第101話 「牙に抗う」
「いたっ……!」
反射的にペトリーナは己の足を見た。口だけで動く異形の生物のような物体が、ペトリーナの太腿を挟んで離さない。じわじわと噛む力を強め、肉を食い千切ろうとしていた。
「ア……『アイス・ネイル』!」
慌ててペトリーナは氷魔術を発動した。小さな氷塊の群れが、《歯蝕》の歯にぶつかって攻撃する。歯は氷の弾丸に押され、ついには剥ぎ落とされた。
ペトリーナから離れた歯はすぐさま消えた。ペトリーナの足には歯形と血が残る。
今のは具現化魔術? 正体不明の攻撃に、ペトリーナは困惑した。歯を生成する具現化魔術なんて聞いた事が無い。それ以上に、自分より相手に近い場所に物体を作り出す具現化魔術は、具現化魔術の法則に反している。
法則に反して当然だ。これは魔術ではなく人術。グリミラズが独自に編み出した、『人の体に歯を突き立てる技』。獲物に食らいつき捕食する、歯の役割の過大解釈だ。
《歯蝕》で食べた物はグリミラズの胃袋へ転送される。自分の歯で食べなくても《歯蝕》の歯で食べれば生命エネルギーは吸収出来る。《歯蝕》は攻撃技だが、同時に《死食》の発動を補佐する役目も担っていた。
「ふふっ。一つ弾いた程度では逃れられませんよ。僕の牙からは」
グリミラズは再び《歯蝕》を発動する。今度はペトリーナの右腕に歯が発生した。もっと強い力でペトリーナを食らおうと歯を押し付ける。
「っ……『ハイドロ・ドレス』!」
痛みに耐えながらペトリーナは水魔術を行使した。水の衣服がペトリーナを包み、《歯蝕》の歯を洗い流す。ペトリーナの傷口から出た血が水の衣装に混じるが、すぐに治療魔術を同時使用する事で止血した。
「おや」
これはグリミラズにとって誤算だった。《歯蝕》の歯と一緒に、ペトリーナの首筋に滴る唾液まで流されてしまった。
《歯蝕》の発動には条件がある。対象の体のどこかに、グリミラズの唾液を付着させなければならないのだ。唾液が取れたり、乾いてしまえば歯を突き立てられない。
『ハイドロ・ドレス』でペトリーナは《歯蝕》の効果対象から逃れた。実は偶然ではなく、ペトリーナの推測通りの展開だ。グリミラズが攻撃を仕掛ける前の、うなじを舐める行為……これに意味が無いとは思えなかったのだ。
グリミラズが変態だと言えばそれだけかもしれないが、この状況でやるには不自然すぎる行為なのも事実だ。人術の発動条件だと考えれば、そこそこ辻褄は合う。
歯を払い除けるついでに唾液も洗い流してみたペトリーナだったが、実際その判断は正しかった。
「賢いのか勘が良いのか。全く想定外ですねぇ」
《歯蝕》を初見で見抜き、的確な対処をした人間は数少ない。もう一度ペトリーナに唾を付けようとしても無意味だろう。
しかしグリミラズは気にしなかった。《歯蝕》以外の攻撃方法はいくらでもある。基礎人術で身体強化し、単純な暴力で蹂躙するのも良し。五つ星以上の破壊力を持つ魔術の連打で、徹底的に押し潰すのも良し。格上であるグリミラズは、多少の想定外などに追い詰められない。
ペトリーナもそれは理解していた。元より、勝てるだなんて思っていない。抗う事そのものに意味があった。本当の目的は、アレイヤと一緒に無事に逃げ出す事だ。
相手が理不尽なまでの強敵だとしても、最初から屈服するのと、抗う意思を見せてから逃げるのでは違う。勝てなくたって、戦うべき時には戦うのだ。
残りの魔力量を鑑みても、最後に一発大きな魔術を使うのが精一杯だ。ここで終わらせる、ペトリーナはそう決めた。
「メリシアル神よ。鎮静と正義を司る我らの女神よ。かの者に裁きを。過ぎたる力を身に宿す、私の強欲に裁きを」
これは神罰の具現化。創生神話の時代から受け継がれた、原初の魔術。コルティ家の奥義だ。
代償はある。裁きを下す傲慢には、同様に裁きが下される。この魔術を使えば、きっと魔力は枯渇するだろう。精神そのものである魔力が枯渇する事がどういう結果をもたらすか。ペトリーナは知らない訳ではない。
故に失敗は許されない。この一撃が決着だ。
「『メリシアル・カタストロフィー』」
地が唸る。天が怒る。空気が揺れる音が騒々しい。
今、世界で唯一、この場所だけが。メリシアルの断罪を受ける。人々の目にはそう映るだろう。
「……これは!?」
グリミラズは声を荒げた。魔術の規格を超えた現象が起きようとしている。
地震は次第に激しさを増した。床に亀裂が走り、壁が崩れゆく。外は突発的な雷雨に見舞われた。風が窓を叩き、まるで世界の終わりを告げるかのような騒ぎだった。
天変地異を起こす魔術。言葉で表現すれば簡単そうだが、無論あり得ざる現実だ。
物体を具現化するでもなく、精神に干渉するでもなく、『現象』そのものを再現する。魔力が……人の思いが……世界のあり方を変える。なんと夢のようで、驕った力なのだろう。
これは神に仕える者だけが扱えて、神に仕える者でさえ許されない力。ペトリーナは覚悟を抱いて、切り札を発動した。
「くっ……」
揺れる地面に惑わされ、グリミラズはバランスを崩した。《傾立》で咄嗟に体勢を保つが、今度は床の亀裂に足を取られてしまう。床に挟まって足が抜けない状態で、追い討ちをかけるように天井が崩れてグリミラズに降ってきた。
《鋼被表皮》で全身を硬くしているから軽傷で済んだものの、このまま立ち尽くしていたら古城が倒壊して生き埋めになるのは時間の問題だ。瓦礫に埋もれて死んだなら、《死食》の能力で復活するだろう。しかしすぐに再び死んで、また復活を繰り返す。無駄に死と再生を繰り返せば、せっかく蓄えた生命エネルギーを消費してしまうだけだ。
不死の能力とは言え、無限に使える訳ではない。有限のリソースを保管するためにも、必要以上に死ぬのは避けたかった。死と復活が短時間で頻発するような状況は、《死食》の弱点でもあった。
「全く……最近の僕は運が悪い」
独り言で愚痴を溢しながら、グリミラズはここからの脱出を最優先した。床を無理矢理壊し、足を引き抜く。不均等な足場で踏ん張って立ちながら、古城の外へ向かう。外は暴風雨に晒されているが、生き埋めになるよりはマシだ。
撤退を選択したグリミラズは、ペトリーナに意識を向ける余裕は無かった。その隙に、ペトリーナはアレイヤを背負って脱出する。たとえ大災害の最中でも、魔術使用者のペトリーナだけは被害を免れる。一人だけ運よく無事でいられるその光景は、長年メリシアル教の信徒に『神の加護』と称えられた。
「ごめんなさい、アレイヤさん。ゆっくり休んで欲しかったのですけれど、こんなに騒がしくしてしまいましたわ」
まだ目覚めないアレイヤに、ペトリーナは語りかけた。『メリシアル・カタストロフィー』の影響を受けないのはペトリーナだけで、アレイヤは別だ。敵以外の人にも巻き込んでしまうのが、この切り札の欠点の一つだった。
アレイヤを庇いつつ、ペトリーナは逃げる。結局グリミラズを倒す事は出来なかった。だがそれでも、この結末はペトリーナにとって十分な『勝利』であった。
とにかく今は、少しでも遠い場所へ。
もうペトリーナに戦う力は残っていない。『メリシアル・カタストロフィー』で魔力が底を突いた彼女は、初級魔術すら放てない。意識が朦朧とし、体がフラつきながらも、ペトリーナは必死になって歩を進めた。
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