第102話 「衝動を失った者はどこへ行く」
目が覚めると、ほんのり暖かな空気に包まれていた。俺がベッドに寝かされているのだと、数秒かけて気付いた。
薬品の匂いが鼻をくすぐる。ここは……保健室か。魔術学校の。でも、何故俺は保健室で眠っていた?
「お目覚め? 体調はどうかな」
保健室の女医さんが、カルテを見ながら俺に語りかけた。「えっと……大丈夫、だと思います」と俺は朦朧とした頭で答える。
「すみません、今って何時ですか」
「10時。夜のね。時間外勤務までして君を看病したんだ。感謝してよね」
女医さんは軽快に答えた。確かに、壁の時計は夜10時を少し超えた辺りを指している。
「そんなに寝てたのか……。すいません、ご迷惑をおかけして」
「あはは。冗談冗談。人助けは私の本懐だよ。それに、君は大した患者じゃなかった。重症なのはむしろあの子かもね」
女医さんは俺の反対側のベッドを一瞥した。そこにはペトリーナが眠っていた。
「ペトリーナ!?」
「君をここまで運んできたんだ。事情を聞くまでもなく倒れちゃってね。そりゃ放っておけないし、君ら二人を診る事にしたけど……一体何があったのかな? 戦争でも始めたとか? 彼女の魔力、空っぽ寸前だったよ。もうちょっと遅かったら脳に障害が残ったかもね」
物騒な単語が聞こえた。戦争? 魔力が空? ペトリーナの身に何があったんだ。
俺は記憶の糸を手繰る。俺はグリミラズと戦って、ペトリーナに助けられて。ペトリーナが俺に触れた途端、俺は強烈な睡魔に襲われたんだ。
あれは彼女の精神魔術だったんだろうか。眠らされた俺が無事に保健室に運ばれて、ペトリーナも一緒にいるって事は……もしかしてペトリーナがグリミラズを倒したのか?
「……いや」
それはありえない。ペトリーナがいくら優秀な魔術師だと言って、グリミラズには勝てない。俺を連れてグリミラズから逃げたと考えるのが妥当だろう。
そのためにペトリーナは魔力を使い果たしたのだ。全力で俺を助け出してくれて……ペトリーナには本当に感謝しなくては。
「ペトリーナは大丈夫なんですか」
「私を誰だと思ってるの? 『百の薬よりアンナの触診』とまで言われた治療魔術の専門家、アンナさんだよ? 魔術で治せる病気は全部治してみせるとも」
その異名は初めて聞いたけど、信頼出来る腕前らしい。良かった。ペトリーナに身に何も無くて。
「魔力回復の点滴も打ったし、諸々の不調や疲労は魔術で治しておいた。後は十分な睡眠だけね。で、何があったの? 大事件なら学校のお偉いさんとか王宮兵士とかに報告すべき案件だけど」
アンナ女医は心配そうに尋ねた。俺達が大きな事件に巻き込まれたと考えているらしい。実際、その認識は大きな誤りじゃない。でも、『巻き込まれた』とは言い難い。グリミラズとの戦いは俺が望んだ事だ。
……『望んだ』?
そうだったっけ。
「俺は……」
思考が混在する。矛盾した心がせめぎ合う。俺の本心はどこだ。
「失礼するッ! 見舞いに来たぞッ! アレイヤッ!」
騒々しい声と共に、仰々しい所作でドアを開ける男が一人。ワントレインが保健室にやって来た。
「ワントレイン君。保健室ではお静かにね」
「むッ! これは失敬ッ! してアレイヤッ! 果物を持って来たぞッ! 食って元気を出せッ!」
アンナ女医に窘められてもワントレインは大声で言った。これが彼なりの『普通の音量』なのかもしれない。
「あ……ありがとうワントレイン」
俺はワントレインの見舞品の果物を受け取った。そんなお見舞いをされる程の大怪我ではないけど。ここは病院じゃなくて保健室だし。
「精神が乱れているぞ、アレイヤッ! 悩み事でもあるのかッ!? それとも疲れているのかッ!」
「え?」
俺の精神が乱れている? そうなんだろうか。
ワントレインの『魔流眼』は魔力の流れを見れる。それはつまり、人の心の動きも把握出来るという事だ。俺の心に異常があれば、ワントレインにはお見通しだ。
「ハナミ料理長に襲われた時もそうだったッ! アレイヤが急に正気を失ったような……見ていて不安になったぞッ!」
四色との戦いでネックレスに触れた時、そしてグリミラズと対峙した時。俺は心の主導権を奪われるような感覚に陥った。あれがワントレインの言う『乱れている』状態か?
正直、その状態の記憶は曖昧だ。この不可思議さをそろそろ明瞭にしなきゃいけない。逃げている場合じゃないんだ。
「ワントレイン。その時の俺ってどんな風だった?」
俺は勇気を持って尋ねた。彼なら答えを知っているはずだ。
「ふむッ! 思考があちらこちらへ無秩序に向かっているようで、しかしながら時に一つの感情に集中する時もあったッ! 特に『怒り』へのベクトルは凄まじいものだったッ! 何をそんなに怒っていたのだッ? 今はやや落ち着いているようだがッ」
怒りの感情……。それが俺の『異常』の正体か。
俺は復讐者である事に執着し、憎悪しなければと焦っていた。
何故そんな状態に至ったのか。心当たりがまるで無い。俺はこんなに冷静さを欠く人間だったっけ。
「グリミラズの人術のせいですわ」
俺は向かいのベッドに振り向いた。ペトリーナが起き上がって俺を見ていた。
「ペトリーナ……もう大丈夫なのか?」
「えぇ、大した事ありませんわ。それより聞いて下さいまし。グリミラズは人の心を洗脳する人術で、アレイヤさんを操っていたんです」
「何だって?」
洗脳の人術? そんな……だとしたら俺は。
「アレイヤさん。あなたは復讐者にさせられていたのですわ。あの男がアレイヤさんを逃さないために」
俺の根幹が崩れる。確かなものだと信じていたのに、いとも容易く嘘になる。
俺は復讐者じゃなかった。憎悪に駆られたあの日から、俺の心は偽物だった。
偽りの感情と俺の本心が入り乱れ、衝突する。それがきっとワントレインが見た『精神の乱れ』なのだろう。
ペトリーナの精神魔術で落ち着いたから、俺の憎悪は薄れてきている。グリミラズの事を考えても、前みたいに怒りに支配されない。『洗脳の人術』とやらの効果が解けつつあるのか。
「そっか……俺は」
俺の心は自由になった。なったとして、これからどうしよう。今までは明快だった行き先が、急に隠れて見えなくなってしまう。
俺はベッドから出て、保健室の扉に手をかけた。
「おいおーい。どこ行くの? もう元気になった?」
アンナさんが呼び止めたけど、俺は「平気です」と振り返らずに答えた。
「アレイヤさん……」
ペトリーナが何か伝えたそうに呟いた。その先の言葉から逃げるように、俺は廊下を駆け抜けた。




