第一章 ガーディアン
「ドラゴンの声を持つ少年」
護衛が、死んだ。
「冗談じゃないよ……アタシは美味しくないってのに……!」
牙を剥く灰色の獣の群れの前で、ダイヤは尻餅をついた。
街道の真ん中で、荷馬車は無残に横転していた。積み荷の毛皮と香辛料が泥にまみれ、雇ったばかりの護衛は三人とも、もう動かない。銀貨九十枚。前払いで、九十枚。
(経費が……アタシの経費がぁ……!)
死を目前にしてなお頭の隅で算盤を弾いてしまうのは、九尾族の血のせいだろうか。ダイヤは尻尾の毛を逆立てながら、じりじりと後ずさった。普段は一本に見せかけている自慢の尾が、恐怖で勝手に膨らんでいく。
獣は、犬に似ていた。だが犬よりずっと大きく、ずっと飢えていた。十数匹。血に濡れた口元から、だらだらと涎が垂れている。
「ま、待ちな。あんたたち、商談しないかい? アタシを食うより、そこの干し肉のほうが絶対お得だよ。原価で譲る、いやサービスだ、タダでいい……!」
商人の舌は最後まで回ったが、獣に言葉は通じない。先頭の一匹が、地を蹴った。
(ああ——死んだ。アタシの人生、黒字のまま終われなかったねぇ……)
ダイヤが目を閉じた、その時だった。
「グオオオオオオオオオンン!!!」
世界が、揺れた。
それは音というより、衝撃だった。大気がびりびりと震え、草原の草が一斉に伏せる。ダイヤの全身の毛が総毛立ち、九本の尾が言うことを聞かずに全部飛び出した。
——ドラゴン。
理屈ではない。骨の髄に刻まれた本能が、そう叫んでいた。空の王。喰らう側の頂点。その怒りの声が、すぐそこで轟いたのだ。
「キャンッ! キャキャンッ!!」
飛びかかる寸前だった獣たちが、空中で身を捩るようにして着地し、尻尾を巻いた。あれほど飢えていた群れが、我先にと転がるように逃げていく。あっという間に、街道には風の音だけが残った。
「……は……?」
ダイヤは尻餅をついたまま、ぽかんと空を見上げた。ドラゴンの影はない。雲ひとつない、憎たらしいほどの青空だ。
がさり、と。
道端の茂みが揺れて、ダイヤは飛び上がった。出てきたのは——
寝癖だった。
正確には、盛大な寝癖を頭に乗せた、小さな少年だった。獣皮の服を着て、腕には籠を抱えている。籠の中では、まんまるな月見大根が呑気に葉を揺らしていた。
「ご無事ですかー? えっと……お姉さん、ですよね?」
「あ、ああ……アタシは女だよ……お姉さんかどうかは交渉の余地があるけどね……」
混乱しきった頭で反射的に答えてから、ダイヤははっと我に返った。
「って、そうじゃない! 今のは何だい!? あんたが叫んだら、あの犬コロどもが裸足で逃げてったよ!?」
「あ、はい」少年は照れくさそうに頭を掻いた。寝癖がぴょこぴょこ揺れる。「この辺りの空の主の、ドラゴンの鳴き真似です。ウルギンたちはあの声が一番怖いので」
「鳴き真似ぇ……?」
ダイヤは耳を疑った。九尾族の耳は、誤魔化しが利かない。さっきの咆哮には、芝居がかった嘘の匂いがひとつもなかった。あれは『真似』と呼んでいい代物じゃない。
それに——と、ダイヤは目を細める。
(今の、闘気の威圧じゃなかった。魔力の気配もなし。じゃあ何だい? この子は一体、何の力であの音を出した……?)
長年、商売で培った観察眼が、目の前の寝癖少年を「ただの掘り出し物」から「鑑定不能の超大物」へと値札を貼り替えていく。
「ウルギン、って言ったね。あの犬コロ、そんな名前なのかい」
「はい。前に森でゴブリンたちがそう呼んでたので」
「…………ゴブリンの言葉が、わかるのかい」
「はい? ええと、聞いてれば、なんとなく」
なんとなく、で済む話ではない。獣人族でも魔族でも、魔物の言語を解する者などまずいない。ダイヤの尻尾が九本まとめてぶわりと膨らんだ。今度は恐怖ではなく、興奮で。
「あんた……名前は?」
「ダダです」少年はぺこりとお辞儀をした。「あなたは?」
「ダイヤだ。……なあダダ、あんた歳はいくつだい?」
「えっと」
ダダは籠を地面に置くと、真剣な顔で指を折り始めた。
「いち、に、さん、し……ご、ろく……あれ? ……いち、に……」
両手の指を行ったり来たりして、やがて少年は困り果てた顔を上げた。
「……指が、足りません。たぶん、十、ちょっとです」
「ぶはっ」
ダイヤは噴き出した。命拾いした直後だというのに、腹の底から笑いが込み上げてくる。
「あっはっはっは! ドラゴンの声は出せるのに、数は数えられないのかい! なんだいその性能の偏りは!」
「うぅ……」
真っ赤になって俯く少年に、ダイヤは目尻の涙を拭いながら歩み寄り、その寝癖頭をくしゃりと撫でた。
「いや、悪かった。笑ったお詫びってわけじゃないが——ありがとうよ、ダダ。あんたはアタシの命の恩人だ」
「いえ。人助けは、当たり前のことですから」
ダダはそう言うと、ふっと空を見上げた。
「それに——人助けは、天にいる母上との約束なんです」
「……天に?」
「はい。母上は、僕が小さい頃に天に行ってしまって。だから僕、いいことをするたびに空に報告するんです。母上が退屈しないように」
少年は、雲ひとつない青空ににっこりと笑いかけた。まるでそこに、本当に誰かがいるみたいに。
ダイヤは、言葉を失った。
胸の奥が、きゅうと痛んだ。九尾族は損得で生きる種族だ。この出会いを金貨に換算する計算式なら、もう頭の中で組み上がっている。こんな逸材、放っておけば他のクランか、最悪、国に攫われる。今この瞬間に唾をつけるのが商人として唯一の正解——
(……なんだけどねぇ。なーんでこの子、こんな目で空を見るかねぇ……)
打算で近づくのが申し訳なくなるような、底抜けの純粋さだった。ダイヤは胸を押さえ、小さく呻いた。
「ぐっ……心が、痛い……」
「? どうしたんですか? お腹が痛いんですか? 陽薬草、籠に入ってますよ」
「腹じゃないよ、もっと厄介なとこだよ……」
ダイヤは大きく息を吐くと、ぱんっと自分の頬を両手で叩いた。腹は決まった。打算でもいい。この子は、アタシが拾う。アタシが守る。そして——どうせなら、てっぺんまで連れていく。
彼女は腰を屈め、ダダの目をまっすぐに覗き込んだ。
「なあ、ダダ。あんた、アタシと来ないかい」
「? どこへですか?」
「街さ。それでもって——」
九尾の商人は、にやりと笑った。人生で一番の大勝負を仕掛ける、商人の顔で。
「あんた、冒険者にならないかい?」
「ぼうけんしゃ……?」
少年は、初めて聞くその言葉を、きょとんと繰り返した。
頭上では、月見大根の葉が風に揺れている。
——この瞬間、後の大陸を揺るがすことになる最弱クラン「クレッセントワルツ」の歴史が、誰にも知られず産声を上げた。
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