第1章第1話
俺は二十歳の頃からホストを続け、二十五歳の時には店のナンバーワンになっていた。
金には困らない生活。
札束で虚しさを買っているような日々。
俺が金に執着していたのは、全て年の離れた妹を助けるためだ。
親のいない俺には十歳離れた妹が、唯一の家族だった。
幼い頃から病弱だった妹を救うため、がむしゃらに金を集めた。
……でも、間に合わなかった。
妹は病に倒れ……あの日、俺の腕の中で静かに息を引き取った。
札束をいくら積み上げても、救えない命がある。
徐々に冷たくなっていく、妹の体の感触を今も忘れられない。
あの日から、俺の時間は止まったまま。
──ただ惰性で生きているだけの日々だった。
店が終わり、いつものようにタクシーでタワマンの前に着く。
エントランスに続く歩道で、『桜井恭伸さん』と声を掛けられ、ふと歩みが止まった。
普段、本名で呼ばれることが少ないので驚いて振り返ると。
──腹に、唐突な衝撃。痛みより先に、熱い感覚が腹部から広がる。
刺されたと理解するまで、数秒かかった。
そして、見覚えのある顔が微笑んでいた。
「……これでずっと一緒だね。ふふふ……」
太客として貢がせ、金を絞り尽くし、俺が破滅させた女。
白石詩織か……。
彼女は自身の喉元に俺を刺した包丁を添えて、狂おしいほど嬉しそうに、けれど眼鏡の奥の虚ろな瞳で笑っていた。
なるほど、俺らしい結末だ。
あんなに優しい妹と同じところへは行けないだろうな、俺はどうせ地獄行きだ……。
意識が遠のき、視界が暗転する。
◇◇◇
「朝だよ。起きて。お兄ちゃん」
とても懐かしい声が耳元から聞こえてきて、俺は目を覚ます。
重い瞼を開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
死んだはずの妹・陽咲が満面の笑みを浮かべて、俺を見つめていたのだ。
俺は無意識のうちに、ガバッと布団から起き上がると陽咲を強く抱きしめていた。
ふと涙が溢れてきて、止まらない。
「どうして泣いてるの? お兄ちゃん? 大丈夫?」
俺はハッとして、抱きしめていた腕の力を不器用に緩めると、陽咲の頭を撫でた。
「ごめんごめん。つい嬉しくて……あれ? 何で制服着てるんだ?」
改めてまじまじと見ると、病気で痩せてしまった陽咲と違って顔色もよく、健康的な体をしている。
最後は抜け落ちてしまった髪も、今は清楚なストレートバングが陽咲によく似合っている。
陽咲は、十歳の頃から入退院を繰り返していたため、中学校にはほとんど通えずにいた。
そして、卒業式の当日に陽咲は息を引き取った……。
一度も袖を通すことができず、病室のハンガーに飾られたままだった制服。
そんな陽咲がなんで制服を着ているんだ?
そんなことを考えながら、陽咲の髪を撫でている自分の手に何か違和感を覚える。
俺の手のひらが、分厚く硬い。
無数のタコや豆で覆われている。
ナンバーワンホストとして、高級なハンドクリームでケアしていた俺の手じゃない。
──その瞬間、急激な情報量が脳に雪崩れ込んできて、この世界での記憶が一気に脳裏を駆け巡る。
そうだ、この世界では陽咲は病気になっていないし、俺はホストにはなっていない。
前の世界と同じく、中学を出た後は陽咲と一緒に暮らすため俺は建設現場で働いた。
今もその仕事を続けている。
暮らしは裕福ではないが、とても幸せな生活を送っている。
そして、今日は陽咲の中学校の卒業式だ。
俺と違い陽咲は頭の出来がいいので、大学まで行かせると決めていた。
意識が冷静さを取り戻した。
「学校行くからに決まってるじゃん。今日は私の中学校の卒業式でしょ。ふふ」
「そ、そうだ。卒業式だったな」
「お兄ちゃん。何か変だよ? 本当に大丈夫?」
「あ、何でもないんだ。ちょっと寝ぼけてたみたいだ。はははっ」
「しっかりしてよね。お兄ちゃん。ふふ」
「制服凄い似合ってるぞ。陽咲」
「今さら何言ってるの? 散々見てきたでしょ」
前の世界では、一度も見たことがなかった陽咲の制服姿に俺は胸が熱くなった。
タイムリープか? それともパラレルワールドか? そんな事はどうでもよかった。
ずっと会いたかった陽咲に、また会えたのだから。
久しぶりに陽咲との楽しい朝食を終え、学校へ行く彼女を見送る。
俺は畳の上でしばし息を吐いた。
懐かしい二Kのボロアパート。
皮肉なものだ。
前の世界でのタワマンより、古い畳の上の方が居心地がいいな。
しかし、二つの世界の記憶があるっていうのは何だか変な感じがするな。
卒業式の受付が始まる時間まで、まだ一時間以上あるが、じっとしていられず俺は出掛ける支度をする事にした。
一番乗りしていい席を確保しないとな。
ハンガーラックに掛かったスーツを漁る。
前の世界みたいな高級オーダーメイドスーツなんかあるわけもなく、手に取ったのは量販店の安物だ。
黒のストレッチスーツに身を包み、支度を終えた俺はボロアパートを出た。
陽咲の卒業式か……。
前の世界では絶対に見れなかった、陽咲の晴れ舞台を見れるなんて──俺、泣いちゃうかもな。
俺はこのまま陽咲との平穏な生活が続くのだと、何の疑いもなく意気揚々と学校へと向かった。
──この時の俺は、微塵も想像してなかった。
混乱を招く、前の世界ではあり得ない最悪のパンデミックが迫っていることなど。
◇◇◇
中学校近くの閑静な住宅街。
俺は中学校へと行く、狭い路地を歩いていた。
「た、助けてくれー!!!」
悲鳴に引き寄せられるように路地裏へ助けに向かった俺は、その光景に言葉を失った。
地面に倒れた老人の首筋に、中年の男女が文字通り噛みついていたのだ。
肉を噛み千切り、貪り食う生々しい咀嚼音が、静かな住宅街に響き渡る。
何だあの化け物は? まるで映画のゾンビのようだった。
俺の気配に気づいたのか、二人が口元を真っ赤に染めて立ち上がる。
狂った瞳をしながら、掴みかかるように俺に襲いかかってきた。
咄嗟に身をかわし、男の脇腹に強烈なミドルキックを叩き込む。
──バキッ。
骨が砕ける嫌な感触が脛に伝わった。
間髪いれずに迫る女の胸元へ前蹴りを突き刺すと、女は後方へ勢いよく転がっていった。
前の世界で唯一の趣味として続けてきた総合格闘技。
こちらの世界でも、知り合いが経営する格安ジムに通い続けていた。
建設現場での肉体労働、酒と煙草を控えた規則正しい生活。
その恩恵か、酒と歓楽街に浸ってた前の世界より、遥かに身体にキレがあるな。
素人なら、これだけで悶絶して動けなくなるはずだった。
嘘だろ!?
なのに──男は痛みを全く感じていないかのように、平然と立っていた。
肋骨もへし折れてるはずなのに、痛みに顔を歪める素振りすらない。
痛覚無いのか?
襲いかかってくる男に目掛けて、最高のハイキックをテンプルへと叩き込んだ。
男は勢いよく真横に、頭から崩れ落ちた。
手応えは十分だった、これならさすがに効いただろうと思ったのだが……。
しかし、男は首が折れそうな角度の曲がったまま、眼球だけがこちらを捉えて立ち上がってきた。
嘘だろ? 今のテンプルにまともに入ったぞ。
普通なら、脳震盪を起こして失神してもおかしくない手応えだった。
脳を揺らすハイキックすら効かないのか……。
これ以上やっても埒が明かない。
老人の手を引いて逃げようと駆け寄る──だが、すでに遅かった。
さっきまで被害者だった老人が、不気味な唸り声を上げてヨダレを垂らしながら、俺の腕に噛みつこうとしてくる。
「……う……ううっ……」
噛まれたら終わる。
映画のゾンビの知識が脳裏をよぎり、俺は咄嗟に手を引き、戸惑いながらも老人を蹴っ飛ばすと、迫る男にタックルをぶちかましてその場を突破した。
何なんだあの化け物は?
動きは遅い。
だが、攻撃が全く効かない。
襲われていたはずの、老人も化物に変化した。
噛まれることで感染が広がるのか?
彼らの姿が見えなくなるまで走ったところで、俺は警察に通報しようとスマホを取り出した。
しかし、回線がパンクしてるのか、何度発信しても『現在、大変混み合っていて──』という自動音声が流れて全然電話が繋がらない。
陽咲は?
慌てて画面に表示された陽咲の連絡先をタップしようとしたその瞬間──LINEのポップアップが滑り込んできた。
陽咲からLINEのメッセージ。
電話回線はパンクしているみたいだが、データ通信はギリギリ繋がっているのか。
それとも奇跡的にメッセージが送信できたのか?
『お兄ちゃん助けて! みんながおかしくなっちゃって、今凛ちゃんと二階の中央階段近くの女子トイレに隠れてる! お願い早く来て!』という内容のメッセージだった。
一気に血の気が引いた。
こちらの世界の記憶だと、凛ちゃんは陽咲の一番の親友だったな。
俺は妹と彼女の友達を助けるために、なりふり構わず中学校へと走った。
学校へ向かう途中、先ほどと同じような化け物が現れて、街は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
そんな中、俺は佇んでいる一人の若い女性と目が合った。
一気に体中の血の気が引き、一瞬だけ足が動かなくなり立ち止まりそうになった。
見覚えのある黒髪の重めのボブカットに、眼鏡。
前の世界で彼女がよく着ていた、お気に入りのゆったりとしたグレーのワンピースが、真っ赤な血で禍々しく染められていた。
名前は白石詩織。
前の世界で、俺が初めて人生を狂わせ、金を貢がせた──そして、俺を刺し殺した女性。
詩織はどこか遠くを見るような、虚ろな瞳をしている。
彼女は感染しているのか?
それとも──。
読んでくださりありがとうございました
二日に一回更新予定です




