073_笑い鬼(смеющийся демон)
初めにクニカが知覚したのは、唇にあてがわれた、ごわごわとした、酸っぱいものだった。それがぶどう酒の酸味であると気付いたとき、クニカの視界に映り込んでいた多色のまだら模様が、ひとりの人物の輪郭を描き出した。
「ミカ……」
視界に映る人間の名前を、クニカは当て推量で呼ぶ。しかし、何かがおかしかった。
「ミカ、ミカ……?」
輪郭を形成する無数の曲線が、次第にはっきりとした像を結ぶ。ようやくクニカは、目の前にいるのがフランチェスカだということに気付いた。
日蝕のうすあかりの中で、ぶどう酒の染み込んだ海綿を口に咥えたまま、フランチェスカがじっと、クニカを見つめている。ばつが悪くなったクニカは、目を反らした。
「ミカ……しっかりして!」
遠くから、アアリの声がする。礼拝堂の天井には大穴が空いており、だからクニカは、昼とも夜ともおぼつかない、うすあかりの空に抱かれていた。ここにはフランチェスカがいる。アアリの声がして、ジイクも側にいるのだろう。カイは? リンはどこに?
クニカの脳内に、直前の記憶が蘇ってくる。魔力が尽きかけ、ミカイアに追いつめられ、そこにジイクが現れ、アアリの魔法が炸裂した。クニカは光に包まれ、ミカイアの身体は光に薙がれて――。
身を起こすと、クニカは立ち上がろうとする。だが、想像していた以上に全身が軋み、クニカはよろめいて、転びそうになる。
「クニカ!」
そんなクニカを、後ろからリンが支える。
「良かった、クニカ」
「リン……平気?」
「ああ。ニコルも生きてる。カイもさ。運ばれてるよ」
「ミカは?」
そう尋ねる間にも、正面にいたジイクとアアリの視線が、自分に注がれるのを、クニカは感じ取った。
ジイクとアアリの間には、ミカイアが横たわっている。ミカイアの右腕の袖口はきつく縛られていたが、血で赤黒くなっている。ジイクに斬られた右腕が、その傍らに置かれていた。
「新市街の帝国軍は、みな降伏した」
クニカの隣で、フランチェスカが言う。
「主力の大半は、既に新市街を棄て去っていた。殿が、私たちを欺くために、あえて残ったのだ、と思う。私の作戦は完璧だった。だけど――」
フランチェスカは口をつぐんだ。ミカイアの肌は紙のように白く、生気がない。アアリの破壊光線は、ミカイアのゼロ距離で爆発し、礼拝堂の天井もろとも、ミカイアをなぎ倒した。
「“神の鉄槌”よ」
記憶を反芻するクニカに、アアリが言った。
「私の使える奥義。発動原理は“天雷”と同じだけれど、その数十倍の威力で、物理的な障害も、魔法の結界も、ほとんど突き破れる」
アアリの説明の間にも、クニカはミカイアの横顔を見つめていた。ミカイアは死にかけている。クニカにも、そのことは分かる。
「あたしの魔力を使って」
立ち上がったアアリが、クニカの手を握り締める。繋いだ手を通じて、アアリの魔力が、クニカを満たしていく。
「これでよし」
アアリの言葉は、みずからに言い聞かせるかのようだった。フランチェスカは、ミカイアに近付くと、心配そうにその顔を覗き込んでいる。
「クニカ。ミカを――」
「分かってる」
そのとき、横たわっていたはずのミカイアが、不意に目を開けた。ミカイアの身体の下から、何かが這い出してきた。その何者かは、長剣を抜き放ち、フランチェスカの胴体を刺し貫く。
「あっ――」
刺された勢いで、フランチェスカは地面に爪先立ち、そのままバランスを喪って、背中から倒れる。フランチェスカの身体には、長剣が突き刺さったままだった。
ミカイアの影に潜んでいた人物――ニフリートが、フランチェスカを見下ろしている。
クニカが息を呑むより前に、ジイクとアアリが長剣を抜き放ち、ニフリートまで殺到する。大瑠璃宮殿のオリガがそうであったように、クニカは、ジイクとアアリの抜刀を見切ることができなかった。それほどの速さにもかかわらず、ニフリートの方が、ジイクとアアリよりもなお速かった。ニフリートが、両腕を軽く振り上げる。ジイクとアアリの身体が、床から離れ、壁に叩きつけられる。二人はまるで、見えない巨人に掴まれ、壁に磔にされたかのようだった。
「どうした、笑えよ?」
ニフリートが言った。
「お蔭で、フランチェスカを呼びよせる手間が省けた」
「そんな――」
フランチェスカは、仰向けに倒れている。クニカ位置からは、表情は分からない。フランチェスカの身体は、おびただしい血の中に沈んでいる。
「どうして――」
「ミカイアの血を吸った後、ボクは彼女の影に隠れた。ミカイアに気を取られている間、キミたちはボクを忘れる」
面白くなさそうに、ニフリートはミカイアを一瞥した。ニフリートの視線の先を追ったクニカは、ミカイアの首筋、肩のつけ根の辺りに、小さな穴が空いていることに気付いた。
「それが、あなたの能力……」
「笑わせるだろう?」
肩を震わせ、ニフリートは笑う。
「だから、夢だった。いつか自分の、完璧な複製を作ることが。ボクだって人並みに、夢を見ることがある」
ニフリートが全てを言い終わらないうちに、隣にいたリンが、クニカに右腕を伸ばした。
「リン?」
ただならぬリンの様子に、クニカは声を掛けたが、リンは
「さがってろ」
と言うだけだった。リンの左手には、ナイフがきらめく。尖端はニフリートを向いていたが、小刻みに震えていた。リンは押し黙っていたが、鼻息は荒かった。
「ボクを殺そうとしているな?」
ニフリートが大きく首を傾げてみせる。
「なら、やってみるといい」
そう言うと、ニフリートはリンの正面で、両腕を水平に拡げてみせる。水色のシャツに、鉛色のズボンを穿いたニフリートは、着の身着のままで、武器を隠しているようには見えない。それどころか、ニフリートは目を閉じている。
「斬ろうとするな?」
立ちすくむリンを前にして、ニフリートが言う。
「本気で殺したいのなら、刺しに来い」
「リン、よせ」
壁に磔にされていたジイクが叫んだのと、リンが大声を上げて、ナイフを振りかぶったのは、ほぼ同時だった。ナイフの尖端が、ニフリートの身体に埋まる。
次の瞬間、何が起きたか? かん高い悲鳴が、礼拝堂に響きわたる。アアリの悲鳴だった。クニカの全身から汗が噴き出す。壁に磔にされたまま、アアリは身をよじっている。脇腹には赤黒いシミが拡がり、衣服の吸いきれなくなった血が、アアリの足下に滴った。
茫然とした様子で、リンがニフリートから後ずさる。ニフリートの脇腹には、ナイフが深々と突き刺さっていた。それは、アアリの負傷した箇所と同じ位置だった。
ナイフの周辺からは、黒い煙のようなものが噴き出している。クニカは、それがニフリートの”闇”で、ナイフの傷がアアリに転送されたのだと、漠然と感じ取った。
「アアリ、しっかり!」
声を漏らしているアアリに対し、ジイクが呼びかける。アアリを気遣いながらも、ジイクの視線は、ニフリートから離れなかった。
「クニカ、リン、逃げろ――」
「喋るな」
ジイクの言葉を遮ると、両手を広げた姿勢のまま、ニフリートが指を鳴らす。ジイクとアアリは、まるで金縛りにでもされたかのように、身じろぎを止めてしまった。
「命拾いしたな、アアリ」
ニフリートは呟いた。不協和音とともに、ニフリートの脇腹に刺さっていたはずのナイフが、その体内へと――より正確には、闇の中へと――吞み込まれていく。
「もしキミが戦い慣れていたら、ナイフはボクの急所だった。アアリは死んでいた」
「あ……っ?!」
リンが声を上げる。ニフリートの手の動きに合わせ、リンの身体が宙に持ち上がる。
「リン?!」
「ク……ソっ!」
喉元を苦しそうに手で押さえながら、リンは両足をばたつかせる。
壁にたなびいていた影の揺らめきを目撃して、クニカははっとする。壁に映ったニフリートの影が、リンの影の首を押さえ、持ち上げていた。
空いた右手を、ニフリートが握り締める。手の裡からは光があふれ、“天雷”によって満たされる。ニフリートが左手を開く。リンの身体は地面に落下する。
「やめて――!」
クニカは叫んだ。低くうなる音とともに、ニフリートの投げつけた“天雷”が、リンの身体に直撃する。まばゆい光と、轟音の中心で、リンが背中側に直角に折れ曲がったように、クニカには見えた。それが錯覚なのかどうか、クニカが確かめるより先に、リンは吹き飛ばされ、クニカの後方まで滑っていった。
「リン?!」
「このやろう……!」
倒れ伏したまま、リンが声を絞り出した。リンは生きていたが、声を出すだけで精いっぱいのようだった。
「クニカに……手を……出すんじゃない……!」
ニフリートが一歩ずつ、クニカのところまで近づいてくる。
「そんな……」
ミカイアは、倒れたまま動かない。
長剣に刺し貫かれ、フランチェスカは横たわっている。その身体から溢れる血を、止められる人間はこの場にいない。
ジイクとアアリは壁に磔にされ、今は息をしているのかどうかさえ分からない。
悲しみと怒りとが、クニカの中でないまぜになる。
「ひどい……!」
ニフリートの動きが、ぴたりと止まる。
「ウ、フ、フ……」
その唇から、笑みが噴き出した。
「フ、フ、……アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」
「やめて……!」
ニフリートの哄笑を前にして、クニカは耳を塞ぐ。ニフリートの笑い方は機械的で、無機質で、本来ならば笑うべきではないものを、無理やり笑ってねじ伏せるかのような、そんな笑い方だった。
「やめて……!」
「『ひどい』か、いいな! ボクも殺されそうになったら、そう言うようにしよう」
笑うのをやめると、ニフリートはそう言った。
「心配は要らない。ジイクもアアリも……リン、キミだって殺しはしない。生きてもらう必要がある。生きて、証人になってもらう」
リンは返事をしなかった。息をするだけで精一杯のようだった。
手を伸ばすと、ニフリートがクニカの両腕を掴む。ニフリートの指は、氷のように冷たかった。
「離して……!」
「“竜”の魔法使い。それをコピーできれば、どれほど面白いだろう……」
逃げ出そうにも、クニカは足がすくんでいた。それに、ニフリートの手首を絞めつける力は、万力のように固い。口を開くと、ニフリートは自分の歯を、クニカの首筋にあてがおうとする。ニフリートは、クニカの血を吸って、クニカを操り人形にするつもりなのだ。ミカイアにそうしたように。
(血を……)
その瞬間、クニカの頭の中に、ひらめきの火花がほとばしる。ニフリートがクニカの血を吸うとき、一瞬であっても、クニカとニフリートは、流れ込んだ血液を通じて、その身体を共有することになる。
それはつまり――。
「さようなら」
ニフリートは目を細め、クニカの首筋めがけ、牙をむく。
「クニカ!」
ニフリートに体重を預けられ、よろめくクニカの耳に、リンの叫びが聞こえる。
(今だ)
首筋に痛みを覚えると同時に、クニカは“祈った”。次の瞬間、ニフリートの身体は、まるで稲妻にでも触れたかのように大きく震え、クニカからのけ反った。
「痛い……!」
肩にできた小さな傷口を指で押さえつつ、クニカは倒れ込む。しかしクニカは、自分の企みが成功したことに気付いていた。
一言も声を発することなく、ニフリートは倒れ込む。そのときにはもう、ニフリートは、自分の全身から噴き出した血液にまみれて、命を落としていた。




