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3. 初めてのボス戦

『そろそろボスに挑んでみようと思うんだ』

 ノゥエがそう言ったのは、雪原地域でのクエストを終えてから、さらに数週間が経ったある日のことだ。

「ボス?」

 奈留は鸚鵡返しに尋ねながら、コーヒーをゆっくりと啜った。

 いま奈留がいるのは、とある酒場の一角だ。つい先ほどまで討伐系の依頼をこなしていて、いまはその休憩がてら、おやつのケーキセットを食べていたところだった。酒場といっても、酒と料理以外のメニューも充実しているのだ。

 なお、休憩中かつ食事中ということで、奈留の身体の操作権は奈留に戻されている。

『きみは、プライベートではあまりゲームをしないんだったっけ?』

「うん。だって、ここで十分すぎるくらいゲームに付き合ってあげているもの。これ以上、ゲームは要らないわ」

『それはもったいない考え方だと思うけど……まあ、いまはいいや。それより、ボスについての説明をするよ』

 ノゥエはどこか得意げに語り出そうとしたのだが、

「べつにいいわよ。ゲームをやらなくたって、ボスくらい分かるっての」

 奈留の素っ気ない言葉に出鼻を挫かれてしまった。

『……だったら、言ってみてよ。普通の敵MOBとボスと、どう違うのかを』

 ノゥエの声は少しむっとしている。対する奈留の答えは、あっさりだ。

「そんなの簡単よ。ボスは雑魚より強いんでしょ」

『え、それだけ?』

「え、何か間違っていた?」

『間違ってはいないけれど、それだけじゃないよ。というか、ボスと雑魚とは、単純に強い弱いで区別されているんじゃないんだよ』

「そうなの?」

『そうなの!』

 きょとんとしている奈留に、ノゥエは長い溜息を吐いて続ける。

『あのね、ボスと雑魚の違いは、ボス属性があるか否かなんだ。どんなに強くても、ボス属性のないMOBはただの雑魚扱いだし、逆に能力が低くてもボス属性さえ設定されていれば、そいつはボス扱いになるんだ』

「ふぅん……」

 と、奈留は分かっているのか分かっていないのか微妙な返事。

 ノゥエは気にせず、滔々と語り続ける。

『いま、弱くともボス属性さえあればボスになる、と言ったばかりだけど、たとえ能力値が低めでもボスは強い。それはなぜかと言うと、ボス属性には特典(ボーナス)が付加されているからだ。受けるダメージ量を一定割合で低減する、いくつかの状態異常を無効にする、ダメージを受けたときに発生する仰け反り(ノックバック)を無効にする――そうした特典を与えられているから、ボスは能力値の数字以上に強いんだ』

 もういっそ嬉しげに語ったノゥエに、奈留はといえば、ますます冷めた顔だ。

「ふぅん……じゃあ、そんなに強い敵なんだったら、戦わないほうが賢いよね。はい、この話、終了」

『ああっ、待って待って。最後まで聞いてよ。まだ話の途中なんだから!』

「だったら、早く話しなさいよ」

『話していたのを邪魔したのはそっちじゃないか……』

 ノゥエはぼやいたものの、すぐに気を取り直して話を再開させた。

『ボスは強い――と言っても、全部が全部、最強レベルに強いわけじゃない。いまのぼくたちでも勝てそうな強さのボスもいるんだ』

「小ボスとか、序盤のボスとか、そういう感じ?」

『うん、そうそう。でも……ぼくが挑戦しようと考えているのは、中ボスといったところかな。たぶん、いまのぼくたちなら、小ボス級なら問題なく勝てると思うよ』

「えっ、そうなの!?」

『うん。でも、小ボス級は倒してもあんまり旨味がないから、挑戦は考えなかったんだよね』

「旨味……あっ、倒すと良いものを落とすのね。そりゃそうか。そういう旨味がなかったら、誰も、わざわざ手強い敵と戦おうなんて思わないものね」

『いや、これはゲームなんだから、旨味とか関係なしに強敵との戦闘を楽しみたい、という人も少なくないと思うよ――まあ、そんなふうに思っているのは、強い装備を揃えられるくらいお金を持っている人たちばかりだろうけどね』

「わ、僻みっぽぉい」

 笑って茶化した奈留に、ノゥエは憮然とした様子で鼻息を鳴らす。

『はいはい、そうだよ。僻みですよ。だから、僻まなくても良くなるように、中程度の強さだけど高値で売れる収集品を落とすボスを倒しに行こうって言っているんだよ』

「はいはい、分かりました。分かってますよ」

 奈留は飲み終えたコーヒーカップを卓に戻すと、肩を竦めて両手を挙げる。降参のポーズだ。

「どうせ、わたしはキャラクター。何をするのか決める権利は、ございませんので」

『わあ、嫌味っぽい』

 ノゥエは、奈留の先ほどの口調を真似てせせら笑う。だが、すぐに笑いを収めて話を戻した。

『そんなことより、今日の残り時間は、狙っているボスへの対策に充てるからね』

「はいはい、了解。了解ですよ」

 奈留は今度も万歳した。

 それから現実での夕食休憩を挟んだ後、夜は対ボス用の装備を探すのに費やされた。といっても、投宿している部屋で、交易所の出品目録との睨めっこを延々、続けただけだが。

 ちなみに交易所とは、プレイヤー間での売買を仲介するシステムのことだ。べつに、交易所と呼ばれる場所が実際にあるわけではない。プレイヤーが自由に出品できる通販サイトのようなものだ。

 プレイヤーは操作メニューから実体化させた液晶タッチパネルこと「出品目録(カタログ)」を使って、欲しい商品を検索、購入する――という流れだ。

「こんな通販みたいなのじゃなくて、実際にお店巡りをするって方式でも良かったと思うんだけど。せっかくの拡張現実ゲームなんだから、現物を手に取ったり試着できたりするほうが楽しいと思うのに」

 奈留はそんな感想を漏らしたことがあるが、これはノゥエに苦笑された。

『いつだったか話したことがあったと思うけれど、このゲームは大人気で、接続者数もかなり多い。だから、店舗形式で市場を用意しようとすると、かなりの敷地が必要になってしまう。そうなると、買い物するほうとしても、何百件もの店舗を延々歩きまわる羽目になる……ぼくは良いけれど、きみの精神的な疲労と筋肉痛は酷いことになると思うよ』

「こうしてずぅっと座りっぱなしにしてるのも、地味にお尻にくるんですけどね」

 これが現実での読書だったら、お尻をもぞりとさせて、椅子に当たっている面をずらすことができる。でも、身体の主導権を他人に預けていては、それが出来ない。なので、お尻が地味に辛いのだ。

『あ……それはまったく考慮していなかった。ごめん』

 ノゥエがそう言ったのと同時に、奈留の身体は椅子から立ち上がって、大きく伸びをする。体操を始める。

『どう? これで楽になった?』

「多少はね……でも、わたしが言いたかったのはこういうことじゃなくて、カタログを見ている最中くらいは、身体をこっちの自由のさせてくれても良いんじゃないのか、っていうことなんだけ」

『あ……うん、そうだね。これからは、長時間同じ姿勢を続けるようなときは、きみに操作権を渡しておくようにするよ』

「カタログ読みをまだ続けるのなら、これからなんて言わずに、いまから渡してもらって構わないんだけど?」

『それもそうだよね、うん』

 ノゥエは申し訳なさそうに苦笑した。

 奈留の身体が一瞬、かくんっと崩れかける。身体の操作権が奈留本人に戻されたことの証だ。

「っと……もう! だから戻すときはそう言ってからにしてって何度も言っているでしょ!」

『あ……ごめん。どうも忘れちゃうんだよね』

「はぁ……!」

 怒りの溜息に、ごめん、と謝るノゥエ。それが本気でしゅんとしているように聞こえるから、奈留も怒りを持続させていられないのだった。

「まあ、いいわ。許してあげる。それより、今夜中に装備を揃えちゃいましょう。明日もずっと座って、液晶チラシをだらだら見ているだけっていうのは、叫び出さないでいられる自信がないわ」

 走ったり戦ったりさせられていようが、じっと座っているだけだろうが、身体の自由をノゥエに委ねているのに変わりはない。けれど、奈留にとっては動きまわらされているほうが、じっとしているより何倍もましなのだった。

「身体をずっと動かさないでいるのって、へとへとになるまで動きまわらされるより堪えることだったのね。初めて知ったわ……」

『次からは本当に気をつけるよ』

 ノゥエは苦笑混じりに言ってから、ふと思いついたように言葉を重ねる。

『ぼくが調べていた限りでは、きみたちの世界の女性も買い物が好きものだという話だということだったけれど、きみは違うのかい?』

「そんなことはないわ。でも、これはショッピングとは違うでしょ」

『うん? どこが違うの?』

 きょとんとした声で尋ねたノゥエに、奈留は呆れ顔を返す。

「こんな通販サイトでマウスぽちぽちするのようなものじゃない。手に取ったり試着したりできないんじゃ、ショッピングとは呼べないわ」

『あ、それなら出来るよ』

「へ?」

 間抜けな声を返した奈留の身体が、ぴくっと小さく跳ねる。身体の主導権がノゥエに移ったのだ。

 ノゥエは奈留の手を動かして、液晶パネルに指先を滑らせる。すると液晶から淡い光の粒が湧き出てきて、瞬く間に大振りの青いリボンを形作った。ちょうど、いま液晶パネルに映していた商品だ。

「カタログから飛び出してきた!?」

『それだけじゃないよ』

 ノゥエの動かす奈留の手が、実体化したリボンに触れた。すると、リボンはまた粒子の集合体へと還元されて、わっと飛び散る。

「え? どうなったの?」

 奈留が消えたリボンの行方に戸惑っていると、目の前に空中に上半身がすっぽり映る大きさの姿見が現れる。

 そこには、いま消えたかに思われた大きな青いリボンを頭に飾った奈留の姿が映っていた。

『と、このように、カタログに表示させた商品を試着してみることもできるんだ。どうかな、ちょっとはショッピングっぽくなってきた?』

「……そうね」

 奈留は素っ気ない調子で頷く。しかし、その口元は微妙ににやけていて、奈留が内心ではかなり興奮していることが透けていた。

「ねえ、服や靴も試着できるんでしょ? さっき見ていたドレスっぽい装備も試着してみましょ。あ、ブーツも何点か試してみたいわね」

 うきうきと捲し立てる奈留に、ノゥエは苦笑する。

『おっと、急に積極的になったね』

「いいでしょ、べつに。それとも、消極的なほうがお好みなの!?」

『いえいえ。その調子で頼みます』

 おどけて答えたノゥエに、奈留が鼻息をふんっと鳴らした。

 二人はそれから、残りの就業時間を全て、装備の新調のために費やした。でも、終業の時刻である二十二時になっても決めきれず、なんと就職四ヶ月目にして初めての残業までしたのだった。

『べつにいいよ。今夜はもう大分悩んだし、目当ての装備がすぐに売り切れる可能性も低いだろうし……今夜は上がりにして、続きはまた明日にしよう』

 二十二時になる十分前にノゥエはそう言ってゲーム終了(ログアウト)しようとしたのだが、それを奈留が素早く引き留めたのだ。

「待って! せっかくここまで候補を絞ったんだし、最後までやっちゃおうよ。どの組み合わせで買うかを決めて、それを全部買っちゃうの。そうしないと終われないでしょ。っていうか、これなんてすごい安値なんでしょ。買うんだったら、いますぐ買わないと、明日には売り切れちゃうんでしょ。っていうか、このまま宙ぶらりんで終わらされたら、わたしが今夜寝られないもん!」

『……分かった。きみがそこまで言ってくれるんだったら、残業ということで、もうしらばく付き合ってもらうよ』

「そうこなくっちゃ……」

 と言い止して、奈留はふと表情を引き締める。

『どうかしたかい?』

「いや、ねえ……残業ということは当然、残業手当が付くのよね?」

『安心して。ちゃんと付くから』

「だったらいいの」

 奈留は満足そうに頬を崩して頷いた。


 ◆


 翌日、奈留はいつもの通り、昼過ぎからゲームの世界に降り立った。

「ふぁ……」

 ログインするや、大欠伸が口を突く。

『眠そうだね』

 ノゥエが苦笑する。

「そりゃ、ね」

 と答えた奈留も苦笑いだ。

 欠伸をしている奈留の装いは、雪原で巨大クリオネを追いかけていたときとは大きく変わっていた。防寒用の装備だったマントは当然脱いでいるとして、中に着ていた革鎧も布製の衣服に一新されている。

 臍の見えるホルターネックのドット柄タンクトップに、肩口のふわっと膨らんだパフスリーブのボレロ。膝上丈の襞折り(プリーツ)スカートに、股下数センチまである横縞(ストライプ)長丈(サイハイ)ソックス。タンクトップの上には金属製の胸当てをして、腰にはこれまでと同じ両側に銃鞘(ホルスター)のついた革ベルを巻き、さらに革のポーチを提げている。足元は、右足は膝上丈で左足は膝下丈という左右ちぐはぐ丈(アシメレングス)長靴(ブーツ)を履いている。

 銃鞘に収まっている二丁の銃は以前と変わらず、火薬銃と魔砲銃のままだ。ただし、銃に装着している宝珠(オーブ)が変更されていた。

 ここでようやくの説明になるが……このゲームには、一般的なゲームで言うところのレベルや経験値、能力値という概念は存在しない。このゲームにおける強さとは、装備の強さ、そして装備に装着させた宝珠の数と強さだ。

 宝珠には例えば【命中強化Lv1】や【魔法耐性Lv3】のようなものがあり、装備に装着させることで、その名称通りの効果を発揮させられる。また、装備に装着させることができる宝珠の数は、装備の希少度(レアリティ)で決まっている。装備自体にも防御力や攻撃力が設定されているけれど、それよりも|宝珠の装着上限(スロット数)が重要視されている。奈留の銃は以前と変わっていないけれど、新しい攻撃技の宝珠を嵌め込んでいた。

 こうした装備の変更や宝珠の付け替えを、奈留とノゥエは昨夜、日付が変わってもさらに、ああでもないこうでもないと試し続け、ゲームを終わらせて布団に入ったのは明け方近くだったのだった。

「ゲームのやり過ぎで寝不足なんて、小学生みたいだわ……あふ……」

 もうひとつ欠伸を漏らした奈留に、ノゥエが少し皮肉めいた調子で笑う。

『きみがいちいち試着したがったり、見た目に文句を付けたりしなければ、もう二時間は早く終わらせられたと思うんだけどね』

「うっさい。女に買い物に黙って付き合うのは男の義務でしょ!」

『それは交際関係にある男女の場合での話だろう。契約関係にある雇用主と被用者の場合は、きみのほうがぼくのやり方に従うというのが本来在るべき形だと思うんだけどね』

「ねえ、知ってる? そういうの、こっちじゃパワハラっていうのよ。権力の濫用……分かる?」

『男は女の買い物に黙って付き合え、というのはセクハラにならないの?』

「なるわけないでしょ!」

 即座に言い切った奈留に、ノゥエは言い返すことの無意味さを悟ったようだ。

『さて、雑談はこのくらいにして出発しようか』

「あ、話を逸らしたっ」

 奈留はまだぶつくさと文句を言っていたけれど、両足は勝手に歩き始めていた。

 ログイン地点である街マップ「中央都市ラートネック」の中心部である広場から歩き出し、大通りをまっすぐに進む。ゲーム内でも最大級の大きさを誇るこの街は、周囲をぐるりと城壁で囲まれている。城壁にはちょうど時計の文字盤に当たる間隔で、十二の城門が並んでいる。

 ノゥエに操作された奈留は、真西の――九時の方角に当たる城門から外に出た。

 街マップから野外マップに出ると、始めのうちは下草の萌える長閑な草原が広がっている。街中からそのまま続いている石畳の街道が、その草原をどこまでも突っ切って伸びている。街道に沿って延々と歩いていけば、他の市街マップに辿り着くが、道から逸れて木立のちらほらと茂るほうへ進んでいく。

 そのまま進んでいっても、やがては目的地である鬱蒼と生い茂る森林地帯に着くだろう。けれども、その道程は距離にして、ゆうに百キロメートルはある。さすがに、それだけの道程を延々歩いていては、何日かかっても目的地に辿り着けない。

 では、どうするのかと言えば……。

 奈留は街道から外れた草原を、南西の方角へとまっすぐ歩く。木立の茂る間隔は少しずつ狭まっているように見えるが、とても森林と呼べるほどではない。

 だが、奈留の足はそこで立ち止まった。

 奈留の目の前には、奈留の身長よりも高く、胴回りよりも幅のある石塔が建っている。巨大な石碑、あるいは灯籠のようにも見える。

 石塔には、ちょうど奈留の腰くらいの高さのところが台状に張り出している。奈留がその台に手を載せると、石塔全体が淡く光り始めた。

『あ、転移するよ』

 ノゥエが思い出したように言ったのと同時に、奈留の視界がふわっと溶けるようにして白一色で染まった。

 一瞬にして、奈留の意識から時間と空間の感覚が失われる。前後や上下がなくなり、足下も消失する。落ちているのか上っているのか分からないうえ、どこまで落ちて(あるいは上って)いくのかも分からない。

 このまま白一色の世界で永遠に落ち(上り)続けるような感覚に囚われたのも、しかし、これまた一瞬だけのことだ。あらゆる感覚は、消えたときと同じ唐突さで滲み出すように回復する。

 気がつけば、奈留は鬱蒼とした森林のただ中に立っていた。目の前には先ほどのとまったく同じ見た目の石塔が建っている。奈留は、草原の石塔から森林の石塔へと瞬間移動したのだった。

「もう! 転移装置を使うときはちゃんと言ってよ、って何度も言っているのに!」

『いや、ごめん。でも、直前にいちおう言ったよね』

「直前過ぎ!」

 奈留はノゥエに怒鳴りつけながら、ぶるるっと激しく頭を振る。

「うぅ……わたし、乗り物酔いはしないほうだと思うんだけど、どうにも瞬間移動だけは慣れないわ……」

『一説によると、空間把握の能力に長けているほど、転移時に生じる空間絶対座標のずれを敏感に感じ取ってしまうそうだけど……きみ、地図を読むのは得意なほう?』

「自慢じゃないけど、初めての場所で迷わなかったことがないわ」

『なるほど。地図を読めないひとは相対的な空間把握が苦手だから、その分だけ、絶対座標に対する感覚が強くなるとも言うね』

 ノゥエがにやにやと笑い混じりに言った言葉に、奈留は小首を傾げてから、

「……馬鹿にしているのよね?」

 にっこりと不穏な笑顔を浮かべた。

『さあ、お喋りはここまで。行こうか』

 ノゥエはばっさり話を終わらせると、奈留の両足を森の奥へと向けて歩き出させた。

 森は高く伸びた木々の枝葉が絡み合うようにして天蓋を作っており、その隙間からは何条もの細い木漏れ日が差し込んでいる。

 歩くだけなら困らないくらい明るいが、周囲を見通すのにはいささか心細い。無秩序に生えている樹木の陰に敵性MOBが隠れていたら、肉眼では見つけられないかもしれない。

 そう――ここはすでに、敵性MOB(エネミー)に襲われる可能性のある危険地帯なのだ。

 街を出てすぐの草原にも敵性MOBは棲息しているのだが、それらはプレイヤーから攻撃を仕掛けないかぎり、向こうから襲ってくることはない。いわゆる、受動的(パッシブ)な|思考(AI)で動いている(タイプ)だ。

 それに対して、この森林を徘徊している敵性MOBは、プレイヤーを認識すると向こうから襲いかかってくる能動思考(アクティブ・タイプ)のものばかりだ。

 それに加えて、密生する木々のせいで森は薄暗く、見通しも利かない。蛇を模した敵性体が枝から枝へと音もなく伝ってきて、頭上から奇襲をかけてくることを常に警戒していないといけない。

 ――とはいえ、奈留が具体的に何かするというわけではない。

『来たよ、敵だ!』

 ノゥエは言うや、腰に両側に吊っている銃鞘から火薬銃のほうを引き抜くと、高々と天に向けて振り上げざまにぶっ放した。

 銃声が森の中でこだまする。

 ぴぎゃ、と甲高い呻き声を発して、奈留の脚ほどもある蛇が頭上から落ちてきた。蛇は落ちる途中で淡く光る粒子の集合体に変換されて、宙へ解けていくように四散した。

 奈留が別段、意識しなくとも、奈留がゲーム内のキャラクターとして身につけている能力によって、自動的かつ常態的に警戒できているのだ。

 例えば、いまの蛇みたいなのが忍び寄ってきても、奈留にはなにも感じられない。しかし、奈留を操作しているノゥエには警報が鳴らされるのだ。

『今日のメインディッシュが待っているのは、この先だ。奥へ進むよ』

 ノゥエは銃を片手に握らせたまま、奈留の足を森の奥へと歩ませる。奈留はとくに何も言うことなく、身を任せている。

『……どうかした?』

 いつになく大人しい奈留に、ノゥエはつい、そう尋ねた。

「え、なんで?」

 奈留はぶっきらぼうに聞き返す。

『機嫌が悪そうだから聞いてみたんだけど、余計なことだったかな』

「機嫌が悪いか悪かないで言ったら、最悪よ」

 いっそうぶっきらぼうな言葉。

「せっかく下ろしたての服でお出かけだっていうのに、その行き先がこんな薄暗い森の中だなんて、気分最悪に決まっているじゃない!」

『……それは、ぼくに当たられても困るよ。目的のボスが出現する沼地には、この森を通り抜けるのが一番の近道なんだから仕方ない――』

 ノゥエが言い訳を口にした途端、奈留が叫んだ。

「沼ぁ!? 沼って、あの水の代わりに泥が溜まってる湖みたいな、沼!?」

『きみが思っているほど泥まみれではないと思うけれど、まあ、その沼だね』

「森に沼に……ああ、最悪……もっと明るく楽しい場所でピクニックでも良かったじゃないのよ……」

『装備を新調したのはボス戦のためだろ。それでボスに挑まずピクニックしていたんじゃ、本末転倒もいいところじゃないか』

「知らないわよ! わたしは買い物が楽しかったというだけで満足なの。ボス戦とかいうのには興味ないもの。本末転倒って言われても、意味分かんないし!」

 唇を尖らせた奈留に、ノゥエは絶句と苦笑で答えた。

『……うん、まあいいや。どうせ、操作するのはぼくなんだし、それ相応の報酬も払っているんだし、勝手にやらせてもらうよ』

「勝手にすれば?」

 奈留は投げやりな口調で言い放っただけで、それ以上の文句は言わなかった。言っても意味のないことを、さすがに熟知していた。

 ノゥエに操られるまま、奈留は薄暗い森を突き進む。

 この森林マップに巣食っている敵性体は、蛇の他に巨大カブト虫、そして大虎だ。

 足下や頭上の枝葉を滑るように伝って奇襲をかけてくる蛇。こちらを捕捉すると弾丸のような速さで突っ込んでくる、奈留の顔より大きなカブト虫。周辺マップに一体しか棲息していない虎は、ボス属性こそ具えていないけれど、いまの奈留ではおそらく敵わないほど強い。

 強いくせに、倒してもあまり良いものを落とさない虎が徘徊している上に、多量に配置されている蛇とカブトムシも、取り立てて美味しい獲物ではない。だから、この森林で狩りをしようという者は少ない。ノゥエが奈留をこの森に転移させたのも、単にここの転移石塔が目的地の沼地に一番近かったから、というだけだ。

 奈留は、ときどき頭上や足下から襲いかかってくる蛇を撃ったり、羽音を響かせて飛び込んでいるカブト虫の群れを迂回したりしながら、木々の間を迷いなく進んでいく。

 するとやがて、木々の間隔が少しずつ疎らになっていく。それと一緒に、踏み締めている地面が湿気を帯びてくる。もともと柔らかだった腐葉土がさらに緩み、一歩踏み出すたびに足の裏がぐじゅりと沈む。

 湿った地面に足跡を付けながら奥へ奥へと進んでいくと、木々はいよいよ疎らになり、日差しが直に地面を照らすようになる。

 そしてとうとう、視界がいっぺんに開けた。奈留の眼前には、一面を苔と蔦に覆われた緑色の沼が広がっていた。沼には大小いくつもの中州や葦原が点在していて、それらを繋ぐ丸木橋も横たわっている。

『はい、到着……思ったより時間がかかっちゃったね』

「最低……足元ぐじょぐじょじゃないのよ……せっかくの新品ブーツが汚れまくるじゃないのよぉ……!」

『それは心配しなくていい。この沼地も、きみが履いているブーツも、どっちも拡張現実だから、汚れたりすることはないよ。ああ、沼地だからって蛭や藪蚊がいたりすることもないから安心して』

「うわぁ、壮絶なネタばらし。やる気、萎えまくったわぁ」

『もとからやる気がなかったようだけど』

 ノゥエが咎めるように呻いたけれど、奈留はまるっと無視する。

「実際にブーツが汚れようが汚れまいが、こんな足下ぐちゃぐちゃなところは楽しくないの。ボスでも何でもさっさと倒して、さっさと帰らせて」

『はいはい、了解』

 奈留は丸木橋を渡って、沼の中心部へと向かう。中心には一際大きな中州になっているのだが、近づくにつれて、その中州に何か大きなものが浮かんでいるのが見えてくる。それは苔生した水浸しの地面から数十センチのところに浮かんで、宙を滑るように中州を徘徊している。

「あれがボス……?」

 奈留には最初、それが赤黒くて丸い物体にしか見えていなかったが、次第にその姿が判別できるようになってくると、

「……うげっ」

 嫌悪を丸出しにして呻いた。

 中央中州を我が物顔で、ぶぅんぶぅんと羽音を響かせて跳びまわっていたのは、奈留よりも大きな赤黒い肌をした――蠅だった。

「ねえ……あれ? あれなの? ボスって、あれなの!?」

『うん、そうだよ』

「いやああぁッ!!」

 身体が自由に動かせたなら、奈留は両手で耳を塞いでいたことだろう。もちろん、両目はぎゅっと閉じて、見てしまったボスの姿を見なかったことにしようとしている。けれど、目の奥に焼き付いてしまったボスの姿は消しようがなかった。

 全長二メートルの巨大な赤い蠅は、ただの蠅ではない。顔が三つで、ミラーボールのような複眼も三対六つ、鋸のような長い腕も三対六本、生えている。背中にはぶぅんぶぅんと唸りを上げる羽根が生えているのだろうけど、羽ばたきが高速すぎて、虹色のきらめきとしか視認できない。

 戯画化された蠅を三匹束ねて作った阿修羅像、といった姿の敵だった。

『あれこそ沼地の主、ランディーフライ・ダディだ』

 その後ろには、ランディーフライ・ダディよりは小さいけれど、それでも子供ほどの大きさがある赤蠅の群れが付き従って飛んでいる。ボス属性ではない一般の敵性体だが、ボスが呼べば何度でも出現する“取り巻き”だ。

『取り巻きの蠅にこれといった特徴はないけれど、数がいるというだけで厄介だ。だから、まずは範囲攻撃で取り巻きを片付ける。再召喚されるまでには最低でも百八十秒の猶予があるはずだから、その間にボス本体を仕留める――そういう流れでいくよ』

「流れでいくよ、って……あ、あれに近寄るの!?」

『当たり前だろ。こっちの獲物は銃だけど、それでももうちょっと近づかないと命中率が確保できない』

 言葉を交わしている間にも、奈留の身体は巨大赤蠅ランディーフライ・ダディに近づいていく。

「まっ、待って。せめて心の準備をさせて!」

『べつに必要ないでしょ。きみが何かをするわけじゃないんだから』

「それはそうだけど!」

 と訴えている間にも、奈留は銃の射程圏まで近づいていた。

 左右の銃鞘から火薬銃と魔砲銃を片手に一丁ずつ抜いて、銃口を巨大赤蠅に向ける。すると、それまではまだこちらに気づいていないようだった巨大蠅が急反転して、奈留を、三つあるうちの真ん中の顔でまっすぐ見据える。奈留が銃口を向けたのに反応して、|行動(AI)が徘徊から戦闘にモード変更されたのだ。

『来るよ! 戦闘開始!』

 小蠅(ジュニア)を引き連れて飛来するランディー親父(ダディ)を、二丁の銃口から撃ち出された弾丸が迎え撃った。

 戦闘は、そう長くは続かなかった。

 巨大蠅はその巨体に似つかわしくない機敏さで空中を自在に飛びまわって、奈留の銃撃を躱しまくった。そして躱すだけでなく、高速で奈留の懐に飛び込んでは、先端が鋸になっている六本の腕を繰り出し、奈留を攻め立てた。

 高い回避能力で相手の攻撃を避けまくり、圧倒的な攻撃速度で相手の耐力(ヒットポイント)を削り取っていく――足捌き(フットワーク)手数(ジャブ)を駆使して、相手に何もさせず、一方的にじわじわ殴り続けるアウトボクサーのような戦い方だ。

 常に距離を保って、相手を近づけることなく一方的に射撃する――というのが奈留の戦闘方法だが、大赤蠅の機動力はノゥエが事前に集めていた情報を上回るものだあった。

 事前の想定では、足下に多少の制限を受けても、銃撃を当てれば相手に仰け反り動作(ノックバック)が入って瞬間的に動きが止まるから、その間に後退することが出来る……と、そうなる算段もりだった。

 しかしまあ、蓋を開けてみれば、その計算は希望的観測に基づきすぎているものだった。

 攻撃を当てれば、大赤蠅は確かに怯んで動きを止める。けれど、それは本当に一瞬だけのことだ。連続で命中していたのならともかく、散発的にしか当たらない銃撃では、ろくな足止めにならなかった。

 そして、大赤蠅の攻撃力はけして高くなかったものの、高速機動から矢継ぎ早に繰り出される六本の鋸を全て避けきることは出来ない。|耐力回復薬(HPポーション)は多めに持ち込んでおいたつもりだったけれど、気がつけば底を尽きていた。

『相手の攻撃力は予想していた程度のものでしかなかったけれど、とにかく手数が予想外に多すぎた。あれこそまさに弾幕というやつだったね』

 戦いが終わった後の、ノゥエの感想である。

 ノゥエも、取り巻きの小蠅を三度蹴散らすくらいは健闘したのだけど、見る間に耐力ゲージが削れていく。回復薬が尽きたところで、ノゥエは選択を迫られた。

 奇跡を信じて最期まで戦うか、ここで見切りを付けて遁走するか――。

 だがしかし、ノゥエが決定するまでの猶予を、大赤蠅は与えてくれなかった。

 ノゥエが判断を迷った瞬間、大赤蠅はまるで人間の機微が読めるかのように動いた。

『あ……』

 と思ったときには、それまで確かに捉えていた大赤蠅の姿が、ノゥエの視界から消失した。同時に、ずっと正面から聞こえていた羽音が、ノゥエの背後から大きく聞こえてくる。

『後ろ!?』

 ノゥエが奈留を振り返らせたときには、奈留の背後に瞬間移動(ブリンク)していた大赤蠅が六本の腕を大きく振りかぶっていた。

 微妙な時間差をつけて振るわれた六連続の斬撃が、奈留の身体をばらばらに斬り刻んだ。奈留は振り返るだけで精一杯だった。

「うぎゃあぁッ!!」

 全身に走った衝撃と、大ダメージを受けたことを示す赤い光の明滅に、奈留は濁声の悲鳴を上げる。残り四割ほどに減っていた耐力ゲージが一気に削れて、一割を切ったことを示す赤色に染まり、そして零になったことを示す黒色に変じた。

 耐力、零。すなわち死亡状態になったのである。

 さっきの六連撃で身体を斬り刻まれたように感じたのは、あくまでも演出だ。実際には傷ひとつ付いていない。ただ、身体の操作権が奈留からもノゥエからも失われて、倒れ伏した奈留はまったく身動きが取れなくなっていた。

 こうなってしまっては、ノゥエに出来ることはふたつにひとつだ。

 再出発(アンプレアブル)を選択して、最後に街マップから出た時点の情報に巻き戻すか、ここで他のプレイヤーが通りかかるのを待って蘇生(リザレクト)してくれるように頼むか、だ。いちおう他にも、知り合いに連絡(ウィス)して助けに来てもらうという選択肢もあるけれど、残念ながらノゥエは孤高の独り身(ソロ)プレイヤーだ。

『というわけで、残念ながら再出発しようか。まあ、今回は失うものも少ないし、勉強代だと思って諦めようか』

「何でもいいから、この状況を早く何とかして!」

 ノゥエの言葉に、奈留は湿地に横たわったまま答えた。

 奈留にとっては、死亡状態になってもならなくても身体の自由が利かないことに変わりはないけれど、仰向けに寝そべっている後頭部がぐっちょりと沈み込むほどぬかるんだ湿地にいつまでも寝そべったままでいさせられるのは気色悪くて堪らないのだった。

『はいはい。では……』

 ノゥエが操作したのだろう……奈留の視界に、

「再出発を選択しました。本当に良いですか? Yes/No」

 という選択肢(ダイアログ)が表示される。

 ノゥエが「Yes」を選択すれば、奈留の身体は中央都市ラートネックの城門前に転送されるはずだった。しかし、そうなる前に、状況に変化が訪れた。

 巨大赤蠅ランディーフライ・ダディとその取り巻きは、攻撃対象だった奈留が倒れたことで徘徊状態に戻り、中州を再び不規則に飛びまわっていたのだけど、それが急に動きを変えて、ある方向へ一直線に飛んでいった。

 奈留はいま死亡状態ではあるものの、首から上はこれまで通り、自由に動かすことが出来る。だから、奈留は仰向けのまま首だけを横向きにして、そちらを見た。

 赤大蠅が向かった先には、操作キャラクターが立っていた。奈留が倒れた後の次なる挑戦者、というわけだった。

 腰までの長い銀髪をたなびかる女性キャラクターだ。奈留よりも一、二歳か年上にも見える、目元の涼しげな美人である。が……銀髪よりも顔立ちよりも何より、その服装が強烈だった。

 男性と同じくらいの高身長に、男性誌のグラビアを飾っていそうな胸囲のスタイル。その体型を包んでいるのは、白地のチャイナドレスだった。ただし、袖無しホルターネックに胸元がざっくり開いている上、裾の長さは股下十センチあるかどうかで、さらに裾の両脇には腰まで見えるほど深い切れ込み(スリット)が入っているという、肉感的(ボディコン)なミニスカ胸開きチャイナだった。

 そんな白チャイナのスリットからは、下着の黒い紐とガーターベルトが覗いている。ガーターで吊られているストッキングは、黒地に銀糸の蜘蛛の巣柄だ。

 胴体装備の軽装ぶりに反して、両腕両脚には黒光りする厳つい金属製の籠手と脚甲をまとっている。そして背中には、蝙蝠のというか小悪魔じみた黒い小さな翼が見えている。

 長い銀髪に小悪魔風の黒い翼。白いミニ丈チャイナドレスに、ちらりと見える黒い下着の横紐と、黒地に銀糸のガーターストッキング。両腕と両脚には黒い金属鎧……彼女は、白黒銀の三色を身にまとわせた長身美女だった。

『あの子、ボスと戦うのかな……?』

 ノゥエが独り言のように呟く。

 奈留の視界から、再出発するか否かを問いかける表示が消えた。ノゥエが街への帰還を取り止めたことの証だ。

 めりはりの効いたボディラインを惜しげもなく晒す銀髪美女は、よくよく見れば、片手に長大な剣を引きずっていた。

 その大剣を、銀髪美女は切っ先を泥濘に沈ませたまま、両手で握り直す。それに合わせて、大剣はぶぅんと重低音の唸りを上げ始めた。奈留たちがその音の正体に気づいたのはまさに、新たな敵を捕捉して戦闘モードになった大赤蠅とその取り巻きが、銀髪美女に襲いかかったそのときだった。

 銀髪美女の振り上げた大剣が、耳障りな金属音と火花を散らしながら、大赤蠅の打ち込んだ鋸を受け止める。

 その大剣もまた鋸だった。切っ先の丸い剣身の縁を、鮫の刃みたいな細かい鋸刃がぐるりと覆っていて、それが高速で回転していた。

 過激な衣装の銀髪美人が振るった剣は、巨大なチェーンソーだった。

「なに、あれ……剣なの? あんな剣もあったんだ……」

 奈留の呟きに、ノゥエが答えるともなく言う。

『あれはチェーンソーエッジ……大剣のなかでもかなり稀少度の高い剣だ。交易市場(ユーザートレード)に出したら、売値は|千万(10メガ)、いや|二千万(20メガ)通貨(クレジット)は下らないんじゃないかな』

 ちなみに、奈留が装備している銃の市場価格は、二丁合わせても二百万通貨に満たない。

『……って、いや、凄いのは武器だけじゃない。あのチャイナドレスは確か、呪い装備だ。強い防御力や特殊能力などがある代わりに重大な弱点もあるという、着こなすのが難しい装備だよ』

「それよりも、わたし、気づいちゃったんだけど……あのチャイナドレス、じつは白じゃなくて半透明よね!? 下着、完っ璧に透けてるわよね!?」

 倒れたまま首だけ横向きにしている奈留は、戦っている銀髪美女の胸元やら腰元やらを穴が開くほど凝視したまま吠える。

 銀髪の彼女がチェーンソーを振るうたび、肌に密着しているミニ丈チャイナドレスの胸元や腰回りから下着の黒が浮かび上がって見えるのだ。きちんとした厚みのある白地の服では、こうもはっきり下着の色が浮いてしまうことはない。最初から下着が透けることを前提にしたドレスだということに、疑問を抱く余地はなかった。

「うわっ……あの人、あんな透け透けボディコンな格好で、あんなに動きまわっちゃってるよ……あぁ!? うわぁ!! 見えてる見えてる! ただで見せちゃいけないものが、見えまくってるってばぁ!!」

 銀髪美女がその艶やかな銀髪を靡かせて戦う姿にひっきりなしの悲鳴を上げていた奈留だったが、ふいに口を噤んで訝しげに呻いた。

「……ねえ、ノゥエ」

『ん、なんだい?』

「あの子、さっきから防御とか回避とか、全くしていなくない?」

 奈留が指摘した通り、チェーンソーを振るう銀髪女性は大赤蠅どもの攻撃を全て食らっているようだった。それも、避けようとして避けきれなかったのではなく、端から避けるつもりがないように見えた。思えば、最初の一撃をチェーンソーで受け止めたのも、攻撃のために打ち込んだチェーンソーがたまたま大赤蠅の鋸とぶつかっただけなのかもしれない。

 だが、普通はそんな戦い方が出来るはずもない。

 敵の攻撃を食らえば、怯み動作(ヒットストップ)が発生して瞬間的にでも動きが止まるし、何よりも耐久ゲージがごりごり削れていく。回復薬なり回復技なりを使えば耐久力の回復も可能だが、銀髪の彼女がそういった薬を飲んだり、技を使ったりしている様子はない。

「あんなに食らいまくっているのに、あの子はなんで死なないの?」

 奈留の疑問ももっともだ。

 銀髪美女が食らったダメージの総量は、奈留だったらとっくに死亡しているほどだ。

『たぶん、高レベルの|耐力強化(HPブースト)の宝珠を何個も付けているんだと思う。でも、それだけじゃない――ほら、彼女の頭装備を見てごらん』

「頭装備?」

 ノゥエの言葉に、奈留は銀髪美女の頭を見る。すると、さっきは気づかなかったけれど、彼女の頭部には荊の冠が巻かれていた。

『あれはパッション・クラウンと言って、S級レアの呪い装備だ。装備すると出血状態になって常時ダメージを受け続ける代わりに、自分の攻撃で相手に与えたダメージの何割か分だけ自身の耐久値を回復させられる、【与ダメ吸収】の固有能力があるんだ』

「えっと……それって、攻撃し続けていれば絶対に死なないっていうこと? そんなの強すぎない!?」

『普通はここまで強くないよ。相手の攻撃を食らえば、怯みが発生して動きが止まってしまうし、一撃当たりの回復量はそんなに多くない。だから、普通だったら、あんなふうに足を止めての殴り合いなんて出来たりしないんだ……たぶん』

「たぶん?」

『ぼくだって、与ダメ吸収装備を見るのは初めてなんだ。いまのは攻略サイトで読んだことの受け売りだよ――でもまあ、たぶん、【怯み無効】の宝珠で攻撃の手を止められないようにして、【攻撃速度強化】の宝珠で手数を増やしているんだろうね。与ダメ吸収を最大限に活かすための装備を調え、戦術を実行しているんだ。すごく強いよ……あの子も、あの子を操作しているプレイヤーも』

「すごく強いっていうのは、見ていれば分かるわ」

 奈留も頷いた。

 銀髪美女は、大赤蠅やその取り巻きである蠅どもの攻撃を無防備に受け続けながら、ひたすら攻撃だけに専念している。それはダメージ吸収による回復量が、受けているダメージの量を上回っているというだけのことだ――プレイヤーにとっては。でもキャラクター役の者にとっては違う。

 これはゲームだから、鋸で斬られようが突かれようが撥ね飛ばされようが、痛みらしい痛みは発生しない。けれども、痛くないから、怪我しないから平気というわけにはならない。たとえ立体映像でも、目の前にボールが飛んできたら怖いのだ。

「わたしだったら、あんなにばんばん斬られまくりながら、あんな顔してゲームを続けるなんて……うん、無理ね」

 奈留は一呼吸の間だけ考えて、そう言い切った。

 打たれながら打つ戦法を実践している銀髪美女の表情は、まるで居眠りしているかのようだった。心ここに在らず、というやつだ。

 キャラクターの身体を動かしているのはキャラクター本人ではなくプレイヤーなのだから、キャラクターである銀髪美女がぼんやりしていようが居眠りしていようが問題はない。でも、だからといって自分自身が戦っている状況から目を逸らすようなことは、普通は出来ないことだ。少なくとも、奈留には出来ないことだった。

 ノゥエはプレイヤーとして、銀髪美女の装備と、その背後(プレイヤー)の戦術に感嘆する。奈留はキャラクターとして、銀髪美女の泰然自若っぷりに驚嘆する。二人がそれぞれの視点で見入っているうちにも、銀髪美女と大赤蠅との戦いはいよいよ佳境を迎えた。

「……」

 気合いの声も何もなく、銀髪美女がゴルフスイングのような斬撃を繰り出す。切っ先で地面を削りながら頭上まで高々と掬い上げられたチェーンソーから、轟々と吠えたくる竜巻が起こり、取り巻きの小蠅どもを上空へと巻き上げた。武器にだけ装着可能な技宝珠(アーツ・ジェム)【竜巻起こし】を発動させたのだ。

 回転しながら打ち上げられた小蠅の群れは、そのまま空中で粒子の光に解けて消滅する。大赤蠅だけは消えずに生き残ったが、空中に巻き上げられて動きを止めている。そこを銀髪美女の追撃が襲った。

 チェーンソーに嵌められた二個目の技宝珠【渾身の一撃】だ。両脚を大きく広げ、大上段に仰け反るほど大きく振りかぶった構えから、チェーンソーを一気に振り下ろす。単純だが強力な斬撃が、大赤蠅を正面から真っ二つに断ち割った。

 大赤蠅の姿が掻き消える。

「勝った!」

 奈留が歓声を上げる。だが、ノゥエが即座に打ち消した。

『いや、違う! 後ろだ!』

 打ち下ろされたチェーンソーが当たった瞬間、大赤蠅の姿は消えた。だが、撃破時に起きるはずの粒子に分解される効果は出ていない。

『瞬間移動だ!』

 ノゥエが叫んだのと同時に、大赤蠅の姿が銀髪美女の背後に再出現した。

 六本の鋸腕はすでに振りかぶられている。奈留が止めを刺された、瞬間移動からの六連撃を放とうというのだ。

「来る!」

 奈留が息を飲む。

 銀髪美女は、大振りの一撃を空振りした体勢で動きを止めている。技を発動させたことによる硬直が発生しているのだ。

 硬直は一秒未満で解けて、銀髪美女は背後に振り返るが、もう遅い。大赤蠅の六連撃が彼女の全身を滅多切りにした――が、それだけだった。

「え……嘘ぉ……」

 奈留が口をあんぐり開けたのは、銀髪彼女が六連撃をまともに食らって、それでもまったく動じていないからだ。

『耐久強化の宝珠、どれだけ付けているんだよ……』

 ノゥエも驚きの声を漏らしている。

 確かに大赤蠅ランディーフライ・ダディは一撃の重さより手数の多さで攻める戦い方のボスだが、それでも、奈留の四割は残っていた耐力を一気に削りきった必殺の六連撃だ。銀髪美女の耐久値がどれだけ残っていたのかは分からないけれど、十割ではなかっただろう。

『いや、それとも十割近く残っていたのか? 与ダメ吸収の回復量が被ダメを上回っていた……いやいや、そうだとすると、相当な攻撃力を確保しているということになるぞ』

 ノゥエの推測を裏付けるように、銀髪美女が再びチェーンソーを大上段に振りかぶる。大赤蠅は六連撃を放ったことによる硬直の最中だ。

 もの凄い勢いで振り下ろされたチェーンソーの回転刃が、大赤蠅を今度こそ真っ二つにした。大赤蠅は大型車が急ブレーキをかけるような悲鳴を上げながら六本の腕をもがかせると、断ち割られたところから光の粒子へと解けていく。その姿が完全に消え去ったところで、ボス撃破を讃えるファンファーレが華やかに鳴り響いた。

「やった!」

『終わってみれば圧倒的だったね』

 奈留もノゥエも、我がことのように興奮している。自分が倒したわけではないが、初めてボスが倒されるところを見たからだ。

 そんな二人とは対照的に、銀髪美女は物思いに耽っているような表情を少しも変えていない。大赤蠅の落とした戦利品(ドロップ)を手早く回収すると、この場を立ち去ろうとする。

『あっ、待って待って。奈留、彼女を呼び止めて!』

 プレイヤーが自分が操作している以外のキャラクターに話しかけることはできないけれど、キャラクターの声を聞くことはできるのだ。

「ねえ、待って!」

 奈留はノゥエの言葉に従って声を発する。しかし、銀髪美女は足を止めなかった。距離的に、聞こえなかったはずがないのに、だ。

「え? なんで? ちょっ、待って……待っててば、ねぇ!? 透け透けミニチャイナのあんたに言っているのよ。聞こえているんでしょ!!」

 無視されたことに憤慨して、奈留は大声を張り上げる。これはさすがに、ぼんやりしている銀髪美女の耳にも届いたようで、彼女はびっくりした様子で振り返る。

 ただし、反応したのは首から上だけだ。身体は前へと歩いているままだ。どうやら、彼女の背後(プレイヤー)には、奈留たちの呼びかけに応じるつもりがないようだった。

 銀髪美人は奈留のほうを横目で振り返りながら、見えない誰かと言葉を交わしている。プレイヤーと話していたようだったが、会話の時間は短かった。そして、彼女の足取りに変化を及ぼすこともなかった。

「あの……ごめんなさい」

 銀髪の彼女は歩調を緩めないまま首だけで振り返り、睫を伏せるようにして謝ったが、それだけだった。

『奈留。早く彼女を呼び止めて。蘇生してくれるようにお願いして、早く!』

 ノゥエに言われるまでもないことだった。

「ちょっと待ちなさいよ! 話くらい聞きなさいよ! ちょっと助けて欲しいだけなのに! お礼だってちゃんとするのに……ちょっとぉ! 聞きなさいってばぁ!!」

 奈留は銀髪美女の後ろ姿が完全に見えなくなるまで叫び続けたが、彼女は一度も立ち止まらなかった。彼女はただ何度も、申し訳なさそうな目で振り返るばかりだった。

 銀髪美女がいなくなってからしばらく待ってみても、誰かがやって来ることはなく、ノゥエは結局、再出発を選択したのだった。


 ◆


 翌日、ログインした奈留は中央都市の宿屋へと向かった。

 宿屋の外観は大きめのペンションか民宿といった感じだが、中に入ってみると、その内観は西部劇に出てくる酒場のようになっている。少し違うのは、店の奥にあるのがバーカウンターではなくホテルの受付で、その横に大きな上り階段があることだった。

 ノゥエが操作する奈留は、疎らに埋まっている食卓の間を通り過ぎて、まっすぐに受付へと向かう。受付カウンターで応対する|店員(NPC)に対して手続きを済ませると、奈留の視界がじわりと白く滲む。一秒と待たずに視界が戻ると、そこは宿屋一階の酒場ではなく、自分一人しかいない落ち着いた客室になっていた。

 このゲームにおける宿屋とは、別サーバーに用意されているプレイヤー個々人専用の私室へ移動するための発着所(ポータル)を意味する。受付の隣にある階段を上っても、踊り場を曲がったところで行き止まりになっているだけだった。

 どの街の宿屋でチェックインしても、転送されるのは常に同じ部屋である。そのほうがサーバーの容量を節約できるし、イベント開催時などでプレイヤーが一カ所の宿に集中しても問題なく対応できる。

『それでは、旅先の宿ごとに違った趣の宿を取るという楽しみが味わえないではないか!』

 という不満を訴えるプレイヤーもいたけれど、私室の内装や窓から見える風景はプレイヤーが任意に変更することが出来るから、

「他の街へ移るのに合わせて、部屋の内観も自分で変更するようにすればいい」

 というのがゲーム運営側の回答ということになる。

 しかし、そこにも落とし穴はあって、私室の内装や窓からの景観を変えるためには、家具や壁紙といった専用のアイテムが必要になってくる。そして、それらの入手方法は他の装備や宝珠と変わらない――つまり、色んなクエストをこなしたり、手強いボスを討伐したりしなくてはならない。入手経路が限られているのだ。

 簡単に手に入るものは、交易所を調べれば手頃な価格で転がっているけれど、入手難度が高くてさらにデザインも良いものとなると、稀少装備と同等以上の価格で取引されていたりする。私室の内装にこだわりすぎて資産を全て溶かしたという話も、あったりなかったりだ。

 幸か不幸か、奈留にもノゥエにも内装に対するそこまでのこだわりや理想はなかった。私室の壁と床は明るい灰色の一色で塗りつぶされていて、窓の外に広がっている景色は中央都市の街並みという初期設定のままだ。唯一の変更点と言えば、窓際の片隅に置かれている小さなサボテンの鉢植えくらいだ。砂漠地帯の敵がよく落とす、希少性C(アンコモン)のありふれたもので、交易所に出品しても二束三文にしかならないから部屋に飾ってみたというだけのことだった。

 そんな、椅子も机もベッドもない殺風景な部屋の窓際で胡座を掻いて、奈留は――奈留とノゥエは、交易所の出品目録を片手に話し続けていた。

『だからさ、あのボス……ランディーフライ・ダディの攻撃力は予想していた通りの、いまのきみでも耐えられる程度のものだった。でも、実際には耐えきれなかった――きみは何故だと思う?』

「さあ?」

『理由のひとつは、相手の攻撃速度と命中率について、あまり深刻に考えていなかったことだ。耐えきれ程度の威力なら、回復薬を適宜飲みながら戦えば問題ないだろうと踏んでいたのだけど、そこが甘かった。相手の攻撃を食らうペースが速すぎて、回復薬を使っている暇がなかった。それで耐久値を高めで維持していられなかったことが、最後の六連撃に耐えきれなかった原因なんだ』

「まあ、そうね」

 奈留のやる気がない返事にも、ノゥエの弁舌は止まらない。

『でも、それは理由のうちのひとつでしかない。もうひとつ、もっと大きな理由があったんだよ。これについては、まったく考慮していなかった。まさに盲点というやつだよ。でも、気がついてみれば当然のことなんだよね。むしろ、どうして事前に考えが及ばなかったのかと自分で自分に問い質したいくらいだよ』

 ノゥエの言葉はひたすらに迂遠だ。こんなときの彼が自分に対してどんな反応を求めているのか、キャラ役に就職して四ヶ月目ともなると、奈留には分かっている。

 どういうことか教えてよ、早く言ってよ――奈留がそう言ったなら、ノゥエは嬉々として答え始めるだろう。でも、それが分かっているからこそ、奈留は敢えて黙っているのだった。

 だけど、そんな些細な抵抗が通じるようなノゥエではない。

『そんなに考え込むようなことじゃないんだ。要は閃きというやつさ』

 ノゥエは、奈留が“もうひとつの理由”が何なのかを考え込んでいるから黙っているのだと解釈したようだった。むっとするどころか、むしろ得意げに答え始めた。

『答えはね、地形だよ。沼沢地帯という地形が、ランディーフライ・ダディの速度と正確性を割り増しにさせていたんだよ。いや、この言い方は逆か――戦場が沼沢地帯だったせいで、きみの敏捷性、回避能力が鈍ってしまっていたんだよ』

「……ああ、足下が湿地だったから、敏捷性に制限を受けちゃっていたのね。その制限分を考慮に入れないで想定していたから、良いところなしで負けちゃった……と」

 ノゥエが長々と言ったことを、奈留は端的にまとめてみせた。

『ん……まあ大雑把に言ってしまうのなら、そういうことだね』

 とくに修正も訂正もできなくて、ノゥエは残念そうに言う。

「だったら、湿地での制限を受けない装備を買い揃えて、もう一回挑戦するの?」

 奈留が聞き返すと、今度はノゥエが黙ってしまう。

『……』

「あら、やる気なし? べつに、それならそれで、わたしはいいんだけど……」

『やる気がないわけじゃないよ。でも、冷静に分析してみると、あのボスはきみと相性が良くない。きみの持ち味は手数と敏捷性なのに、あのボスにそのどちらでも負けていた。ぼくの見立てだと、湿地の制限を回避できる装備を用立てたとしても、もっと根本的に装備と宝珠を見直さないといけなくなる』

「……それ、勝ち目がない、と言っている?」

『いまのところは、ね』

「どうして、そんな相手に挑戦しようとか考えたのよ……」

『理想的に立ち回れば勝算はあると思っていたんだよ。ああ、そうだよ。全面的に、ぼくの見通しが甘すぎだった。そこは何を言われても、甘んじて受け入れるよ』

「べつに何も言う気、ないわよ。というか、あんなじめじめした場所にまた行くって言われるより、諦めてくれるほうが百倍良いし」

『あの蠅にはいずれ再戦を挑むよ。でもそれは、“いずれ”の話だ。いまじゃない。いまは、もっと相性の良いボスと戦おうと思っている』

「何でもいいわよ。変な場所に連れて行かれるんじゃなければ」

 奈留の受け答えはどこまでも素っ気ない。

『何でもいい、ね。それって一番、意味のない返事だよね』

「なら、わたしが希望を言ったら、聞き入れてくれるの?」

『考慮はするよ』

「そういう玉虫色の返事こそ、意味のない返事ね」

『いいから言ってみなよ』

「戦闘とか無しで、きれいで暖かいところでピクニック。お弁当。お昼寝」

『却下』

「ほらやっぱり! 最初から、わたしの意見なんて聞くつもりなかったくせに!」

 頬を膨らませて憤慨する奈留に、ノゥエは溜め息。

『鬼の首を取ったように言わないでよ。これはゲームなんだから、もっとゲームらしいことを提案してくれなくちゃ、聞き入れられるわけがないだろう』

「ゲームらしいって何よ? 戦闘やお金稼ぎだけがゲームだなんて、誰が決めたのよ!?」

『そんなの……む? む、む……』

 ノゥエは呆れた調子で溜め息を吐いたものの、説明できる言葉が見つからなくて喉を詰まらせてしまう。

「ほら、何も言えない。ゲームの楽しみ方にルールなんてないのよ。だってゲームはゲーム。仕事じゃないんだから」

『いや、きみにとっては仕事……』

 ごにょごにょ文句を言いたそうなノゥエだったけれど、不毛な言い合いになる未来が予想できたのか、語尾を溜め息にして誤魔化した。

『はいはい、きみの言う通りだ。ゲームの楽しみ方は人それぞれ。うん、その通りです。でも、申し訳ないけれど却下で』

「分かってるわよ。べつに本気で言ったわけじゃないし」

 奈留もあっさり矛を収める。

「それで実際、このあとはどうするご予定で? また他の地方に行って、楽に稼げそうな依頼をこなす? それとも、他に勝てそうなボスを探すの?」

『後者のほう』

 ノゥエはそう言うと、奈留の手を空中にふわりと踊らせる。すると、そこに革張りの本が現れる。本は空中に浮かんだまま、独りでにぱらぱらと開いていき、ある頁で止まった。

「これは?」

『ぼくがまとめた攻略情報ノート。情報サイトをそのまま見せられたらいいんだけど、ゲーム内に外部ブラウザを表示させることは出来ないから、こうしてまとめてみたんだ。これなら、きみも一緒に見れるだろ』

「はぁ……ゲームに繋いでいないときでも、こんなスクラップブックみたいなものを作っていたのね」

 奈留は呆れ顔で呟きながら、ノートの開かれた頁に目を落とす。

 ノートと言っても手書きしたようなものではなく、ブラウザから文章や画像を|持ってきて貼り付けた(コピー&ペースト)したものらしい。蓮の葉に座禅を組んで座っているミイラの画像と、そのミイラの名前や詳細の情報がつらつらと書き連ねてあった。それによると、このミイラの名前は、バッド・ブッダフッダーと言うようだ。

「このミイラが……勝てそうなボスなの? わたしには、こっちのほうが巨大蠅より強そうに見えるんだけど……」

『どちらが強いかは一概に言えないけれど、ランディーフライ・ダディより弱いということはないね』

 相変わらずの持って回った前置きをしてから、ノゥエは“強そうなミイラ”ことバッド・ブッダフッダーについての説明を始めた。

『こいつは見た目の通り、耐久力はそんなに高くないらしい。物理攻撃力も低いようだ』

「じゃあ、魔法が強いの?」

『それもあるけれど、一番厄介なのは、こちらの物理攻撃を高確率で反射や半減させることだ』

「じゃあ、魔砲銃で撃ちまくればいいっていうこと?」

『そうなんだけど、バッド・ブッダフッダーの魔砲攻撃もかなり強いようなんだよね。だから、このボスは物理攻撃への対抗手段を持った魔砲タイプ、ということなのだろう』

「ええと……」

 奈留は眉根を寄せて、ノゥエの話を整理する。

「魔砲タイプのボスだから、こっちからの魔砲攻撃にも強い、と」

『うん』

「それで、物理攻撃も反射とか半減とか色々強い、と」

『うん』

「それ……強すぎじゃない?」

『そうなんだよね』

「そんなのと戦わされたら、わたし、また酷い目に遭う!!」

 奈留は目を剥いて喚いたが、それはノゥエを笑わせただけだ。

『ははっ、大袈裟だなぁ』

「大袈裟じゃない! あんたに分からないのよ、実際にでっかい蠅やらミイラやらと戦わされるわたしの気持ちは!」

『そう言われると、まったくもってその通りなんだけど、それがきみの仕事だから』

「分かってるわよ、そんなこと! べつにストもサボりもしないわよ。でも、いいじゃない、愚痴くらい言ったって!」

『あまり褒められたことじゃないけれどね……と、勤務態度について苦言を呈する前に、ひとつ』

 ノゥエはそこで短く言葉を切ってから、改めて言った。

『このボスに挑むつもりはないんだ』

 その言葉に、奈留は口をあんぐりだ。

「……は? だったら、どうして……こんなスクラップ帳なんて作ったのよ……」

『いやね、じつはこのボス、バッド・ブッダフッダーが撃破時に低確率で落とす戦利品(ドロップ)は、昨日のランディーフライ・ダディがごく希に落とす戦利品と組み合わせることで、かなり強い宝珠を合成することが出来るんだ』

「ふぅん……じゃあ、昨日の蠅を倒せていたら、このミイラと戦ってみるのも有りだったかもね」

『そうだね――というより、ランディーフライ・ダディを倒しにくる人のほとんどは、宝珠合成の素材を手に入れることが目的みらしいよ』

 ノゥエの説明に、奈留は小さく吐息を漏らしただけだ。さっぱり興味ないのが丸分かりの態度である。ノゥエのほうも、奈留のそんな態度を気にすることなく、勝手に話を進める。

『つまりだね、昨日、ランディーフライ・ダディを倒したチャイナドレスの女性キャラも、宝珠合成の素材を求めてきたのだろうと推測できる。ということは、バッド・ブッダフッダーを倒して、もうひとつの合成素材を手に入れようとしている可能性が高い』

「うん。それで?」

 いまいち要領を得ないノゥエの長広舌に、奈留は少しばかり眉を顰めて結論を促した。

『だからさ、ぼくたちが彼女より先にバッド・ブッダフッダーを倒して、目の前で戦利品の合成素材を掻っ攫ってみたら悔しがってくれるかな……と思って情報をまとめてみたのが、ノートのその頁というわけなんだ』

「つまり……昨日の人に無視されたお返ししてやろうと思って調べてみた結果、勝てそうにありませんでした――っていうことなのね」

『そういうこと』

「じゃあこれ、使わない情報じゃない!」

『まあ、そういうことになるね』

「あんたはいつもいつも、話が無駄に回りくどいのよ! 結論を先に言うようにしないさい。いいわね!?」

『結論というのは、そこに至るまでの過程を理解してこそ意味があると――』

「い、い、わ、ね!?」

『……善処する』

 ノゥエは憮然とした声で言った。

 微妙な沈黙を挟んで、奈留のほうから口を開く。

「で……戦うつもりがないボスの話はもういいから、そろそろ本題に入ってくれない? それとも、他の勝てそうなボスに挑んでみるっていう話自体が白紙だったり?」

『その質問の答えは、次の頁に書いておいたよ』

 ノゥエは奈留の手を使って、攻略ノートの頁を捲らせた。その内容に目を走らせた奈留の第一声は、

「おっきな鰐、ね」

 だった。

 その頁に添付されているボスの姿は、顎の大きな鰐だ。

『こいつの名前はクロコダイル・ダイナスティ。鰐の覇王といった意味合いだね。主な攻撃手段は大顎での噛みつきと、尻尾での薙ぎ払い。威力も高めだけど、さらに厄介なのは一定確率で発動する【防御無視】と【武器破壊】、【盾破壊】だ。とくに武器を壊されてしまったら、どうしようもなくなる。街に戻れば修復できるとはいえ、戦線離脱は必至だからね』

「じゃあ、武器を壊されないように戦えばいいのね。近づかなければいいわけ?」

『うん、そうだね。クロコダイル・ダイナスティにも一応、長射程攻撃の咆吼があるけれど、基本的には接近戦で強いタイプの敵性体だからね。足も遅いようだし、距離を取って戦いやすい相手だ』

 そう言ってから、独語するように付け足す。

『欲を言えば、【破壊無効】の宝珠を嵌めておきたいところだけど……そうすると、いま嵌めている宝珠をひとつ外さないといけなくなるんだよね。そうすると全体的なバランスも見直さないといけなくなるし、何よりも結構な値段なんだよね、【破壊無効】って』

「ん……要するに、距離を取って戦うっていう、いつもの戦法を徹底するだけなのね」

『結局、そういうことだね』

「それだけのことをよくまあ、そんなに長々と持って回った言い方が出来るものね。相変わらず、感心するわ」

 呆れと皮肉が半々の溜め息にも動じることなく、ノゥエは続ける。

『ともかく、クロコダイル・ダイナスティは、ぼくたちにとって相性の良いボスだと言える。昨日の蠅よりは気楽に戦えると思うよ』

「それが本当だったらいいんだけど」

『え、なぜ疑いの眼差し?』

「昨日の蠅にだって、勝ち目があると思うから挑んだんでしょ。その結果がどうだったのか、もう忘れたのかしら?」

『……今度は、危ないと思ったらすぐ撤退するよ』

「それ、本当は勝ち目がない、と言っているように聞こえるんですけど」

 その言葉に返事をする代わりに、ノゥエは話を換えた。

『さて、もう耐久力も全快したね。そろそろ行こうか』

 ノゥエは奈留の身体を立ち上がらせる。

 野外フィールドで死亡して再出発した場合、耐久力は一にされる。街フィールドにいれば徐々に自然回復していくのだが、自室にいると回復率がさらに上がるのだった。

 部屋の戸を開けた向こうには、もやもやした湯気のようなもので覆われているけれど、一歩踏み出すと視界はさっと晴れる。奈留が立っているのは、酒場のような宿屋の受付カウンター横だった。自室のあるサーバーから、ゲーム本体のサーバーへと戻ってきたわけだ。

『さあ、これから鰐を倒しに行くよ。今度は街道をずっと南下して、南の丘陵地帯を目指す。その麓に口を開けている鍾乳洞の奥が、大鰐クロコダイル・ダイナスティの出現地点だ』

 ノゥエは揚々と言いながら宿を出て、石畳の街路を城門へと向かって奈留を歩かせる。

「あ、待って」

 歩きながら、奈留が訊く。

「その……鍾乳洞? そこは遠いの?」

『そうだね……街道は馬を使うとして、丘陵の途中で降りて、そこからは徒歩で森に入って、鍾乳洞を攻略して……』

「あ、もういいわ。時間がかなりかかるのは分かった。それなら、先に休憩を要求するわ」

『あ、そうか。きみの食事とトイレのことは、すっかり考慮の外だったよ』

「どっちも大事なことだから忘れないようにして。それと、トイレって言うな! セクハラ!」

『はいはい』

 奈留には声しか聞こえなくとも、ノゥエが例のカプセルの中で肩を竦めている姿が、ありありと想像できたのだった。


 休憩を挟んだ後、現実時間では夕暮れも終わって夜になろうかという頃合い――奈留は巨大な鍾乳洞の中を、奥へ奥へと進んでいた。

 鍾乳洞の中は、ここが洞窟だと言うことを忘れそうなほど広い。高い天井からは鍾乳石がいくつも垂れ下がり、足下にもそこかしこに大小の石筍が生えている。

「なんか、こう……巨大怪獣の口の中、って感じね。牙を生やしてて、しかも虫歯だらけの怪獣の口」

 それが奈留の漏らした感想だ。

 鍾乳洞に巣くっている敵性体は、蝙蝠や虫を模したもの、ヘドロ状の何か……等々、そんなのばかりだ。随所を覆っている苔が淡い光を発しているおかげで真っ暗ではないけれど、薄闇の奥から羽音や這いまわる物音をさせて近づいてくる気色悪い敵を倒しながら進む道中は、奈留を辟易させて余りあるものだった。

「もうやだぁ! 帰りたいよ、こんなとこ……うわっ! また虫! もっ最悪!」

『最悪なのは分かったから、もう少し静かにしていてくれないかな。あんまり煩くされると、集中しづらいんだ。もう、目を瞑っていてもいいからさ』

「無理よ! 目を瞑っていたら、蝙蝠が顔面ダイブしてくるんじゃないか、虫を踏まされるんじゃないか……って、余計に怖くなるし!」

『……どっちもただの立体映像だよ。踏んだって汁がついたりしないのに』

「汁とか言うなぁ!!」

 そんな騒がしいやり取りをしながらも、奈留は向かってくる敵を二丁拳銃で蹴散らしつつ最深部を目指す。鍾乳洞は途中で何度か道が枝分かれしていたが、攻略ノートに写し取っておいた地図を頼りに道を選んでいく。

 階段のような下り坂を下りると、広大な空間に行き合った。ドーム球場がすっぽり収まりそうな広さと高さの空間で、奥のほうの半分は暗い水をなみなみと湛えた地底湖になっていた。

 クロコダイル・ダイナスティの出現地点であるこの場所に、一般の敵性体は出没しない。だが、その代わりを務めるように、複数の人影が屯していた。

『むっ、先客か……』

 ノゥエは舌打ち混じりに呟く。

 地底湖の畔に集まっていた連中も、背後からやって来た奈留の足音に気がついて振り返る。それぞれの装備に身を固めたキャラクターたちだった。

「ねえ、ノゥエ。この人たちも……?」

『だろうね。ぼくたちと同じ、大鰐退治に来たんだ』

「じゃあ、同じ目的を持った仲間同士というわけね」

『いやいや』

 奈留の言葉に、ノゥエは思わずといった感じで吹き出した。

「え……なんで笑われた?」

 困惑する奈留に、ノゥエは笑いを飲み下しながら言う。

『ボス撃破時の戦利品を得られる権利は、|最優秀戦士(MVP)の一人にしか与えられない。この意味が分かるかい?』

 奈留はしばし首を捻ってから答えた。

「……ここに集まっている人たちは、一緒にボスを倒す仲間同士じゃなくて、MVP争奪戦の敵同士っていうこと?」

『お、理解が早いね。まさにそういうことだ』

 ノゥエは嬉しげに説明を続けた。

『MVPは原則、ボスに与えたダメージ、ボスから受けたダメージの総量が一番大きい者に与えられる』

「つまり……わたしみたいなフットワークを活かしたアウトボクサーより、足を止めての接近戦で殴り合うインファイターのほうがMVPを獲得しやすいということ?」

『ん……回避より防御重視のほうがMVP狙いには適していると言えるね』

 どうやらボクシングの例えは伝わらなかったようだけど、大意は伝わったようだ。ノゥエは声で頷いた。

「ということはさ、」

 奈留はぎこちない仕草でまた首を捻って、呻いた。

「わたし、ボス戦に向いていないってことよね」

『人気のボスに挑んでいくつもりなら、戦法を一から組み直さないといけないだろうね』

 ノゥエはあっさりと肯定した。しかし、

『でもね、』

 と続ける。

『ボスに最初の一撃(ファースト・ヒット)最後の一撃(ラスト・ヒット)を与えても、それぞれ総ダメージの一割ほどのダメージを与えたものとして扱われるんだ。だから、遠距離攻撃を活かして最初と最後の攻撃を当てることが出来れば、ぼくらにもMVP獲得の可能性は十分にあると思うんだ。それにほら、きみたちの世界でも言うだろ。何事もやってみないと分からない、って』

「……あんたって理屈深いことばっか言うくせに、そういうところあるわよね」

『そういうところ? どういう意味かな』

「何でもないわ。それより、お話の時間は終わりみたいよ」

 奈留が顎で指した先では、奈留より早くからボス待ちしていたキャラクターたちが、実体化させた武器を構えて地底湖のほうに向き直っている。

『どうやら、ぼくらは絶好のタイミングで到着したらしいね』

「そうみたいね」

 不敵に笑った奈留の手が、腰のホルスターから二丁拳銃を引き抜く。

 地底湖の暗く静かな湖面が、ふいにぶくぶくと泡立ち始める。

「来るぞ!」

 集まっていた連中の誰かが鋭く吠える。それを合図にしたかのように、湖の中から大きな波飛沫を上げて、大鰐が姿を現した。

「って、でか!」

 奈留は、思わずそう言っていた。

 湖面を割って現れた大鰐クロコダイル・ダイナスティの体躯は、大型ダンプトラックほどもある巨大さだった。ノゥエ謹製の攻略ノートに添付されていた画像では、大きさを比較するものが一緒に写っていなかったため、奈留はもっと小さな、せめて象くらいの大きさだと思っていたから驚いたのだった。

「これはもう、鰐じゃなくて恐竜じゃない……!」

 奈留はまだ呆然としていたが、他のキャラクターたちはこのときすでに動き出していた。

『あっ!』

 ノゥエも慌てて奈留を動かしたが、一足遅い。二丁拳銃が火を噴いたのと同時に、槍を構えて突進した男性キャラの一撃が大鰐の下顎に突き刺さった。

 第一撃のボーナス獲得を巡る早い者勝ち競争は、一秒未満で終結した。この争いに参加することが出来たのは、湖面が泡立った瞬間に動き出していた者たちだけだった。大鰐が姿を現してからようやく攻撃しようとしたノゥエは、開始線に立つことすら出来ず終いだった。

 一番槍の穂先に続いて、剣や鎚が大鰐の顎や前肢へ、束になって叩きつけられる。そのどれにも、ダメージ発生を意味する音と光が短く弾けたけれど、大鰐が怯んだり、仰け反ったりすることはない。数人がかりの攻撃をものともしないで、分厚い大顎を左右に激しく振るった。

 何名かは咄嗟に飛び退いたけれど、何名かは一番槍競争の余韻から脱し遅れて、大顎に薙ぎ払われた。彼らが吹き飛んでいくのと入れ替るように、上手く飛び退いていた連中がまた間合いに踏み込んで、剣や鎚を大鰐に叩きつける。

 唐突に始まった戦闘は、立ち上がりから激しいものになった。大鰐クロコダイル・ダイナスティは設定された行動様式に即して戦うだけだし、キャラクターたちはその行動様式を事前に情報サイトで仕入れてきているから、まずは相手の出方を窺う――という展開が素っ飛ばされているのだ。

 もし、そんなゆっくりした戦い方をしようものなら、MVP争奪戦からの脱落はその時点で確定する。

 奈留も遅ればせながら、競争の渦中に飛び込んでいた。

 淡い光に照らし出された広大な地底湖に幾筋もの火線が走り、刃が煌めく。ダメージ発生による衝撃音と発光が乱舞する。奈留も大顎の噛みつきや、全身を振りまわしての尻尾による薙ぎ払いを食らわない遠間から、弾丸を休みなく撃ち込み続けた。

 激しい戦闘が始まって数十秒後、一人の遅れてきたキャラクターが地底湖の湖畔に乗り込んできた。

『来た! 昨日の、すごい格好の子だ!』

 奈留の脇を擦り抜けて大鰐へと躍りかかったのは、透け透け白チャイナドレスの女性キャラクターだ。その手には大きなチェーンソーが握られている。間違いなく、昨日の銀髪美女だ。

『やっぱり来た、読み通りだ!』

 奈留を操作して戦わせながら、ノゥエが快哉を上げる。

『物理攻撃の効きにくいバッド・ブッダフッダーより、こっちのクロコダイル・ダイナスティを狙ってくると思っていたんだ。ボス待ち集団の中にいなかったから、もうこっちの戦利品は取得済みだったのかなとも思っていたけれど、まさか遅れて登場とはね!』

 珍しいほど興奮を露わにして捲し立てながらも、同時に行っている奈留の操作は冴え渡っている。最初は十分に距離を取って攻撃していたのが、いまでは尻尾の薙ぎ払いが届くか届かないかぎりぎりの間合いを出たり入ったりしながらの攻撃になっている。火薬銃も魔砲銃も射撃武器ではあるけれど、距離が一定以上離れるほど命中率も攻撃力も減衰するから、減衰されない距離まで近づいて撃つほうがダメージ効率を出せるのだ。

 ボス戦開始から二百秒が経過した時点で、MVPレースの優勝争いは三人に搾られたと言えた。一人目は第一撃を決めた槍使いの男性キャラで、二人目は高価な晶石の弾丸を惜しげもなく撃ちまくる奈留。そして三人目は遅れて登場しながらも、【怯み無効】【与ダメ吸収】を主体にした無防備戦法で怒濤の攻撃を仕掛ける白チャイナドレスにチェーンソーの銀髪美女だ。

 大鰐が仰け反るように天井を仰いで吠えると、小型の――といっても人間を軽く一呑みに出来そうな鰐の群れが、湖の中から飛沫を上げて飛び出してくる。取り巻きを召喚したのだ。

 取り巻きに対するダメージや、取り巻きから食らったダメージはMVPの決定に影響しない。だから相手にするだけ無駄なのだが、向こうは一気呵成に襲いかかってくるのだから、そうも言っていられない。

 状況はたちまち乱戦になる。

 誰も取り巻きの相手はしたくないものだから、他のキャラに擦り付けるようにして逃げたり、吹き飛ばし効果のある技を使って他のキャラに押しつけたりする。

 小鰐を押しつけ合うのに夢中になっていたキャラ数名が、大鰐の振るった尻尾をまともに受けて吹っ飛んだ。石筍の生えた床に背中から落ちると、それきり動かなくなった。そして、その身体の上方に、死亡状態になったことを示す青い人魂が浮かび上がる。この戦闘が始まって最初の死亡者だった。

 奈留も乱戦に巻き込まれそうになって、やむを得ずに大きく飛び退く。距離が離れたことで銃撃の威力は下がってしまったが、防御力や耐久力に自信がない以上、仕方がなかった。

 戦闘開始から二百十五秒後、周りを無視してボスへの攻撃を続けていた槍使いが、他キャラの攻撃で吹き飛んできた小鰐に集られて一斉攻撃を食らう。そのダメージには辛うじて耐えきったが、そのダメージによる仰け反り動作中、大鰐の噛みつきをまともに食らって死亡した。

 MVPレースの優勝候補はこれで、奈留と銀髪美女の二人に絞られた――かに思われた。

「イイィッヤハアアァッ!!」

 背後の坂道から響き渡った脳天気な雄叫びが、鍾乳石に覆われた天井にこだまする。戦闘開始から二百二十秒後にして、さらなるボス戦参加者たちが乱入してきたのだ。

 奇声を上げて躍り込んできた集団に、奈留は反射的に視線を送る。

「……えぇ!?」

 一度横目で見やってから、首の可動域限界まで思い切り振り返って凝視した。

 乱戦の場に乗り込んできたその集団を端的に形容するならば……露出狂の男女たち、だった。紐かリボンのような水着だったり、布地がいくつも刳り抜かれた下着だったりを身に纏ったキャラクターたちだった。

 思わず目を奪われたのは、奈留だけではない。取り巻きの小鰐を擦り付け合っていた連中も、ぎょっと目を剥いている。ほとんどのキャラはそれでも戦いを続行していたが、中には動きの鈍った者もいる。キャラだけでなく、その背後のプレイヤーまでもが、半裸の闖入者たちに思わず気を取られたからだ。

 半裸の集団は、そうした動きの鈍った者へと小鰐をぶつけて戦闘から排除していく。一見すると、頭の中でお祭り騒ぎしているような格好の連中だったが、その動きはなかなかに統率が取れていた。

『こいつら、ボス狩りリーグか!』

「って、あの子!?」

 二人は同時に叫んだ。

 ボス狩りリーグとは読んで字の如く、個人ではなくリーグ単位でボス撃破を狙う集団だ。ボスの落とす戦利品は数人で山分けしても十分なほど高額で売り捌けるため、専門的なボス狩りリーグも大小多々、存在しているのだった。もっとも、半裸が制服のボス狩りリーグなんてものは、ノゥエも聞いたことがなかったが。

 奈留が叫んだのは、そのリーグの中に見覚えのある女性の姿を見つけたからだった。

「あの子、ほら! 雪国の街で、リーグに入りませんかって声をかけてきた恥女よ!」

 ボス狩りリーグの一員として鞭を振るっている紐水着(スリングショット)の女性を、見間違うはずがなかった。

 ノゥエも奈留を操作して戦いながら周りに目を走らせ、彼女の姿を見つけたようだ。奈留を忙しなく動かして戦わせながら、早口に捲し立てる。

『まさか、彼女がボス狩りリーグの一員だったとはね。あんな実用性より見た目を重視した装備でボス狩りなんて想像もしていなかったけれど、よく考えてみれば納得だ。あのスリングショットも、他のリーグメンバーが装備している布切れ同然の服も全部、呪い装備だったんだ。そう考えれば納得がいく』

「納得って、なんでよ!?」

『あの銀髪のキャラが装備しているチャイナドレスがそうであるように、呪い装備は往々にしてデザインが過激なんだ。つまり――このリーグは、メンバー全員が呪い装備で身を固めているんだよ!』

「呪われたリーグ!」

『その認識の仕方は誤解があると思うけれど、とにかく見た目の奇抜さに騙されてはいけない。このリーグは……強い!』

 それはノゥエに言われるまでもないことだった。

 過激な水着や下着のような呪い装備を身につけた面々の戦闘力は、最初に集まっていたキャラたちを圧倒していた。

 取り巻きの小鰐を競争相手に向けて吹き飛ばすだけでなく、ボス本体である大鰐をリーグメンバーのほうに吹き飛ばして、競争相手の攻撃させなかったり――という小技を駆使する。彼らはMVP競争の戦い方を心得ていた。

 二百十五秒も遅れて参戦したというのに、本当にこのリーグのメンバーの一人がMVPを獲ってしまいそうな勢いだった。

 乱戦の中、銀髪美女も恐怖に顔を歪めている。大赤蠅を倒したときの淡々とした様子は、どこにも残っていない。

「きゃっ……ひっ……!」

 と、周囲で起こる剣戟や喊声に、子供のように怯えている――だが、それも顔だけでのことだ。首から下は大赤蠅戦のときと同じく、どっしりとその場に両脚をつけて、大鰐への防御を捨てた全力攻撃を繰り返している。取り巻きの小鰐も、周囲の乱戦も無視して、ひたすらボスの大鰐だけを狙い続けていた。

 過激な衣装のボス狩りリーグが上手いこと大鰐をお手玉するものだから、銀髪美女が大鰐にダメージを与える速度は鈍っているはずだ。しかし、最初の三分半という貯金を考えれば、この分だと彼女が逃げ切ってMVP獲得するだろう――ノゥエはそう予想する。

 だが、遅れてきたボス狩りリーグの面々も、この数十秒の間で、銀髪美女が一番の敵だと判断したようだった。すぐさま、メンバー数名が小鰐を誘導して、銀髪美女へと嗾けた。

「あっ……ちょ、いや――ッ……!?」

 自分に向かって飛びかかってきた小鰐の群れに、銀髪美女は堪らずに長い悲鳴を漏らす。だが、彼女の身体は毛ほども逃げようとしない。腰や下肢に食らいついてくる鰐を無視して、ひたすらに大鰐への攻撃を続けている。身体の噛みつかれた箇所から、ダメージ発生を意味する破砕音と赤黒い光が断続的に起きているけれど、銀髪美女はそれも無視する。

 いや、無視しているのは、銀髪美女の身体を操作しているプレイヤーだけだ。キャラクターである彼女自身は、目も口もくしゃくしゃにして泣いている。

「嫌だ、これ……いや、怖い! もう無理です、こんなの無理です! 怖いっ……怖いです!」

 プレイヤーに向かってそう訴えているが、行動に変化はない。彼女のプレイヤーは、噛みついている小鰐を振り解かなくとも、もう少しの攻撃で大鰐を倒せると踏んだようだった。

 だがしかし、そうは問屋が卸さない。

「やらせなぁい!」

 ボス狩りリーグの一人が愉快げに笑いながら、銀髪美女を銃撃した。キャラクター同士で攻撃し合ってもダメージは発生しないのだが、そいつが撃ったのは銀髪美女ではなかった。彼女の身体に噛みついている小鰐たちを、魔砲銃で撃ったのだ。

 それは攻撃魔砲ではない。攻撃力を強化させる補助魔砲だ。本来なら味方に使うための魔砲を、そいつは敵性体に向けて使ったのだ。

 銀髪美女の動きに、初めて動揺が走った。受けているダメージの量が、【与ダメ吸収】効果による回復量で誤魔化しきれなくなったのだ。

 それを見ていた奈留が怒りを露わにした。

「酷い! 敵を強化するなんて、あんなの有りなの!?」

『ボス戦以外の状況だったら、他者と戦っている敵性体に補助魔砲を撃つことは故意の妨害行為に該当して規則違反になるけれど、MVP制度のあるボスとの戦闘時においては許されるんだ。そういう公式見解が出されていてね』

「何よ、それ……ルール違反じゃなければ何をやっても良いって言うの……?」

『そうだよ。実際、さっきから敵を吹き飛ばしスキルで押しつけ合ったりしていたじゃないか。あれだって、ボスやその取り巻き以外の敵でやったらアウトなんだ。やれることは何でもやってMVPを獲る。それがボス戦の醍醐味というやつさ。でも――』

 ノゥエは声を低くして続ける。

『大勢で一人を袋叩きにしているような構図は、見ていて気持ちの良いものではないね』

 その言葉に、奈留はぱあっと顔を輝かせた。

「じゃあ――」

『うん、助けよう』

「そうこなくっちゃ!」

 言うが早いか、奈留の脚は地面を強く蹴って、銀髪美女に駆け寄っていた。

 距離を詰めたことで威力と命中率を確保した上で、右手の火薬銃が立て続けに火を噴く。装填していた弾丸を一度に全て吐き出すと、素早く再装填して、さらに撃ち尽くす。

 二度目の再装填をする前に、銀髪美女に集っていた小鰐の群れは全て、粒子になって消えていた。

「あ……」

 いきなりの銃撃に晒されて怯えていた銀髪美女だったが、それが自分を苛めるためでなく、助けるためのものだったと理解したようだ。

 縋るような目で見つめてくる銀髪美女に、奈留はすぐさま言い放つ。

「あんたは手を止めない! 攻撃してなさい!」

「あ……」

 銀髪美女は呆然とした顔をしているが、身体のほうは大鰐への攻撃を再開させている。

「って、させるか!」

 吠えたのはボス狩りリーグの一員だ。今度は大鰐に吹き飛ばし技を使って、味方が待ち構えているほうに大鰐を移動させようとする。

 だが、

「させるかってのは、こっちの台詞!」

 奈留が左手に構えた魔砲銃をぶっ放した。

 引き金を引いたのは一度だが、銃声は連続で響く。装填した晶石弾を全て一気に消費して、扇状の範囲に魔砲属性ダメージをばらまく魔砲技【散弾撃ち(スプレッドショット)】だ。

 ダメージは普通に撃つよりも下がるけれど、標的がちょっとやそっと動いたくらいでは外れない。その攻撃が、吹き飛ばされている最中の大鰐に横合いから命中すると、大鰐の動きが止まる。【散弾撃ち】にも微少な吹き飛ばし効果があって、大鰐にかかっていた吹き飛びし効果が上書きされたからだった。

「げっ」

 大鰐が吹き飛んでくるのを待ち構えていた穴あき全身タイツの男キャラが呻く。その彼はすぐに大鰐へと駆け寄るが、銀髪美女も同じく駆け寄っている。銀髪美女から一方的に攻撃の機会を奪うつもりだったのに、失敗したわけだ。

 ボス戦開始から二百七十秒が経過。

 奈留は銀髪美女の支援に徹するようになったため、MVPレースからの脱落がほぼ確定していた。MVPの行方は、銀髪美女がこのまま逃げ切るか、それとも半裸ボス狩りリーグの攻撃担当(ダメージ・ディーラー)がゴール間際で追い抜くか――という展開になっていた。

 止めの一撃を決めたほうがMVPを獲る、と言っても過言でないだろう。

 そしてとうとう、大鰐クロコダイル・ダイナスティが、大地底湖を崩落させんばかりの大音声で咆吼した。耐久力が残り三パーセントを切ったことで、狂騒状態(バーサクモード)が発動したのだ。

 大鰐は吠えながら、大きな顎と太い尻尾を激しく振って地団駄する。地底湖全体が地震に見舞われたように縦揺れして、戦っていたキャラたちは否応なしに体勢を崩させられる。さらにそこへ、鍾乳石の雨が降り注ぐ!

「何これ!? こんなの聞いてないわよ!!」

 奈留の絶叫。

『言ってなかったっけ? ごめん!』

 答えたノゥエの声も必死だ。

 鍾乳石の着弾地点には事前にダーツの的みたいな円形の印が表示されるから、その円を踏まないように動けばダメージは受けない。だが、それが言うほど簡単なことではないのだ。

 着弾円が表示されるのは、実際に鍾乳石が落ちてくる一秒前で、しかも当然、ひとつではない。ひとつ避ければ、またひとつ、ふたつと円が表示されて、鍾乳石が雨霰の如く降り注ぐ。最初の地震で体勢を崩した上での大爆撃には、半裸のボス狩りリーグ団員たちも右に左に走りまわって回避するのに専念していた。

 そんな中でただ一人、銀髪美女だけが大鰐への攻撃を続けていた。その姿を、奈留は鍾乳石が降り注ぐ中でステップを踏み続けながら見つけて目を瞠った。

「いやっ、それは確かに、ボスは地団駄踏んでるだけだから攻撃し放題だろうけど!」

 驚愕を通り越した呆れ顔で呻く。よく見れば、銀髪美女はもう泣き言を口にする元気も使い果たしたようで、両目を固く瞑ってしまっていた。

 そんな銀髪美女の頭頂部を、真上から降ってきた鍾乳石が打つ。

「ひ……ッ」

 彼女は目を閉じたまま、びくっと首を竦める。

 鍾乳石が頭に当たっても、多少の音と震動が起こるだけだ。怪我を負うことはない。だが、だからといって、頭に衝撃を受けることに恐怖や不快を感じないわけがないのだ。

『鍾乳石の落下範囲は広いし、威力も大きいけれど、同一地点には連続して落ちてこない。大鰐本体からの攻撃もないから、同じ場所から動かないでいるというのは、けして悪い選択じゃない。しかも、彼女は攻撃した分だけ|耐久(HP)回復できるし、大鰐の耐久力も残りほんの僅かだ。落石でやられる前に倒せる確率は高い。だから、踏み止まって攻撃し続けるのは十分に妥当な選択だよ――でもね、』

 そこまで口早に捲し立てたノゥエが、不快そうに鼻を鳴らして、言った。

『同じゲームを楽しんでいる者として、あの顔は……ちょっと見ていられない』

「あら、奇遇。わたしもまったく同感よ」

 奈留は嬉しげに、そして不敵に笑った。

 ノゥエが何を指して“あの顔”と言ったのかは、考えるまでもないことだった。

 そのとき、大鰐がいっそう大きく地団駄を踏む。もう一度、足下が激しく揺れて、頭上から鍾乳石が、これでもかと言うほど降り注いだ。

「危ない!」

 奈留が叫ぶ。

 自分の足下に広がる着弾警告の円を見たからではない。地震で体勢を崩しながらも大鰐への攻撃を続けようとしている銀髪美女の足下一帯に、無数の円が表示されるのを見たからだ。

 それを見た瞬間、奈留の身体は考えるよりも先に動いていた。地を蹴って中空に身を躍らせながら、二丁拳銃の弾丸をありったけ、銀髪美女の頭上にぶちまけた。

 火薬銃と魔砲銃を同時撃ちすることで発動できる銃技、【弾幕(バラージ)】だ。攻撃するための技ではなく、効果範囲内に爆風を撒き散らして、相手からの攻撃を相殺する防御技だ。

 銀髪美女の頭上に広がった爆風が、そこへ落ちてくる鍾乳石を巻き込んで爆破していく。

 頭上で連続して起こる爆発音にも、銀髪美女は目をきつく閉じたまま反応を示さない。あくまでも無視を決め込むつもりのようだ。彼女の身体のほうも、大鰐への攻撃を続けている。少なくとも、彼女の身体を操作しているプレイヤーのほうは奈留に守られたことを理解しているだろうに、それに対して何の反応も示していない。

「少しは感謝しないさいよ――」

 奈留が思わず毒突く。そこへ、

『来るよ!』

 ノゥエが警告する。同時に、まだ中空にあった奈留の身体に、降ってきた鍾乳石が激突した。

 岩の砕ける音と衝撃が、奈留の身体を打つ。事前に警告されていたし、激痛に感じたわけでなくとも、不愉快なものは不愉快だ。

「ぐぅ……!」

 奈留は呻きながら、鍾乳石ごと地面に叩きつけられる。ノゥエは咄嗟に、奈留に受け身を取らせたものの、運悪くそこにも着弾警告円が表示された。

 受け身を取って転がらずに落ちれば良かったものを、つい、いつもの癖で転がってしまった。立ち上がって、警告円の範囲内から飛び退くだけの猶予はなかった。

『ごめん、無理』

 ノゥエが諦めた。

「ちょっ! 無責任!」

 叫んだ奈留の頭に、奈留の身体よりも大きな鍾乳石が落下、激突した。耐久ゲージが一気に削れて、瀕死の赤色を通り越し、死亡状態の黒に染まった。

 奈留の耐久力が尽きたのと同時に、高らかなファンファーレが鳴り響いた。銀髪美女の振り下ろしたチェーンソーが、大鰐クロコダイル・ダイナスティに止めを刺したのだった。

 MVPの権利と栄誉を手にしたのは、銀髪美女だった。しかし、その当人は喜ぶどころか、いまだ目を閉じて現実逃避しているままだった。

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