国王陛下、風呂に入りたい
即位した翌朝、借金王ナオト1世は、生まれて初めて国王として願いを口にした。
「風呂に入りたい」
「却下」
リヴィアは顔も上げなかった。
王国暦317年春1月6日。直人の前には国王の朝食より先に、近衛兵の靴、厨房の鍋、医務室の包帯、厩舎の干し草の請求書が並んでいる。
「まだ予算も言ってないだろ」
「王宮浴室の修繕に金貨18枚。薪が1回銀貨9枚。給湯係を戻せば、その賃金もかかる。数字なら昨日から変わってない」
澄ました声だったが、束ねた紙の端からリヴィアの口元が少しだけ見えた。笑いをこらえている。
「こっちへ来てから、濡れた布で拭いただけなんだ。国王の衛生は国家予算に入らないのか」
「身体は清拭で足りる」
「心の衛生は?」
リヴィアの指が、頁の途中で止まった。
「そんな費目はない」
とうとうリヴィアが吹き出した。ほんの一瞬だったが、直人は見逃さなかった。
「今、笑ったな」
「笑ってない。それより、風呂を直すなら、この4枚から後回しにするものを直人が選んで」
彼女は請求書を扇のように広げた。
穴の開いた靴で夜警に立つ兵士。底の抜けた鍋を継ぎ足して使う料理人。洗って再利用される包帯。飼料を減らされ、肋骨の浮いた馬。
どれも風呂より安い。そして、どれも削れなかった。
「……国王専用の風呂は諦める」
「賢明だね、陛下」
「その顔で言われると腹が立つな。ただ、浴室は見に行く。使ってない建物にも金はかかるし、金貨18枚の根拠も確かめたい」
リヴィアは広げた請求書を重ねながら、今度は隠さず笑った。
「それなら公務。案内する」
* * *
王宮浴室を見た直人は、ぜいたくより先に遺跡という言葉を思い浮かべた。
石床の隙間から雑草が伸び、排水口は黒い泥で詰まり、銅釜には髪の毛ほどの亀裂が走っている。壁に残った金色の模様だけが、ここが国王専用だったことを主張していた。
「これに金貨18枚?」
「王族用の彫刻と、新しい香油棚も見積りに入ってる」
「風呂を直すのに、彫刻はいらないだろ」
直人が呆れていると、廊下の奥から桶を抱えた厨房の女が現れた。袖からのぞいた腕に、赤い湿疹が広がっている。
彼女は2人を見るなり桶を置き、慌てて膝をついた。
「その腕、どうした?」
「ただのかぶれです、陛下。仕事には支障はない」
答えとは裏腹に、女は袖を引き下ろした。指の節までひび割れている。
リヴィアが腰を落とし、女と目線を合わせた。
「厨房では何人が同じ症状?」
「5人です。厩舎と洗濯場にもいると聞きました。でも薬は兵の傷に回したほうが……」
女は赤くなった指を、桶の陰へ隠した。
「風呂は?」
「使用人は入れない。仕事の後に井戸で洗っています」
朝の井戸水は骨まで冷える。医務室では3か月で皮膚薬に銀貨83枚を使い、欠勤も延べ19日に達していた。
直人は浴室の隣をのぞいた。使われなくなった洗濯場があり、床には同じ排水溝が続いている。
「リヴィア、国王1人のために、この大きな釜を沸かしてたのか?」
「先王の頃は、そう」
「なら、使う人数を増やせばいい。釜と煙道はそのまま、隣の部屋まで湯を引く。王の風呂を直すんじゃない。王宮で働く人の共同浴場に変える」
リヴィアは空き部屋と銅釜を交互に見た。驚きはすぐに消え、代わりに、現場を動かす人間の目になる。
「厨房、清掃、厩舎、夜警で、勤務の終わる時間が違う。交代制なら40人以上は使える。女の時間と男の時間を分ければ、仕切りも最低限で済む」
「それでいこう。薬が減るだけじゃない。病欠が減れば、残った人に仕事が偏らない」
リヴィアは賛成しかけた顔を引き締めた。
「でも、薬代が減る前に修繕費がいる。国庫に余裕はない」
「国王用の無駄を、国王が売る」
直人は即位式用の衣装目録を思い出していた。
金糸の外套が3着。直人が実際に着たのは1着だけだ。残る2着は国費で仕立てられ、衣装庫に眠っている。
「2着を売る。1着あれば儀式には困らない」
「昨日即位して、今日もう王の服を売るの?」
「借金王らしくていいだろ」
リヴィアは片手で額を押さえたが、肩は笑いに揺れていた。
* * *
外套を仕立てた職人は、笑わなかった。
「夜通しで縫ったものを、ほどいて売ると?」
衣装庫に響いた声は、怒りより傷ついていた。職人の指には、針で刺した細かな痕がいくつも残っている。
直人は外套ではなく、その指を見た。
「作った仕事が無駄だったとは言わない。俺が即位するために必要だったし、仕立ての腕が見事なのも分かる。でも、この国には同じ用途の服を3着持つ余裕がない」
職人は唇を結んだまま、金糸を撫でた。
「ほどく仕事にも賃金を払う。布を傷めず戻せるのは、作ったあなたしかいない。それから、残った布で共同浴場の厚い仕切りを作ってほしい。王の背中を飾るより、40人の役に立つ形へ変えたい」
しばらく返事はなかった。
やがて職人は外套を裏返し、縫い目を確かめた。
「金糸を切らずに戻せば、値は落ちない。仕切りには、この裏地が使えます」
「頼めるか?」
「陛下ではなく、注文主として頭を下げられたら、断れない」
商人3人に値を出させ、外套は最も高い衣装商へ売った。ほどき賃を引いた金貨12枚を、その場で共同浴場の修繕費へ移した。
装飾をやめ、古い銅管を再利用すれば金貨11枚で直せる。新しい釜は金貨26枚。今は出せない額だった。
「安いほうを選んで、また壊れたら余計にかからない?」
リヴィアが銅釜の亀裂を見つめた。
「長く使うなら交換が得だ。でも今は明日の支払いに使える金を残すほうが大事だ。1年以内に再検査する条件を記録へ残す。危機が去った後まで、応急処置でごまかさないために」
「分かった。その約束、国王監査の項目に入れておく」
「俺を信用してないな」
リヴィアは直人の目を見て、ゆっくり首を振った。
「信用してるから、記録にするんだよ。未来の直人が忙しさを言い訳にしないように」
修繕そのものより、入浴の順番を決めるほうが揉めた。
宮内局の官吏は、国王、評議員、上級官吏、近衛隊、使用人の順を譲らなかった。
「身分の高い者から使う。それが王宮の秩序です」
厨房の女たちは夜明け前から働く。その順では、仕事を終えても冷めた湯しか残らない。
「その秩序だと、誰が夕食を作る?」
「厨房の者です」
「国王が先に入るため、厨房の人を釜番に残す。やっと入れる頃には湯が冷めて、病気になったら別の人が穴を埋める。王を優先するたび、王宮全体の仕事が遅れる。それは秩序じゃなくて、ただの無駄だ」
官吏が顔を赤くした。
「では、誰が順番を決めるのです」
「時計と仕事だ」
直人は、リヴィアが作った勤務表を壁へ広げた。
「仕事を終えた班から入る。厨房の朝番、清掃、厩舎、夜警の順にすれば、空いた人から湯を使える。次の班が働いている間に釜を温め直す。俺は執務が終わってからでいい」
「国王を使用人の後へ置くと?」
「国王が最後なら、湯を沸かす人も安心して先に入れる。文句があるなら、王命だ。勤務順にする」
背後で話を聞いていた厨房の女が、赤く荒れた手で口元を覆った。笑ったのか、泣きそうになったのか、直人には分からなかった。
少なくとも、もう袖で手を隠してはいなかった。
* * *
1月8日の日暮れ前、王宮共同浴場が開いた。
9人の職人へ賃金が全額支払われ、材料商にも未払は残らなかった。古い銅管を再利用できたため、実際の支出は見積りより銀貨6枚安い、金貨10枚と銀貨14枚で収まった。
売却代金の残りから銀貨6枚を、半年前に浴室を応急修理した職人への未払賃金へ回した。金貨1枚は、銅釜がまた割れたときだけ使える修繕予備費として封印した。
毎月の薪代と給湯係の手当は、国王と来客だけに使っていた香油や白布の予算をやめれば払える。新しい増税はない。
数字と使い道を掲示すると、「国王が自分の風呂へ名前をつけただけだ」と書かれていた匿名の紙の下に、別の筆跡で一言が増えた。
『だったら、俺たちも先に入れる王の風呂だ』
厨房と清掃の職員が最初に入った。
湯気の向こうから歓声が上がる。湿疹のあった女は、おそるおそる腕を湯へ沈め、それから力の抜けた顔で笑った。
夜警明けの兵士たちは入浴を終えるなり長椅子で眠り込んだ。ガレンは彼らへ毛布を投げながら、一般枠の最後に並んだ直人を振り返った。
「王が最後というのは、近衛として落ち着かないな」
「俺が湯に入るまで全員を立たせておくほうが危ない。眠い兵に守られたくないだろ」
ガレンは眠り込んだ部下と直人を見比べた。
「それはそうだ。だが、陛下がのぼせて沈んだら、俺の責任になる」
「そこまで長く入らない」
直人が胸を張ると、ガレンの眉が疑わしげに上がった。
「その台詞は信用できない。6日も風呂を我慢していた男の顔じゃない」
ガレンが腕を組むと、周囲から笑いが起きた。即位式では膝をついていた兵士たちが、今は直人の入浴時間を賭け始めている。
ようやく肩まで湯へ沈んだ瞬間、直人の口から勝手に声が漏れた。
「ああ……生き返る」
厚い仕切りの向こうで、水音が止まった。
「一度、元の世界へ帰りかけたけどね」
リヴィアの声だった。
「そういう意味じゃない。日本人にとって、風呂はもっと切実なんだ」
「国より?」
「比べるものじゃない。でも今だけは、かなり近い」
仕切りの向こうで、彼女が声を立てて笑った。
「直人が王になって最初に救ったのが、お風呂だなんてね」
「違う。風呂に救われたのは俺のほうだ」
「じゃあ、半分は成功かな」
ぱしゃりと、仕切りの向こうで湯をすくう音がした。
「40人が温かい湯に入れて、職人の未払も減って、薬代と欠勤も減るかもしれない。十分成功だろ」
「まだ薬代は減ってない。そこは測ってから」
「厳しいな、監査官」
直人が天井を仰ぐと、リヴィアの弾んだ声が返った。
「それが仕事だから」
その声はもう、即位式で「陛下」と呼んだときほど遠くなかった。
浴場の外では、職員たちが次の利用日を勤務表へ書き込んでいる。国王専用だった釜は、同じ薪で40人以上の湯を沸かした。
ぜいたくを禁止するだけでは、誰も温まらない。使い方を変えれば、王の無駄は民の利益になる。
湯上がりに執務室へ戻ると、遠距離通信盤に赤い契印文字が浮かんでいた。
ヴェスパー商会からの返答だった。
赤い契印の横で通信盤が鏡のように光り、黒い上着の男が映った。王都駐在監査役のセヴランと名乗り、直人の試算表を指先でたたく。
「国の帳簿が3冊も食い違う状態で王領を今すぐ接収すれば、管理費と争いまで当商会が引き受けることになる。30日後に正しい収入を押さえたほうが回収額は大きい。陛下の計算は合理的です」
「信用して待つわけじゃないんですね」
「もちろん。待つのではなく、30日を売ります」
条件は、未払い残高金貨12,000枚に対する1%、金貨120枚の利息。3冊の帳簿、徴収所原簿、担保王領の収支を共同監査へ全面開示する。停止中は契約済みの担保を売らず、再び担保に入れず、そこから生じる収入を隠さない。記録を隠せば、その時点で停止は終わる。
「担保でない財産まで押さえる条件はない。それで合ってますね」
「契約にない物は取らない。ただし、契約にある物は1枚も見逃さない」
直人がうなずくと、セヴランの像は赤い契印だけを残して消えた。商会が欲しいのは王領ではない。そこから最も多く回収できる権利だ。だからこそ、30日の猶予には値段と鎖が付いていた。
リヴィアが濡れた髪を布で押さえながら、条件書をのぞき込んだ。
「30日で、金貨12,000枚を作れると思う?」
「分からない。でも、2日で国を失うよりずっといい。金貨120枚で時間を買って、その間に、この国の金がどこで止まってるかを全部見つける」
リヴィアは濡れた髪を耳へ掛け、机の品目表を引き寄せた。
「じゃあ、明日は市場だね。王宮の小麦と薪と石鹸、町の値段と合ってない」
「風呂の次は買い物か。王様らしくない仕事が続くな」
直人が肩をすくめると、彼女の灰緑色の目が楽しそうに細くなった。
「似合ってるよ、借金王」
リヴィアは笑っていた。昨日決めたとおり、人目のない場所ではもう彼を「陛下」と呼んでいない。
直人は条件書へ署名し、国璽を押した。
国を失う時計が止まったわけではない。金貨120枚で、針を30日先へ動かしただけだ。
それでも王宮には、昨日までなかった湯気と笑い声が残っていた。
借金王は金貨より先に、国へ温かい風呂を増やした。
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