第107話 「平穏に刻まれる亀裂」
怖気を震った。これが単なる偶然の一致だとは思えないような、凄まじい存在感があった。
「ペトリーナ!」
俺は咄嗟に踵を返してコルティ家に戻った。ジェイルに構っている暇など無いと直感が告げていた。
家の玄関は開きっぱなしだった。ペトリーナの姿は無い。どこだ。ペトリーナはどこにいる。
ジェイルを出迎えた時にペトリーナが履いていた靴は、靴箱に戻されていない。あれを履いたままという事は、彼女は外にいるのか。
でもペトリーナとはすれ違わなかった。正門から外には出ていないはずだ。となると、中庭に向かったのか? あるいは……。
「神降宮か」
玄関から外靴を履いて向かう場所といえば、真っ先に思い付くのはそこだ。この家で一番荘厳な施設。神が降り立つ場所とされる聖地。
予想通り、ペトリーナは神降宮にいた。門に体を凭れて、ぐったりと疲れた顔色を浮かべている。
「ペトリーナ……?」
「あ……アレイヤさん。私、本当に申し訳ない事を……」
ペトリーナの声は弱々しかった。今にも泣き出しそうな勢いだった。
「壺の事はもう気にするな。あの古物商は偽物だ。俺の知り合いのジェイルって男で……」
「そうじゃありませんの。あぁ……私、一度ならず二度までも……。宮守の一族として、これ以上の罪はありませんわ。私、なんと責任を取れば」
ペトリーナの様子は妙だった。壺を割った件について謝ってる訳ではなさそうだ。一体、何があったんだ?
ペトリーナは震える口を、ゆっくり開いた。
「私……神降玉を壊してしまいました」
神降玉。どこかで耳にした名前だ。ペトリーナの怯えようから察するに、もしかして。
「それって、神様が降臨するっていう、あの宝石か?」
ペトリーナは黙って頷いた。
神降宮の中央の祭壇には、縄で縛られた巨大な宝石が祀られている。神様が『祭典の日』に地上に降り立ち、滞在するとされる『足場』こそが、あの宝石だ。
「それは……マズいよな」
「そうなんです! 宮守は神降宮を守るのが役目なのに……一番の宝である神降玉を壊してしまうなんて! 私、信徒の皆さんとご先祖様に何とお詫びすれば……」
ペトリーナは今まで見た事無いくらいに意気消沈していた。慰めの言葉をかけてあげたいけれど、宗教に詳しくない俺が「平気だよ」なんて無責任な事を言っても気休めにもなりやしない。
「とりあえず、ズォリアさんに謝りに行こう。あの人なら何とかしてくれるよ」
俺が提案出来るのはこのくらいだった。ペトリーナは涙目で頷いた。
ズォリアが仕事から帰って来たのは意外と早かった。帰宅するや否や、ズォリアは慌てた形相でリビングに駆け込んだ。
「おいおい見たか。真っ黒な雲を裂く青い閃光! しかも良く見たら、うちから出てるじゃないか! 何かあったか? みんな無事だろうな!?」
ズォリアもあの青い光を見たのだ。それで嫌な予感を覚えて急いで戻って来た所か。
「はい、お父様。子供達も全員元気ですわ。それで……実は」
「ん? どうした!?」
ペトリーナが神妙な顔をしているので、ズォリアは心配そうに尋ねた。ペトリーナは重苦しい声で、ただし理路整然と現状を説明した。
「ふむ……神降玉が壊れたのか……」
ペトリーナに何か危険が及んだ訳ではないと知って安心した様子のズォリアだった。しかしこの家一番の宝が破損したと聞いて、気楽な顔をしてられる訳も無い。宮守としてのズォリアが、突如として対面した正念場だった。
「とにかく、現場を見せてくれ。多少の破損なら直せるかもしれん」
「……!? 本当ですか!? お父様!」
顔を明るくするペトリーナ。ズォリアは思案顔をして答えた。
「まぁ三千年近く続く宮守の歴史で、神降玉に傷が付いたのが一度も無かった訳じゃない。最近は破損事故は無かったが……文献を漁れば修復方法も残っているだろう。そんなに落ち込むな。祭典の日までに直せばいい」
ズォリアは落ち着いていた。それを目の当たりにしてペトリーナも胸を撫で下ろす。取り返しの付かない大失敗では無かった。
「良かった……。ですが、私の軽率さが招いた事故なのは事実です。申し訳ありません、お父様」
「失敗は誰でもある。次から気を付ければいいだけだ。しかし、何故神降宮に行ったんだ? 信仰魔術を捧げに行ったのか?」
「えっと、それはですね」
ペトリーナはジェイルの押し売りの件を話した。結局あれは何だったのだろう。ジェイルの意図が未だに分からなかった。
「その古物商の方の大切な壺を割ってしまって……。後でまたいらっしゃるとの事でしたので、謝罪する前にメリシアル神に懺悔を捧げようかと思ったのです」
「なるほどな。責任を取る姿勢は結構だが、それ詐欺師かもしれんぞ。わざと壺を割らせて賠償金を請求する手口だ」
「えっ、そんな」
「その怪しい古物商はまた来るのだろう? その時はワシを呼べ。話を付けてやろう」
ズォリアはニヤリと笑った。強面のズォリアが笑っても、むしろ怖い。並の詐欺師ならズォリアの気迫に負けて玄関で引き返すだろう。
でもジェイルは『並』の人間ではないし、そもそも単なる詐欺師だったんだろうか? 意味不明なジェイルの言動……あの真意は、金目当ての詐欺よりよっぽど恐ろしい気がする。
ズォリアとペトリーナと俺は神降宮にやって来た。俺は本来なら神降宮に入ってはいけないが、今回は特別にズォリアが許可を出してくれた。
「むぅ……これは豪快に壊れてるな」
門を開けて祭壇を確認したズォリアは、まずそう言った。
神降玉は真っ二つに割れていた。切れ味のいい刀で両断したのかと見紛う程、綺麗な断面だった。こんなの、やろうと思って出来る壊し方じゃない。
「経年劣化で蓄積した傷が、限界を迎えて一気に広がったんだろうな。まぁ寿命みたいなものだろう」
ズォリアは神降玉に触れて分析した。確かに、この綺麗な壊れ方は人為的には見えないし、そもそもペトリーナがわざと壊す訳がない。元々痛んでいた宝石に、うっかりペトリーナがトドメを刺してしまっただけだ。運が悪かったという訳だ。
「すみません。私が迂闊に触らなければ」
謝るペトリーナは汗をかいていた。息が少し乱れて、頬が赤い。
「もう謝らんでいい。ワシが直すから気にするなと言っただろう。……しかし、妙に息苦しいな。ガハハハッ! ワシもちょっと動揺しとるのかもな! 神降玉が割れるなど初めて見たしな!」
ズォリアも汗を流して、笑い声を発した。息苦しいのは俺も同じだ。この部屋が暑いのか? 前に来た時は、こんなに暑くなかったのに。むしろ涼しくて、安らげる感覚に満ちていたのに。
「私が……わた、わ、わたし……私、は……」
ペトリーナは呂律が回らず、口調が変だった。明らかに様子がおかしい。
「……ペトリーナ? 熱でもあるのか?」
俺はペトリーナの額に触れようとした。しかし、ペトリーナはさっと身を避けて怯えた表情をする。
「えっ? ご、ごめん」
驚かせちゃったか。でも、そんなに目を見開かなくてもいいのに。
「あ……あぅ……。誰、です。や……入って来ない、で……」
ペトリーナは虚な目で俺を見た。口から涎を垂らし、全身を震えさせる。声と目付きが拒絶を表していた。大袈裟な態度……と呼ぶには、あまりにも真に迫っていた。
「ペトリーナ? なぁ、どうしたんだよ」
「む? 何だ。体調が優れないか?」
俺とズォリアはペトリーナを心配して声をかけた。ペトリーナは何も答えない……かと思うと、ハッとした表情で俺達を交互に見た。
「い、いえ……。何でもありません、わ。大丈夫です」
微笑む彼女の頬は引き攣っていた。




