EP 15
Cランク昇格から、半月が過ぎた。
クレッセントワルツの事務所は、見違えていた。ゴルド商会の後ろ盾とCランクの肩書きが効いて、依頼掲示板はもう、貼り紙の余白を探すのが難しいほどになっている。受付に立つのは、ダイヤが新しく雇った、そばかすの似合う事務員の娘。ダダはと言えば、午前中に薬草採取の依頼を三件まとめて片付けて、今は事務所の隅で、リーフにもらった薬草袋を、大事そうに膝に乗せていた。
「ダダ、午後の護衛依頼だけどね——」
ダイヤが帳簿を片手に振り返った、その時だった。
からん、と。
扉の上の鈴が、軽やかに鳴った。
「ごっめんくださーい」
入ってきたのは、若い女だった。
歳は二十そこそこ。ゆったりとした、動きやすそうな旅装。足元は、見慣れない意匠の、頑丈そうな短靴。腰の両脇には、対になった棒——トンファーが、無造作に提げられている。
そして、ふわふわの薄茶の髪の間から、ぴょこんと——長い、長い、兎の耳が、二本。
「月兎族……?」ダイヤが、思わず呟いた。
辺境ではまず見ない種族だった。月兎族は数が少なく、その多くは王族や貴族に囲われて、表に出てこないと聞く。それが、こんな国境の事務所に、ふらりと。
女は、事務所の中をぐるりと見回すと、にこっと笑った。人懐っこい、けれどどこか芯の強そうな笑顔だった。
「ここ、新しくできた冒険者クランで合ってる? 噂を聞いてね。——ゴルド商会が後ろ盾についた、新進気鋭のクランがあるって。しかも、とんでもない子供がいるって」
「噂、ねえ」ダイヤの商人の目が、すっと細くなる。「……で、あんたは?」
「あ、ごめんごめん。私、キャルル」
女——キャルルは、ぺこりと頭を下げた。長い耳が、その動きに合わせて、ふわりと揺れる。
「ルナミスの首都のほうで冒険者をやってるの。でも、最近ちょっと、都会のごちゃごちゃに飽きちゃって。辺境で、面白いことしてるクランがあるって聞いて、見に来たってわけ」
「面白いこと、ねえ」ダイヤは腕を組んだ。「ウチに入りたい、ってことかい?」
「うーん、それはまだわかんない」キャルルはあっけらかんと言った。「とりあえず、しばらく、この街で依頼受けながら、ここに通ってみてもいい? クランのこと、中の人のこと、ちゃんと自分の目で見てから決めたいの。私、そういうの、慎重なタイプだから」
自由で、気ままで、けれど大事なことは自分で見極める——その物言いに、ダイヤは少しだけ、好感を持った。同じ匂いがする、と思った。籠の中を嫌って、自分の足で立つことを選んだ女の匂いが。
「……いいよ。出入りは自由だ。ウチは来る者拒まずさ。ただし——」ダイヤは、にやりと笑った。「依頼の取り分は、きっちりもらうよ」
「ふふ、商人さんなんだね。気が合いそう」
——と。
キャルルの長い耳が、ぴくり、と動いた。
事務所の隅。薬草袋を膝に乗せた、寝癖の少年。それまで会話を、ぼーっと聞いていたその子が、ふと、顔を上げて——彼女と、目が合った。
その瞬間。
キャルルの笑顔が、ほんの一瞬、固まった。
(……え?)
月兎族の聴覚は、種族の中でも飛び抜けている。半月の今でも、彼女は街ひとつ分の物音を、心音を、聞き分けられる。人の嘘は、心音の乱れでわかる。誰かが何かを隠していれば、鼓動が、必ず、濁る。
王宮で、彼女はそうやって生きてきた。亡命してからも、その耳が、命を守ってきた。
だから——わかる。
目の前の、この少年。
その心音が——透き通っている。
濁りひとつ、淀みひとつ、ない。生まれてこのかた、一度も嘘をついたことがないみたいな、湧き水みたいな鼓動。こんな心音を、彼女は、二十年生きてきて、一度も、聞いたことが——
「……あれ?」
キャルルの長い耳が、ぴん、と、限界まで張り詰めた。
笑顔が、消えた。
(……まって。なに、これ。心音が……)
少年の、澄みきった鼓動。そのまっすぐな律動の、ずっと奥。地の底から響くような、もうひとつの——
「……心音が、二つ……?」
それは、声には、ならなかった。
少年が、ぺこりとお辞儀をした。
「初めまして! ダダです! Cランク冒険者です!」
底抜けに明るい、なんの裏もない声。お辞儀した拍子に、寝癖が、ぴょこんと跳ねた。
キャルルは、自分の心臓が、とくん、と、いつもと違うリズムを打ったのを感じた。
警戒でも、恐怖でもない。
もっと、抗いがたい、危険な感情——興味だった。
長い耳の先まで、ぞくり、と痺れが走る。籠の中を捨ててまで追い求めた「面白いこと」が、こんな国境の、こんな小さな事務所の隅に、寝癖頭で、ちょこんと座っていた。
「……ふぅん」
キャルルは、ゆっくりと笑った。さっきまでの人懐っこい笑顔とは、少しだけ、違う笑顔。獲物を——いや、宝物を見つけた、子供のような笑顔。
ポケットから飴玉を一つ取り出すと、つかつかと歩み寄り、きょとんとするダダの口に、ひょいと放り込んだ。
「はい、ダダくん。よろしくね。——私たち、きっと、すっごく仲良くなれると思う」
「! あまい! ……えと、ありがとうございます、キャルルさん!」
「うん。いっぱい、いっぱい、仲良くなろうね」
繰り返された「いっぱい」に、ほんの少しだけ、温度が混じっていたことに、ダダは気づかなかった。
ダイヤだけが、二人を見比べて、なんとも言えない予感に、九尾の毛を、そっと逆立てた。
(……なんだろうねぇ。とんでもないのが、もう一人、転がり込んできた気がするよ……)
事務所の窓の外。アルトゥンの空が、夕暮れに染まっていた。
東の空には、欠けた月が、白く昇り始めている。あと、半月ほどで——満ちる。
その月の光の届かない、遥か遠くの闇のどこかで。
甘い、焦げたような匂いをまとった男が、銀の香炉を撫でながら、誰かと言葉を交わしていた。
「……兎は、辺境のクランに接触した。例の、ゴルド商会の小僧のところだ」
『ほう。……あの女と、Eランクの小僧が、繋がったか』
「どうする。月が満ちる前に、回収するか」
『いや——』
闇の中の声は、楽しげに、笑った。
『面白い役者が、勝手に舞台に揃ってくれた。もう少し、泳がせよう。……宴は、満月の夜と決めている』
香炉の煙が、ゆらりと、月のない方角へ流れていく。
——辺境の小さなクランに集った、寝癖の少年と、九尾の商人と、月の兎。
彼らがまだ知らないところで、次の物語の歯車は、もう、静かに回り始めていた。
だが、それはもう少し先の話。
今はただ——飴玉の甘さに目を細める少年と、その心音の謎に胸を高鳴らせる兎の、出会いの一日が、穏やかに暮れていく。
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