10話 マリアテール
半ば追い出すようにイコルネとタイラーを帰らせた兄に、マリアテールは苦笑をこぼす。
同じく帰る宿のある身なのだが、妹の自分だけはまだ居ても構わないらしい。
「やっと部屋が広くなったよ」
玄関ドアを閉めて戻ってきた兄は、手にラム酒の瓶と新しいグラスを持っていた。
「お酒は切らしてるんじゃなかったの?」
「これはマリちゃん用だからね。男どもに飲ませる安酒は切らしてる」
悪びれもせずに言う兄からグラスを受け取る。
優しく注がれた琥珀色の酒は、先日一緒に立ち寄った店で、マリアテールが「美味しそう」と呟いたものだ。
何気ない一言をしっかり覚えているあたり、つくづく兄らしい。
二人で乾杯して、グラスを傾ける。
柔らかな甘みと芳醇な香りが口いっぱいに広がり、しばし舌の上で味わってから喉へ流す。
度数はそれなりに高そうだが、癖のない口当たりは自分好みで、最近飲んだ中で一番美味しい。
小さく息を吐いて視線を上げると、隣に座る兄がこちらを見ていた。
「なぁに?」
「今日のマリちゃん、格好良かったなぁと思って。流石、自慢の妹だよ」
本人へ向かって妹自慢を始めた兄に、呆れを通り越して思わず笑ってしまう。
だが、自分に言わせれば、ナインたちを退かせた彼の方が何倍も格好良かった。
マリアテールの魔力量は兄ほど多くない。
そんな自分でさえ、魔力枯渇に陥れば、激しい頭痛や目眩で立っていられなくなる。
そのつらさは早々に気絶した方が楽だと思えるほどで、学生の頃は何度か本当に気を失ったりもした。
けれど罠にかけられたあの時、自分より遥かに症状が重かったはずの兄は、マリアテールが手を汚さずに済むよう立ち回ってくれた。
仲間を守らなくてはと咄嗟にナインたちへ向かっていった自分は、敵の動きを封じた後、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
魔物なら殺せば済む話だが、人間相手ではそれができない。
焦りや不安を押し殺し、一番弱そうな男をナイフで脅してみたものの、事態を収拾する方法など見当もつかず、それこそ息の根を止めることくらいしか思い浮かばなかった。
もしあれが、一人でどうにかしなくてはいけない状況だったら、間違いなく殺す選択をしていただろう。
そして、そうなってしまえば『殺生法』のあるこの国にはもう居られない。
冒険者という職が好きで、友人たちといるのが好きで、《ただ前へ》が大好きなマリアテールが、すべてを捨てなくてもいいよう、兄は全力で守ってくれた。
誰よりもつらい身体で毅然と振る舞い、最後には口封じまでしてみせた彼が、格好良くないはずがない。
「……マリちゃん?」
声をかけられ、自然と俯いていた顔を上げる。
心配そうに覗き込む紅茶色の瞳と目が合い、マリアテールは小さく首を振った。
「なんでもないわ。ちょっと疲れただけ」
「そっか……頑張ったもんね」
そっと伸ばされた手が優しく髪に触れる。
兄は小さな頃から、褒める時も労う時も、こうして頭を撫でてくれた。
今となっては少し照れくさいが、ずっと変わらない手の温もりが嬉しくて、マリアテールはするりと頬を寄せながら目を細めた。
「……マリちゃんはさ、人間相手にやり合うのとか、苦手でしょ? だから、ああいうのはできるだけ僕が請け負うようにしてるつもりだったんだけど……負担をかけて、ごめんね」
そう言って眉を下げた兄の声は、いつになく沈んでいる。
「兄さんのせいじゃないわ」
「ううん。路地の人影には、店に入る前から気づいてたんだ。イコ君もタイラーもいたから、後手でも対処できるだろうって油断した。……見つけた時に対処しておけば、マリちゃんを危険に晒すこともなかったんだよ」
静かに目を伏せ、膝の上で組まれた指にじわりと力が込もる。
吐息とともにもう一度「ごめんね」と呟いた兄は、執拗に自分を責め立てているようで、痛々しくて見ていられなかった。
マリアテールにとって、トーカは唯一の家族だ。
ずっと一緒に育ち、これからもきっと離れることはない。
そして兄は、二十年近く、ただひたすらに妹の自分を守り続けてくれている。
ともにBランク冒険者となり、大きな魔物を一人で倒せるようになっても、自分より体の大きな男を失神させられるほど強くなっても、兄の中の『マリアテール』は昔からなにも変わっていないのだと思う。
だが時々、そんな兄に陰を感じることがあった。
兄妹というだけでは説明がつかない過保護ぶり。
すべてを投げ打ってでも妹を優先する姿。
どれも大切にされている証拠ではあるが、『妹を守ること』そのものを、兄が生きる意味としている気がしてならない。
もし、その意味を失ってしまったら、強く優しい兄がどこかに消えてしまいそうで――「もう守らなくても平気」なんて言葉、マリアテールにはとても言えなかった。
「私も警戒不足だったし、みんなの事情も知らなかったんだもの、本当に兄さんだけのせいじゃないわ。……あれくらいのこと、私は全然大丈夫だから」
俯く兄を傷つけないよう、守られる妹からの気遣いに聞こえるよう、できるだけ優しく言葉を紡ぐ。
「それより兄さん、あの魔核の瓶……」
「それも……ごめんね。隠してたわけじゃないんだけど、心配させると思って」
「心配はするわよ……。でも、あれしか方法がないのは分かったから、何も言わない。それに、やっと理由も聞けたから」
先程兄が語った魔核を摂取できる理由。
それは、マリアテールがずっと聞きたくても聞けなかった、問いへの答えだった。
* * *
物心つく前から施設にいた。
冷たく硬い床と窓のない無機質な壁。
暗く湿り気のある石の箱のような部屋で、兄と二人、座り込んでいたのが一番初めの記憶。
兄の手首には鉄の輪がはめられ、いつも擦れて血が滲んでいた。
なんで自分には付いていないのかと聞くと、兄は笑って「マリーは可愛いからじゃないかな」なんておどけてみせていた。
マリアテールはよく泣く子だった。
暗い部屋が怖くて、外から聞こえてくる悲鳴のような音が怖くて、いつも泣いていた。
そうすると兄は決まって「大丈夫。大丈夫だよマリー、僕が守ってあげるからね」と頭を撫でてくれる。
そのまま泣きつかれて眠るまで、ずっと声をかけ続けてくれた。
何年も何年も、その部屋で過ごした。
兄は色々なことをマリアテールに教えてくれる。
数の数え方、文字の読み方、この部屋の外のこと。
「空には太陽が輝いていて、鳥が飛んでるんだ。四葉草の花は白くて綺麗だから、花冠にしたらマリーにとっても似合いそうだなぁ」
「花って、どんなの?」
「小さくて薄い花びらが沢山ついてるんだよ。外に出られたら、一緒に見に行こうね」
「うん!」と元気よく答えるマリアテールに、兄は嬉しそうに笑っていた。
兄の話を聞くうち、この部屋で過ごすことが普通ではないことに、マリアテールも少しずつ気がついていった。
一日に一度、一つしかない扉から大きな男が食事と水を持ってくる。
男は常に威圧的な態度で、マリアテールたちが力で敵わないことを誇示しているかのようだった。
そして数日に一度、兄はその男に連れられ、部屋から出ていく。
数時間で戻ることもあれば、数日戻ってこないこともあり、帰ってきた時の兄は決まって酷くやつれていた。
床に力なく横たわる姿が今にも死んでしまいそうで、一人になってしまうのが怖くて、マリアテールはまた泣いた。
ある時、部屋の外で何をしているのかと聞いてみた。
しかし、兄は頑なに教えてくれず「それなら私も一緒に連れて行って」と言うと、初めて怒鳴られた。
いつも優しく、こんな場所でも明るく過ごせるようにしてくれる兄の拒絶の声。
それは、これ以上踏み込んではいけないことなのだと、幼いマリアテールの心に深く刻まれた。
それからどれくらいの年月そこで過ごしていたのかは分からない。
ただ、仄暗い日々の終わりは、轟音と爆発を伴って唐突に訪れた。
いつものように兄が連れていかれ、一人で横になっていたマリアテールは、床が小さく震えていることに気がつく。
初めは小刻みだった揺れが次第に大きくなり、石の壁や床に亀裂が入り始める。
揺れとともに聞こえてくる轟音は、部屋の周りで何度も鳴り響き、一体外で何が起こっているのか、兄は大丈夫なのかと、不安で押し潰されそうだった。
しばらく続いた音が収まると、ゆっくり扉が開く。
怯えた瞳で見つめれば、そこに立っていたのは――服も体も傷だらけの兄だった。
「マリー、外へ行こう」
マリアテールは手を引かれ、初めて部屋の外に出る。
周囲の明るさに思わず目を瞬かせる中、嬉しそうな兄の笑い声だけが鮮明に耳へ届いた。




