預金は誰のものか
預金は、声の大きい者のものではなかった。
春2月13日の朝、リーゼン銀行の扉が開くと同時に、25人分の払戻し票が窓口へ積まれた。
どれも請求額は銀貨12枚。昨日から続く生活用の仮枠へ、ぴたりと収まる額だった。
「伯爵家で働く者たちの預金です。直ちに支払っていただきたい」
先頭に立つ伯爵家の執事が、銀の飾りが付いた杖で床を鳴らした。後ろには料理人や洗濯係らしい男女が並んでいる。だが誰も、自分の払戻し票を持っていなかった。
直人は25枚を横一列に並べた。
名義はすべて違う。金額は銀貨12枚ずつ。合計300枚。
「本人たちの預金なら払います。ただ、その前に本人へ確認します」
「使用人を疑うのですか」
「使用人25人が自分で開いた口座か確認します。昨日まで1つだった可能性があります」
列の後ろがざわついた。執事は鼻で笑い、帳簿を指した。
「銀行が別々の口座として受け付けたのです。国王陛下が、後から同じだと言い張るおつもりか」
「言い張らない。契印を照合する」
直人は銀行員に、25口座の開設記録と元の預り証を運ばせた。
払戻し停止の前日、伯爵家の投資用口座から銀貨300枚が移されている。移し先は25人の使用人名義。1人12枚ずつ。だが25人が窓口へ来て開いた口座ではなかった。
1枚の振替指図書に25人の名が並び、その末尾に執事の契印が押されている。
国璽院の契印官が指図書を照合盤へ置いた。赤い光が末尾の印から25本の細い線になり、各口座の開設欄へ伸びる。
目の前の執事が25口座すべてを作っていた。使用人本人の契印は1つもない。
「同じ人が動かせる銀貨300枚を、名前だけ25個に分けた」
直人は25枚の払戻し票を重ね、執事へ返した。
「小口預金にはならない」
執事の杖先が、床からわずかに浮いた。
「彼らへ与えた金です。主人が使用人を思いやって何が悪い」
リヴィアは並ばされた男女へ目を向けた。若い洗濯係が、隣の料理人の袖を握っている。
「自分の物になったと聞いている人は、手を上げて」
誰も上げなかった。
執事が振り返ると、使用人たちは一斉に目を伏せた。その中で、年配の料理人だけが前へ出た。
「今朝、銀行へ並べと言われました。銀貨のことは、ここへ来て初めて聞きました」
執事の顔が赤くなる。
「主人への忠義を忘れたか」
「忠義の話にしないで」
リヴィアの声は大きくなかった。それでも、執事は口を閉じた。
「この人たちの名前を、口座隠しに使わせない。働いた分の賃金を受け取る人たちです」
直人は25枚の払戻しを保留箱へ入れた。銀貨300枚を伯爵家の大口預金へ戻し、資産査定が終わるまで同じ順番で待たせる。
列の中から拍手が起きた。
だが直人は手を上げ、拍手を止めた。
「1人分の大口預金を25人分に見せたため、払戻しを止めました。この人たちが今日受け取る賃金は、別に審査します」
伯爵の抜け道を塞ぎながら、働く32人の暮らしは守る。片方だけを見れば、目の前の勝利の陰で生活が止まる。
年配の料理人が、おそるおそる口を開いた。
「今週の賃金は、本当に見てもらえるのでしょうか」
「見ます。人数、支払日、金額が分かる賃金表を持ってきてください。執事を通さなくても受け付けます」
リヴィアが相談窓口を指すと、使用人たちは執事から離れ、そちらへ歩き出した。
25人の名前は、伯爵の抜け道ではなく、自分の賃金を請求するために使われることになった。
* * *
直人は玄関の掲示を外し、裏返した。
昨日の紙には「小口を優先」としか書かれていない。これでは口座を小さく割れば通ると読める。
「俺の書き方が甘かった」
ペンを持ったまま直人が言うと、リヴィアは25枚の払戻し票を見た。
「でも、今なら町中が見てる。直した理由まで書けば、次は同じ手を使えないよ」
「そうだな。金額じゃなく、今日止まるものを見る」
2人は新しい支払表を作った。
確認するのは4つだけ。残高、用途、期限、代わりに使える資金。
口座が小さくても、同じ持ち主が分けたものはまとめる。口座が大きくても、賃金、パン、薬、薪のように今日止められない支払いは切り分ける。誰を好きかではなく、何がいつ止まるかを同じ紙で比べる。
商人組合の代表が掲示を読み、眉を寄せた。
「王が都合のよい用途だけを選ぶこともできます」
「だから理由も掲示する。待たされた人には異議を出す時間を設ける。怒鳴ったから早くもしないし、王に逆らったから遅くもしない」
リヴィアは相談票へ余計な質問を書き足そうとした書記の手を止めた。
「家族の事情を全部話させなくていいよ。必要なのは、支払わないと何が止まるか。助けを求めるたびに生活を丸裸にされたら、窓口そのものが怖くなるから」
直人はその言葉も掲示へ加えた。
――声の大きさで、銀貨の順番は変わらない。
紙が張り直されると、先ほど拍手した男も、舌打ちした商人も黙って読み始めた。
新しい紙では、同じ銀貨12枚の請求から比べた。
宝石商は、東方から届く真珠の手付金に使うという。契約期限は10日後で、別の商会から短期で借りる道もあった。請求票には「本日は待機」と理由が書かれた。
次のパン屋は、明朝の粉を買う銀貨7枚を求めた。粉屋もリーゼン銀行に口座を持っている。現金を渡さず、帳簿上で7枚を移すと、粉屋は受取票を掲げて笑った。
薬屋へ行く老人の請求は銀貨4枚だった。処方票と薬屋の在庫札を確かめ、銀貨は老人ではなく薬屋へ直接支払われた。
「同じ12枚以下でも、答えが違うのか」
列にいた男が尋ねた。
「金額の大小より、今日止まるものを見ます。パン、薬、賃金につながる支払いを先に通します」
直人が3枚の判断票を掲示板へ並べると、待たされた宝石商も自分の票を破らなかった。王の気分ではなく、自分の期限と代替手段が書かれていたからだ。
* * *
午後、伯爵家の使用人32人分の賃金表が届いた。厨房、厩舎、洗濯場の賃金と、パン屋、薪商への支払いを合わせて銀貨46枚。
新しい賃金表には、働いた者の名、仕事、支払日があり、パンと薪の伝票も実在した。
ただし伯爵家には、別の銀行の遠方支店に金貨8枚がある。手形を持ち込めば、王都への着金は3日後だった。
「銀貨46枚を先に払い、3日後にこの手形から戻す」
直人は執事ではなく、賃金表を持ってきた料理人へ説明した。
「別にある確実な金が届くまで、銀貨46枚を橋渡しします。届かなければ、返す責任は伯爵家に残ります」
料理人は難しい顔をしたが、リヴィアが賃金袋を1つ持ち上げると視線をそちらへ移した。
「みんなが知りたいのは、誰が得をするかだよ。銀貨46枚は伯爵の投資には使えない。32人の賃金と、伝票にあるパンと薪に直接払う。3日後に伯爵家の金で銀行へ戻す」
「それなら、旦那様の名前で私たちが借りを作るわけではないんですね」
「作らない。働いた人が負う借金は0枚」
料理人の深いしわが、ようやく少し緩んだ。
窓口で32人の名が呼ばれた。洗濯係は受け取った賃金袋を両手で包み、料理人はパン屋への支払票をその場で確認した。薪商へは口座振替が行われ、銀行の現金を使わずに済んだ。
伯爵家の投資用銀貨300枚は、1枚も出なかった。
使用人の暮らしだけが、予定どおり動いた。
* * *
夕方、大口預金者の織物商が窓口へ来た。
「銀貨500枚を返せ。国外の仕入れが止まる」
直人が伝票を分けさせると、250枚は国外商会への新規投資だった。残りには王都の職人へ払う賃金銀貨28枚が含まれている。
「500枚全部は出さない。職人の28枚は今日審査へ回す」
「私を伯爵と同じ詐欺師扱いするのか」
「していない。だから契印ではなく伝票を見た。投資を待たせても、職人の賃金まで罰しない」
老主人は反論しかけ、後ろに並ぶ職人たちを見た。やがて500枚の請求書を破らず、賃金分と投資分を分ける線を自分で引いた。
制度で違う期限の金を切り離せば、守れる人が見えてくる。
その日の生活用支払いは銀貨94枚。パン、薬、薪、賃金、すでに運び終えた荷の代金だった。国庫の金も、王室名義の不明口座96枚も、1枚も入れていない。
地場銀行からの清算資金が加わり、小口決済箱の残高は銀貨612枚になった。
昨日より増えたように見える。清算資金には7日後の返済期限がある。直人は残高の隣へ返済日を大きく書かせた。
「現金が増えた日に、安心していいのかな」
夜の銀行で、リヴィアが小口箱の蓋を閉めた。
「支払いは今日を越えた。でも、返せる資産があるかは別だ」
直人は貸付帳の山へ目を向けた。額面銀貨6900枚。そのうち延滞は2400枚ある。
「明日は貸した金の中身を見る。戻らない金を、戻るふりのまま数えたら、また誰かの預金が消える」
リヴィアは、王宮の箱にしまった父の古い預り証を思い出すように手を握った。12年前、番号札さえ残らなかった父の金だ。
「今度は、消した人の都合まで帳簿に戻そう」
無断で借りた25人の名義では開かなかった小口箱が、32人の本当の賃金には開いた。
預金の順番を決めたのは、身分でも声でもなかった。
その銀貨で、明日の朝に誰の仕事が動くのか。それだけだった。




