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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第4章:チカラアリ少女行(В Чикараари)
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073_笑い鬼(смеющийся демон)

 初めにクニカが知覚したのは、唇にあてがわれた、ごわごわとした、酸っぱいものだった。それがぶどう酒の酸味であると気付いたとき、クニカの視界に映り込んでいた多色のまだら模様が、ひとりの人物の輪郭を描き出した。


「ミカ……」


 視界に映る人間の名前を、クニカは当て推量で呼ぶ。しかし、何かがおかしかった。


「ミカ、ミカ……?」


 輪郭を形成する無数の曲線が、次第にはっきりとした像を結ぶ。ようやくクニカは、目の前にいるのがフランチェスカだということに気付いた。


 日蝕のうすあかりの中で、ぶどう酒の染み込んだ海綿(スポンジ)を口に咥えたまま、フランチェスカがじっと、クニカを見つめている。ばつが悪くなったクニカは、目を反らした。


「ミカ……しっかりして!」


 遠くから、アアリの声がする。礼拝堂の天井には大穴が空いており、だからクニカは、昼とも夜ともおぼつかない、うすあかりの空に抱かれていた。ここにはフランチェスカがいる。アアリの声がして、ジイクも側にいるのだろう。カイは? リンはどこに?


 クニカの脳内に、直前の記憶が蘇ってくる。魔力が尽きかけ、ミカイアに追いつめられ、そこにジイクが現れ、アアリの魔法が炸裂した。クニカは光に包まれ、ミカイアの身体は光に薙がれて――。


 身を起こすと、クニカは立ち上がろうとする。だが、想像していた以上に全身が軋み、クニカはよろめいて、転びそうになる。


「クニカ!」


 そんなクニカを、後ろからリンが支える。


「良かった、クニカ」

「リン……平気?」

「ああ。ニコルも生きてる。カイもさ。運ばれてるよ」

「ミカは?」


 そう尋ねる間にも、正面にいたジイクとアアリの視線が、自分に注がれるのを、クニカは感じ取った。


 ジイクとアアリの間には、ミカイアが横たわっている。ミカイアの右腕の袖口はきつく縛られていたが、血で赤黒くなっている。ジイクに斬られた右腕が、その傍らに置かれていた。


「新市街の帝国軍は、みな降伏した」


 クニカの隣で、フランチェスカが言う。


「主力の大半は、既に新市街を棄て去っていた。殿(しんがり)が、私たちを欺くために、あえて残ったのだ、と思う。私の作戦は完璧だった。だけど――」


 フランチェスカは口をつぐんだ。ミカイアの肌は紙のように白く、生気がない。アアリの破壊光線は、ミカイアのゼロ距離で爆発し、礼拝堂の天井もろとも、ミカイアをなぎ倒した。


「“神の鉄槌”よ」


 記憶を反芻するクニカに、アアリが言った。


「私の使える奥義(ウパニシャッド)。発動原理は“天雷”と同じだけれど、その数十倍の威力で、物理的な障害も、魔法の結界も、ほとんど突き破れる」


 アアリの説明の間にも、クニカはミカイアの横顔を見つめていた。ミカイアは死にかけている。クニカにも、そのことは分かる。


「あたしの魔力を使って」


 立ち上がったアアリが、クニカの手を握り締める。繋いだ手を通じて、アアリの魔力が、クニカを満たしていく。


「これでよし」


 アアリの言葉は、みずからに言い聞かせるかのようだった。フランチェスカは、ミカイアに近付くと、心配そうにその顔を覗き込んでいる。


「クニカ。ミカを――」

「分かってる」


 そのとき、横たわっていたはずのミカイアが、不意に目を開けた。ミカイアの身体の下から、何かが這い出してきた。その何者かは、長剣を抜き放ち、フランチェスカの胴体を刺し貫く。


「あっ――」


 刺された勢いで、フランチェスカは地面に爪先立ち、そのままバランスを喪って、背中から倒れる。フランチェスカの身体には、長剣が突き刺さったままだった。


 ミカイアの影に潜んでいた人物――ニフリートが、フランチェスカを見下ろしている。


 クニカが息を呑むより前に、ジイクとアアリが長剣を抜き放ち、ニフリートまで殺到する。大瑠璃宮殿ラズール・ドヴァリエーツのオリガがそうであったように、クニカは、ジイクとアアリの抜刀を見切ることができなかった。それほどの速さにもかかわらず、ニフリートの方が、ジイクとアアリよりもなお速かった。ニフリートが、両腕を軽く振り上げる。ジイクとアアリの身体が、床から離れ、壁に叩きつけられる。二人はまるで、見えない巨人に掴まれ、壁に(はりつけ)にされたかのようだった。


「どうした、笑えよ?」


 ニフリートが言った。


「お蔭で、フランチェスカを呼びよせる手間が省けた」

「そんな――」


 フランチェスカは、仰向けに倒れている。クニカ位置からは、表情は分からない。フランチェスカの身体は、おびただしい血の中に沈んでいる。


「どうして――」

「ミカイアの血を吸った後、ボクは彼女の影に隠れた。ミカイアに気を取られている間、キミたちはボクを忘れる」


 面白くなさそうに、ニフリートはミカイアを一瞥した。ニフリートの視線の先を追ったクニカは、ミカイアの首筋、肩のつけ根の辺りに、小さな穴が空いていることに気付いた。


「それが、あなたの能力……」

「笑わせるだろう?」


 肩を震わせ、ニフリートは笑う。


「だから、夢だった。いつか自分の、完璧な複製(コピー)を作ることが。ボクだって人並みに、夢を見ることがある」


 ニフリートが全てを言い終わらないうちに、隣にいたリンが、クニカに右腕を伸ばした。


「リン?」


 ただならぬリンの様子に、クニカは声を掛けたが、リンは


「さがってろ」


 と言うだけだった。リンの左手には、ナイフがきらめく。尖端はニフリートを向いていたが、小刻みに震えていた。リンは押し黙っていたが、鼻息は荒かった。


「ボクを殺そうとしているな?」


 ニフリートが大きく首を傾げてみせる。


「なら、やってみるといい」


 そう言うと、ニフリートはリンの正面で、両腕を水平に拡げてみせる。水色のシャツに、鉛色のズボンを穿()いたニフリートは、着の身着のままで、武器を隠しているようには見えない。それどころか、ニフリートは目を閉じている。


「斬ろうとするな?」


 立ちすくむリンを前にして、ニフリートが言う。


「本気で殺したいのなら、刺しに来い」

「リン、よせ」


 壁に磔にされていたジイクが叫んだのと、リンが大声を上げて、ナイフを振りかぶったのは、ほぼ同時だった。ナイフの尖端が、ニフリートの身体に埋まる。


 次の瞬間、何が起きたか? かん高い悲鳴が、礼拝堂に響きわたる。アアリの悲鳴だった。クニカの全身から汗が噴き出す。壁に磔にされたまま、アアリは身をよじっている。脇腹には赤黒いシミが拡がり、衣服の吸いきれなくなった血が、アアリの足下に滴った。


 茫然とした様子で、リンがニフリートから後ずさる。ニフリートの脇腹には、ナイフが深々と突き刺さっていた。それは、アアリの負傷した箇所と同じ位置だった。


 ナイフの周辺からは、黒い煙のようなものが噴き出している。クニカは、それがニフリートの”闇”で、ナイフの傷がアアリに転送されたのだと、漠然と感じ取った。


「アアリ、しっかり!」


 声を漏らしているアアリに対し、ジイクが呼びかける。アアリを気遣いながらも、ジイクの視線は、ニフリートから離れなかった。


「クニカ、リン、逃げろ――」

「喋るな」


 ジイクの言葉を遮ると、両手を広げた姿勢のまま、ニフリートが指を鳴らす。ジイクとアアリは、まるで金縛りにでもされたかのように、身じろぎを止めてしまった。


「命拾いしたな、アアリ」


 ニフリートは呟いた。不協和音とともに、ニフリートの脇腹に刺さっていたはずのナイフが、その体内へと――より正確には、闇の中へと――吞み込まれていく。


「もしキミが戦い慣れていたら、ナイフはボクの急所だった。アアリは死んでいた」

「あ……っ?!」


 リンが声を上げる。ニフリートの手の動きに合わせ、リンの身体が宙に持ち上がる。


「リン?!」

「ク……ソっ!」


 喉元を苦しそうに手で押さえながら、リンは両足をばたつかせる。


 壁にたなびいていた影の揺らめきを目撃して、クニカははっとする。壁に映ったニフリートの影が、リンの影の首を押さえ、持ち上げていた。


 空いた右手を、ニフリートが握り締める。手の裡からは光があふれ、“天雷”によって満たされる。ニフリートが左手を開く。リンの身体は地面に落下する。


「やめて――!」


 クニカは叫んだ。低くうなる音とともに、ニフリートの投げつけた“天雷”が、リンの身体に直撃する。まばゆい光と、轟音の中心で、リンが背中側に直角に折れ曲がったように、クニカには見えた。それが錯覚なのかどうか、クニカが確かめるより先に、リンは吹き飛ばされ、クニカの後方まで滑っていった。


「リン?!」

「このやろう……!」


 倒れ伏したまま、リンが声を絞り出した。リンは生きていたが、声を出すだけで精いっぱいのようだった。


「クニカに……手を……出すんじゃない……!」


 ニフリートが一歩ずつ、クニカのところまで近づいてくる。


「そんな……」


 ミカイアは、倒れたまま動かない。


 長剣に刺し貫かれ、フランチェスカは横たわっている。その身体から溢れる血を、止められる人間はこの場にいない。


 ジイクとアアリは壁に磔にされ、今は息をしているのかどうかさえ分からない。


 悲しみと怒りとが、クニカの中でないまぜになる。


「ひどい……!」


 ニフリートの動きが、ぴたりと止まる。


「ウ、フ、フ……」


 その唇から、笑みが噴き出した。


「フ、フ、……アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」

「やめて……!」


 ニフリートの哄笑を前にして、クニカは耳を塞ぐ。ニフリートの笑い方は機械的で、無機質で、本来ならば笑うべきではないものを、無理やり笑ってねじ伏せるかのような、そんな笑い方だった。


「やめて……!」

「『ひどい』か、いいな! ボクも殺されそうになったら、そう言うようにしよう」


 笑うのをやめると、ニフリートはそう言った。


「心配は要らない。ジイクもアアリも……リン、キミだって殺しはしない。生きてもらう必要がある。生きて、証人になってもらう」


 リンは返事をしなかった。息をするだけで精一杯のようだった。


 手を伸ばすと、ニフリートがクニカの両腕を掴む。ニフリートの指は、氷のように冷たかった。


「離して……!」

「“竜”の魔法使い。それをコピーできれば、どれほど面白いだろう……」


 逃げ出そうにも、クニカは足がすくんでいた。それに、ニフリートの手首を絞めつける力は、万力のように固い。口を開くと、ニフリートは自分の歯を、クニカの首筋にあてがおうとする。ニフリートは、クニカの血を吸って、クニカを操り人形にするつもりなのだ。ミカイアにそうしたように。


(血を……)


 その瞬間、クニカの頭の中に、ひらめきの火花がほとばしる。ニフリートがクニカの血を吸うとき、一瞬であっても、クニカとニフリートは、流れ込んだ血液を通じて、その身体を共有することになる。


 それはつまり――。


「さようなら」


 ニフリートは目を細め、クニカの首筋めがけ、牙をむく。


「クニカ!」


 ニフリートに体重を預けられ、よろめくクニカの耳に、リンの叫びが聞こえる。


(今だ)


 首筋に痛みを覚えると同時に、クニカは“祈った”。次の瞬間、ニフリートの身体は、まるで稲妻にでも触れたかのように大きく震え、クニカからのけ反った。


「痛い……!」


 肩にできた小さな傷口を指で押さえつつ、クニカは倒れ込む。しかしクニカは、自分の企みが成功したことに気付いていた。


 一言も声を発することなく、ニフリートは倒れ込む。そのときにはもう、ニフリートは、自分の全身から噴き出した血液にまみれて、命を落としていた。

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