、その与太話が真実だとして、我々が猫に向けるまなざしと、猫が我々に向けるそれとが、どこかで等式を結んでいるのだとすれば。それはいささか滑稽でありながら、妙に腑に落ちる気もする。幼いものに対して抱く、あの無条件の庇護欲、言葉にならない甘さのような感情──それが種を越えて循環しているとしたら、私たちが猫を愛でる構図は、鏡に映した像のように、あちら側にも同じ熱量で存在していることになる。
もしかすると猫は、私たちの不器用な手つきや、抑揚の定まらない声色を、どこか頼りなく、未熟で、守るべき「幼さ」として受け取っているのかもしれない。だとすれば、人間が猫を「可愛い」と呼ぶ言葉すら、実は猫側から見れば、「赤ちゃん言葉」として翻訳されている可能性もあるわけだ。そう考えると日々見ている動画も、まるで立場が逆転した寓話のように見えてくる。
人間が猫を赤ん坊扱いし、猫が人間を赤ん坊扱いする。そうやって互いに「幼さ」を感じているならば、あの妙な親しみにも説明がつくのではないか。どちらが上でも下でもなく、ただ相手の不器用さを、そっと受け止めるような距離。その奇跡的な均衡があってこそ、私たちは安らげるのかもしれない。
そう考えたとき、私はようやく納得したのだ。猫の動画を眺めながら、なぜあれほど頬の力が抜けてしまうのか。あれは「愛情」でありながら、実はお互いを赤ん坊と見なすことで生まれる、鏡のような慰めでもあったのだ。いや、そうあって欲しいのかもしれない。猫が我々に寄り添うことに、優しい意図があってくれるなら、願ったり叶ったりだろう。
……まあ、そんな私の妄言など意に介さず、画面の向こうでしっぽは揺れる。それでこそ、猫である。
後々調べたら、猫が「我々を赤ちゃんだと捉えている」ことの科学的根拠はないらしい。このエッセイはなんだったんだ……という虚無感は、友人へぶつけることとする。




